「神の主権により聖別された者」          T列王記8:41〜53

ソロモンは、ダビデの時代から神が約束されたエルサレム神殿完成が実現したことを感謝し、神を礼拝し祈りをささげています。
その祈りの続きです。


41〜43節

ソロモンは同国民のことだけでなく、外国人のためにも祈っています。やがて神を求めてこの神殿で祈るであろう外国の民たちのためにも祈りました。
「神の大いなる御名と力強い御手と伸べられた腕について聞く」であろう彼らのためにも、とりなして祈るのです。
神は世界の人々を心に留めておられます。
ですから、私たちも自分の所属している国や教会のことだけでなく、世界中に遣わされている主の民のためにも事あるごとにとりなして祈りましょう。


44〜45節

遠く離れた地に遣わされたイスラエルの民たちのためにもとりなします。
特に戦場に送られた人々のことを思っているのかもしれませんが、彼らがその孤独や苦しみの中で祈る祈りにも、その祈り聞いてくださいと祈ります。


46〜50節

神に罪を犯した結果、敵国に捕虜として捕らえられて行った時にも、彼らが反省し悔い改めて神に立ち返るなら、彼らの背きの罪を赦してくださるようにと祈っています。
その前提として、「罪を犯さない人間はひとりもいないのですから」(46節)という事実があります。
彼らがやがて捕虜として連れて行かれた時に、その捕らえていった敵国の人々に「あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてください」(50節)と、敵国の人たちの心までが変えられるようにと祈り求めています。
人の心が変えられるようにという願いも、私たちは祈ってよいのです。
人の優しい言葉も、苦しむ人の心を和らげたり慰めたりしますが、根本的な心は神しか変えられない領域でもあります。そのためにも、私たちはとりなし祈り続けることができるのです。
ソロモンがここで祈ったように、捕虜として連れて行かれた地でも熱心に神に祈りをささげた人として、ダニエルがいます(ダニエル6:10)。
ダニエルが少年の時に、バビロン王ネブカデネザルがエルサレムを包囲し、王族貴族や職人を中心に、エルサレムの多くの民たちがバビロンに連れて行かれました。
捕囚という辛い状況の中でも、ダニエルは日に三度ひざまずき、神に祈り感謝をささげたのです。
そして恐らくイスラエルの回復のためにとりなし祈ったことでしょう。
ソロモンがここで祈った祈りを、神はバビロン捕囚の時代に実現してくださったのです。


51〜53節

「彼らはあなたの民である」からこそ、「たとえ民たちが捕囚で連れて行かれても、その地で彼らの祈りを聞き、彼らをあわれんでください」とソロモンは祈ります。
「彼らはあなたの民です、私たちはあなたの民です、だからこそ、祈りを聞きあわれんでください」と祈ることができるのです。
そして神の民の祈りを、神は聞いてくださり、必ずその実を見せてくださるのです。
イスラエルが、奴隷として苦しんだエジプトから解放されたのも、彼らが神の民であり、彼らの嘆き苦しみを神がご覧になってあわれんでくださったからでした(51節)。
400年以上その苦しみは続きましたが、確かに神はイスラエルをあわれんでくださったのです。
キリストによって救われた私たちも、神はご自身の民としてあわれんでくださいます。
その苦しみ嘆きから目を背けておられるわけではないのです。
私たちの苦しみを共に担いながらも歩んでいてくださり、そしてその祈りを決してムダにはされないのです。
「あなたが彼らを地上のすべての国々の民から区別してご自身のものとされたのです」では、「あなたが」という語が強調されています。
神ご自身が、ご自分の民として特別に区別してくださったのです。
それはどこまでも神の主権によることで、こちらの何かに一切よらないことなのです。
「私が頑張って神の民という特権を勝ち取りました」というなら、こちらの状態が悪くなったら取り消されそうで、いつもビクビクしていなければならないでしょう。
でもどこまでも神ご自身の主権でなされたことであるなら、私たちは自分の状態がどうであろうとも安心して主に任せていられるのです。
罪の奴隷であった状態から、私たちを救い出してくださったのも、神の主権によるのです。
私たちの行いによらず、神のあわれみが先立って私たちは罪洗われ救われたのです(テトス3:5)ですから、自分の状態にとらわれることなく、どんな時にも「私はあなたのものです」と告白し、「あなたの民である私の祈りに答えてください」と大胆に祈ることができるのです。



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