「主と一つにしてください」
T列王記8:54〜66
ダビデの子ソロモンの時代にエルサレム神殿が完成しました。
ソロモンはイスラエルの民たちと共に、父ダビデに約束した通りに神殿を建ててくださった神への感謝と、これからのイスラエルのために祈りました(53節まで)。
54〜55節
そしてソロモンは祈り終わって祭壇から立ち上がり、61節までイスラエル全集団への祝祷をします。
56節
ここでソロモンは、イスラエルの歴史を思い起こします。数百年にわたる歩みの中で、神様の約束は一つもたがわず成就されました。
確かに苦しみの時期があり、神の約束を見失いそうになった時もあったでしょう。
民の側は目に見える偶像に心寄せる不信仰の連続でしたが、神の側は全く動くことなく、長い歴史の中でご自身の約束を実現してくださったのです。
ソロモンは、その変わることのない神ご自身とその真実の言葉に心を留めています。
短い期間ではわからない神のわざがあります。
何十年、何百年経って見えてくる神の事実があります。
わからない時は、神の約束と、神が歴史の中で働かれた事実を思い起こして、神のわざを信じて待ち望みましょう。
神は私たちが期待をもって待ち望むところで、力強く働いてくださいます。
イエス様の人間性に着目して、その神の子としての力に期待しなかった故郷では、イエス様はあまり力あるわざを行われませんでした(マルコ6:1〜6)。
神がこれまでに見せてくださったわざをしっかり心に留めつつ、みことばが必ず成ることを信じて主に期待していく時に、主はまたしるしと不思議をもって答えてくださるのです。
57節
イスラエルの歴史を振り返るときに、民たちは何度も神から離れ、偶像に走っていき神を悲しませてばかりでした。
荒野でも不平を言い、神を侮ることの連続でした。
しかし神はなおもご自身の民を見放さず、あわれんでくださったのです。
そのように人間の弱さを思うときに、いつ道を外すか分からない危なっかしい者であることをソロモンは思い、「民たちの愚かさをあわれんでくださり、先祖をあわれんでくださったようにこれからも民をあわれみ、見捨てないでください」ととりなし祈ります。
58節
人の心はすぐに目に見えるものに心が傾く弱さをもっています。
だからこそ、「私たちの心を主に向けさせてください」とソロモンは祈ります。
すぐに自分勝手な道を造って、神の道からさ迷い出てしまう弱さをもっているからこそ、「主のすべての道に歩めるようにしてください」と祈るのです。
主の助けなしには、私たちは主の道を歩むこともできないのです。
59〜60節
エルサレム神殿の中心が、祈りであるようにとソロモンは願い求めます。
神への祈りが、常に生活の中心であるようにと祈ります。
そしてその祈りの生活そのものが、主のすばらしさを証しすることにつながっていくのです。
それは祈ったことがすぐに聞かれたとか、奇跡が起きたということだけではなく、祈る者たち自身が祈りの中で神ご自身に触れ、神の品性をいただいたり変えられていくことによって、神の存在が証しされていくのです。
61節
祝祷の結びです。「主と心を全く一つにすること」が、祝福の道であることを伝えます。
二心にならず、心が真っ直ぐ神に向けられていくことこそ、繁栄の道なのです(詩篇1:2〜3)。
ソロモンはそのことを知識では知っていましたが、晩年は他のもの(偶像)に心を奪われてしましまいます(11:3〜6)。
主と一つになることが大切なことだと分かっていても、いかにそれができない者であるかを知らされます。
旧約の信仰者たちを見ていても、そのように幻滅することばかりなのです。
神殿建設に当たっては、このようにすばらしいとりなしの祈りをしていたソロモンも、晩年には異邦人の妻たちに惑わされ、偶像に走ってしまうのです。
人はどこまでいってもどうしようもない存在で、神のあわれみがなければ誰一人最終的に神の御前に立つことはできないのです。
62〜66節
ささげられたいけにえの量が多すぎて、神殿の前庭を用いなければならないほどでした。
そしてレボ・ハマテ(北)からエジプト川(南)に至る全イスラエルで、2週間にわたり神殿建設を終えて感謝の祭りを主の前で行いました。
ソロモンは、神殿建設を無事終えて、民たちを祝福し、主と心を一つにして歩むように命じます。
しかし結局ソロモン自身が晩年には主と一つではない事態に陥ります。
ですから人間の信仰というものも当てにはならないのです。
どんなに熱心に見えても、何かあれば簡単に転んでしまうものです。
ソロモン自身も、民たちに命じる前に、主と心を一つにすることを自分自身の祈りとすべきであったのかもしれません。
「主と心を全く一つにする」ためには、私たちの肉の思いが常に砕かれていく必要があります。
自分の思いに神を従わせようとする傲慢が、たえず打ち砕かれなければなりません。
神は常に正しい方で、私という人間は常に間違う者なのです。
神が私たちを造られ、造られた私たちは神の主権を認め、神に従うものとして生かされているのです。
自分の思いと違っても、主がそれを良しとされるなら、私たちはそれに従っていくのです。
自分の思いと違っても、主のみこころを受け取っていくことが砕かれていくことです。
たとえ理由が分からなくても、必ず主が「将来と希望を与える平安の計画」(エレミヤ29:11)を立てていてくださることを信じて、主の導きを受け取っていきましょう。