「指導者がいなくなった後」  列王記第2 12章1~21


<1~3節>

 7歳で南ユダ国の王となったヨアシュは、祭司エホヤダから信仰の指導を受けつつ成長します。祭司エホヤダが彼を教えていた間はいつも、主の目にかなうことを行いました(2節)。

 「ただし、高き所は取り除かなかった」というのは、高き所で偶像礼拝をしていたというのではありません。エルサレムに主の神殿ができてからは、もともと偶像崇拝に用いられていた「高き所」で主への礼拝をする必要はなくなっていました。それは偶像礼拝と混同する危険もあったからです。それにもかかわらず、あえて「高き所」を用いて主への礼拝を続けていたという意味です。


<4~16節>

 ヨアシュ王に与えられた一番の使命は、アタルヤ時代に壊された神殿を修復することでした (Ⅱ歴代誌24:4)。

 彼は祭司たちに、神殿にささげられたお金(出エジプト30:11~14)と自由献金によって、宮の破損部分を修理するよう命じました。けれども、アタルヤの時代に祭司制度そのものが崩壊していたため、祭司たちには余裕がなく、宮の修理まで手が回らなかったようです。そこでヨアシュは、現状のままでは祭司が神殿修復の責任を持つことが現実的ではないと判断し、その任を解きます。  

 そのため、祭司エホヤダが、ヨアシュを王に立てた者として、神殿修築のための経費を集める責任を感じ、別の方法を考案しました。それは、祭壇の脇に献金箱を置き、礼拝する者たちが自由に献金し、王の書記と大祭司がそれを袋に入れて計算し、主の宮を工事している監督者たちの手に直接渡します。それを工事監督者が主の宮で働く人たちに破損修理費として支払うという方法でした。

 その献金は、什器類のためには一切使われず(13節)、主の宮の修理のためだけに使われました。

 また、アタルヤが王となる前には正当になされていた祭司たちへの処遇が、アタルヤ時代の祭司制度崩壊のために滞り、祭司たちへの生活費も十分に支払われずにいました。エホヤダはそれも元通りにしました(16節)。


<17~19節>

 アラムの王ハザエルがエルサレムに攻めてきますが、そこに至る経緯はⅡ歴代誌24:17~27に記されています。

 祭司エホヤダが死んで後、「ユダのつかさ(高官)たち」がヨアシュ王の元に来て、アシェラなどの偶像に仕えるようにと頼み込んできます。その願いを、ヨシュアは聞き入れ、あっさりと主の宮を捨て、偶像に仕えるようになりました。

 主は預言者たちを遣わして、彼らを立ち返らせようとしますが、耳を貸しませんでした。神は、ついに祭司エホヤダの子ゼカリヤを遣わしますが、ヨアシュは命の恩人であり師でもあるエホヤダの子ゼカリヤをも打ち殺したのです。

 一向にヨアシュが主に立ち返らず、主を侮り続けた結果、主はアラムの軍勢を送ります。アラムの軍勢は少人数であり、南ユダは大軍勢であったにもかかわらず敗北します。主がアラムの手に南ユダを渡されたからです(Ⅱ歴代誌24:17~24)。

 アラムのエルサレム侵攻は、ヨアシュたちの神への反逆の結果だったのです。


<20~21節>

 ヨアシュの悪行に憤りを感じていた彼の家来たちの謀反により、ヨアシュは打ち殺されました。彼はダビデの町に葬られますが、王たちの墓には葬られませんでした(Ⅱ歴代誌24:25)。  

 ヨアシュが主の目にかなうことを行っていたのは、祭司エホヤダが生きていて彼を教えていた期間だけでした。ヨアシュはエホヤダが死ぬと、ユダのつかさたちにおだてられて彼らの声に聞き従い、いとも簡単に主を捨てて偶像に仕えていきました。

 彼の信仰が、祭司エホヤダに依存し、人間エホヤダに従っていただけで、自立した神直接の信仰になっていなかったからです。  

 わたしたちも、指導者や信仰の先輩がいなくなった後、本当に主ご自身につながっていたのか、それとも、人につながっていただけなのかが明らかにされます。

 人は、どうしても見える人に心が向かい、見える人の信仰にぶらさがってしまう傾向があります。ですから、そのような頼っていた人がいなくなった時に、信仰が自立しているかどうかが問われます。

 もしもその時に、人を介しての間接的な信仰であったと気づかされたら、それを認めて、主直接の信仰に切り替えていただくように祈り求めましょう。  

 今、誰に従っているのでしょうか?
 誰の信仰にぶらさがっているのでしょうか?

 終わりの時には、主の前にひとり立たなくてはなりません。
 たえず、主直接になっているかどうかを省みながら、主ご自身を求めていきましょう。
 交わりも大切です。ただ、人を求めるためではなく、主ご自身を求めることを励まし合うための交わりであることを心に留めましょう。

ページの先頭に戻る