「神の名のために聖別した宮」
T列王記9:1〜28
1〜2節
神殿、王宮、その他ソロモンが造ろうとしてすべてのものが完成した時に、神はギブオンで再びソロモンに現れます。
3節
神はソロモンの祈り(8:28〜53)を聞いてくださり、宮を聖別し、そこでささげられる祈りに心を留めてくださることを約束します。
神が聖別した主の宮は、神を礼拝することが第一です。神礼拝が何よりも優先されるのです。何をするにも、祈りで始まり祈りで終わり、人の言葉よりも神の言葉が尊ばれていくのが神の神殿です。
教会も同じように、様々な活動や集会があっても、神礼拝が中心であることを、私たちは常に心に留める必要があります。
6〜9節
前回ギブオンで神が語られた時(3:5〜14)とは違って、今回は厳しい警告も語られています。それは、他の偶像の神や目に見えるものを慕って神礼拝を疎かにするなら、この宮は廃墟となり、国民の笑いものとなるという内容です。
そして残念なことに、やがてイスラエルはこの通りのことを経験することになります。また今もキリスト教国と言われている国々の礼拝堂が、次々に飲み屋や他の宗教の寺院などになっています。
いくら人が集まり、活動が盛んでも、そこに集う者たちの心が神から離れていたら、やがては廃墟と化するのです。
ソロモンが神殿と王宮を建てるにあたっては、ツロの王ヒラムがかなりの資材や人材を送って協力しました。それに対して、ソロモンはガリラヤ地方の20の町をヒラムに与えますが、ヒラムは気に入りませんでした(11〜14節)。
その町々はカブル(「無いのと同じ」の意味)の地と呼ばれます。またヒラム(フラム)は、ついにその土地を返してしまいます(U歴代誌8:2)。
この出来事が、ソロモンの問題であったのか、ヒラムの問題であったのかは記されていません。ヒラムは、「あれだけのことをしてやったのに、見返りはこの程度か」と怒ったのかもしれません。
人と人との関係だと、当然そのようなことが起きてくるでしょう。でも神様にささげたものでも、どこかでそのように思ってしまうことがあるかもしれません。
「これだけ献金したのに、神様は一向に祈りを聞いてくださらない」とか、「こんなに兄弟姉妹を助けるために時間と労力とお金を使ったのに、何の見返りももらえなかった、それどころかどんでもない苦しみが舞い込んできた」というのは、実は神を偶像の神と同じに扱っているようなものです。
「これだけささげ、これだけ良いことをしたのだから、神様は私を祝福するべきだ」という考え方ですから、それはもう主権が自分になっているのです。
「これだけしたのだから、私の願いどおりにしなさい」というご利益信仰的考えは、神の主権を認める聖書の信仰とは正反対です。
確かに、神は喜んでささげる人を愛し、祝福してくださいます(Uコリント9:6〜12)。
でもその祝福は、神の目からみた祝福であって、私たちの思いが実現することではないのです。また心から喜んでささげるときには、ささげること自体が喜びですから、
本来見返りなどは求めないでしょう。ヒラムの場合は、国益を考えた上でのイスラエル王ソロモンとの関係でしたから、やはりそれなりの見返りを求めていたのかもしれません。
またソロモンも欲が出て、良い土地は自分のために残しておこうとして、残り物のあまり価値のない土地を形だけヒラムに渡そうとしたのかもしれません。
いずれにしても、純粋な友好関係ではなく、互いの利害関係でのつながりは、損得勘定で簡単に壊れてしまいます。
ソロモンが建設した物のリストが、15〜19節に記され、東洋との海運に力を入れたことなども26〜28節ではうかがわれます。
国内外の協力も得ながら、イスラエルの国は組織的にも整えられていきました。勢いがあるときに手がけたことも、それを維持していくことは大変なことでしょう。
その時に、何を最も大切なこととしていくかが問われてきます。決められた財源、人材の中で、今まではできても段々維持することが難しくなってくることは多々あります。
やがて優先順位を決めて、取捨選択しなければならないことも出てきます。
ソロモンの場合は一国の王ですが、神によって立てられ、神の知恵を受けてここまで導かれてきました。何よりもその中心は、神礼拝を土台とする神殿建設でした。
しかし国が巨大化していく中で、色々なことに心が割かれ、神の名が置かれ聖別された神殿での神礼拝がおざなりにされ、やがて他の偶像に心を寄せるようになっいきます。
神の名のために聖別された宮は、神を礼拝することが第一にされるべきです。
私たちの心がどこにあり、何を優先するのか、神は常に問われています。
神を礼拝することなしには何もできない、祈りなしには何も始められないことを絶えず謙虚に認めて、神を仰いでいきましょう。