「神の熱心と人間の熱心」  列王記第2 10章1~36


<1~11節>

 これまで、生ける神を侮り、イスラエルに偶像崇拝を強要し、残虐行為を繰り返してきたアハブの家を裁くため、神はニムシの子エフーを用います。
 アハプの子ヨラム、またアハブの妻イゼベルに続き、アハブのサマリヤにいた子たち(孫たち)も打た れます。サマリヤの70人の子たちは、エフーの命令により、宮殿のあつたイズレエルのつかさや長老た ち、養育係の手によつて打ち殺されました。


12~14節

 エフーがサマリヤに行く途中で、南ユダのアハズヤの身内の者たちに出会います。彼らは、サマリヤの アハブ家の子らに会いに行く途中でした。すると、エフーはアハズヤの母アタルヤがアハプの娘であつた こともあり、彼らをもアハブ家の身内とみなして殺害します。


15~17節

 レカブは、イスラエルの中でも厳格で敬虔な一族として知られるグループの創設者です(エレミヤ35:1~11)。その子ヨナダブは、アハブ家の偶像政策 を憂えていることを示し、2人は親しくなります。 エフーはヨナダブを戦車に乗せ、サマリヤにいたアハブ家の者たちを打ちます。主が預言者エリヤの時代 におっしゃった通りでした(I列王記21:20~22)。


18~28節

 イスラエルの人々は、エフーが政治的野望でアハブ家を攻撃していると思つていました。ですから、エ フーがバアルにアハブ以上に仕えると言うと、その通りに信じたのです。
 けれども、エフーはバアルの信者たちを滅ぼすためにバアルの集会を開催しました。バアル信者だけを 集め、いけにえをささげ終わつた時に、バアルに仕える者たちを打ち取り、バアルの神殿を壊しました。


29~31節

 エフーは、アハブ家の根絶と、バアル宗教をイスラエルから取り除くことだけを使命とし、自分自身が 主体的に神を礼拝し、生活をあげて神に従うことはしませんでした。
 エフー自身は、ヤロブアムの時代に政策のために導入された金の子牛礼拝を続けたのです。
 今も神に対して同じような態度を私たちがとることがあります。部分的には神の言幕に従うけれど、存 在を神に明け渡すことはしないのです。
 実生活は、偶像や見える何かを神のようにしているのなら、金の子牛に仕えながらも、アハブ家とバア ルの根絶だけを一生懸命にするエフーの中途半端な生き方と変わりないのです。
 神は、ご自身が命じたことを実行したエフーを評価しつつも、心を尽くして主の道に歩まなかった彼の 子孫は4代日で王座を失うことを告げます(Ⅱ列王記15:8~12)


32~36節

 この頃、アラムの王ハザエルは、じわじわとイスラエルを支配していきました。謀反で始まつたエフー の治世は、28年でした。

 エフーがしたことを、神はご自身の目にかなつたこととしておられます(30節)。しかしホセアの時 代には、「イスラエルの血をエフーの家に報いる」(ホセア1:4)と神は言われています。
 たしかに、エフーは神の命令に従つてアハブ家を打ちましたが、自分自身は金の子牛という偶像に仕え ていました。
 しかも彼は熱心ゆえに、神が言われた以上のことまで成し遂げようとしたのです。南ユダのアハズヤの 身内を殺害したこと、バアル信者根絶も、主がそこまで求めておられたとは記されていません。彼の人間 的熱心に基づく思いが入つていたのです。 ですから神は、ホセアの時代になって「イスラエルの血をエフーの家に報いる」言われたのです。


> 熱心が必ずしも正しくはないのです

 人間の熱心は、徹底的にしようとして、逆にやり過ぎてしまうことがあります。神に従う時にも、「神 がこうしなさいと言われたから…」と言つて、神が求めておられないことまで自分の熱心や勢いでして しまうことがあるのです。 そしてかえって神のみこころではないことをしていて、それでも自分では神に従っているつもりにな つているのです。 心を空にして神の声を聞き続けていく必要があります。 主がおっしゃったこと以上のことを、自分の熱心や肉の思いでしていないか、立ち止まつて尋ねてい きましょう。

> 神ご自身の熱心なのか、自分の肉の熱心なのか、絶えず神に聞きましょう

 神の熱心が、いつの間にか自分の熱心にすり替わつていることがあります。イエスの時代の律法学者 たちも、自分たちでは熱心に神に従つていると思い、罪人と呼ばれている人たちと関わりを持ちません でした。けれども、神が遣わされたキリストは、律法学者たちが排除している類の人たちを受け入れ、 親しく交わつたのです。
 いくら熱心であっても、正しい知識に基づかないでするなら、かえって神に反逆していることになり うるのです。(ローマ10:2)
 また、聖書の言葉を一部分だけで受け取つて、全体から語つておられる主の言葉を聞いていかないな ら、どんなに部分的に一生懸命従つていても、神のみこころとは違うということが起きてくるのです。

> 信仰は、過去のことではなく、「今」のことです

 「昔このみことばで言われたから」と言って、今主が語つておられることは聞こうとしないというこ とが起きてきます。神は絶えず語つておられます。今も語つておられます。 絶えず「今」主がどのように語つておられるのか、自分の思いをうしろにして謙虚に聞きましょう。

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