「なおも恵み、あわれみ、顧みて下さる神」 列王記第2 13章1~25
<1~9節>
南ユダ国でヨシュアが王であった時に、北イスラエルではエフーの子エホアハズが王となりました。
エホアハズ王は、「主の目の前に悪を行い、ヤロブアムの罪を犯し続け」ました(2節)。 「ヤロブアムの罪」とは、王が犯す罪の一つの原理として、Ⅱ列王記では度々使われています。ヤロブアムは、北イスラエルが南ユダから分離したときの北イスラエルの王です。彼は人々の心が、エルサレムにある神殿に向かい南ユダを慕っていかないように、北イスラエル中を偶像で満たそうとしました。このような偶像政策によってヤロブアムが民たちを主なる神から引き離す罪を犯したことを指しています(Ⅰ列王記12:26~30)。
エホアハズ王も、ヤロブアムと同じように、人々の心を偶像に向かわせることで国の安定を保とうとしました。それは主の目の前に悪を行うことであって、主の怒りがイスラエルに燃え上がりました。主はアラムの王ハザエルとその子ベン・ハダデ(3世)を通して、イスラエルを圧迫します(3節)。
その苦しみの中で、エホアハズは主に願いました(4節)。すると、主はひとりの救い手(エホアハズの子ヨアシュ)を与え、イスラエルはアラムの支配を脱することができました(5節)。
聖書には、エホアハズが偶像礼拝を悔い改めた記述がないので、これは全くの主のあわれみです。そのような神の一方的なあわれみを受けたにもかかわらず、エホアハズたちはヤロブアム家の罪から離れず、偶像に頼っていきました。
<10~13節>
エホアハズが死んで、その子ヨアシュがイスラエルの王となりました。彼も父エホアハズ同様に主の目の前に悪を行い、ヤロブアムの罪から離れませんでした(11節)。 「ユダの王アマツヤと戦った功績」(12節)とは、南ユダの王アマツヤとの戦いで勝利を収めたことです(14:8~14)。
人間的に見れば、それなりの功績もありましたが、結局エホアハズもヨアシュも、主の目には「悪を行い続けた」王であったことだけが強調されています。
<14~19節>
預言者エリシャが死の病を患っていた時に、イスラエルの王ヨアシュが彼のもとに行き、泣き伏して「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びます(14節)。これは、エリシャが恩師であるエリヤの死に際して叫んだのと同じ言葉です(2:12)。
ヨアシュ王はアラムとの戦いの助けを、エリシャに求めに来ました。ヨアシュ自身は、エリシャが信じる神ではなく、偶像に仕えていました。けれどエリシャがこれまでしてきた力あるわざは認めていたのでしょう。
エリシャは弓と矢をヨアシュに持たせ、自分の手をヨアシュの手の上にのせることで、彼への支援を伝えました(16節)。そして「東側の窓」(アラムの方向)に矢を射ることを命じ、アラムへの主の勝利を宣言します(17節)。
次にエリシャはヨアシュに、矢を地面に打つよう命じます。ヨアシュは3回矢で地を打ちますが、エリシャは3回ではなくもっと打つべきだったと怒ります(18~19節)。3回しか打たなかったことに、ヨアシュの何が何でも勝利したいという気迫が感じられなかったのでしょう。どんなに失敗しても、不器用でも、最善を尽くしたいというパッションを、エリシャはヨアシュに期待していました。アラムへの勝利は、3度だけであることがエリシャから告げられました。
<20~21節>
エリシャが死に、モアブの略奪隊(町や旅人を襲い食料などを奪う人たち)が毎年侵入していました。人々がある人を葬ろうとしていたとき略奪隊を見たので、その遺体をあわててエリシャの墓に投げ入れました。すると、エリシャの遺体に触れたその遺体は生き返り、自分の足で立ち上がりました。
エリシャは生き返りませんでしたが、エリシャが死んでも、エリシャに働かれた神は生きておられるのです。
<22~25節>
アラムの王ハザエルは、エホアハズが生きている間中イスラエルを攻撃し苦しめました。しかし主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、イスラエルを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことはなさいませんでした。北イスラエルの王ヨアシュは、アラムの王ハザエルに代わって王となったベン・ハダデから、父の時代に奪われた町々を取り返しました。
➢ 神の評価と人の評価は違う(1~13節)
北イスラエルのエホアハズ、その子ヨアシュも、人の目には年代記に書きしるされるような功績はありました。しかし主の目の前には「悪を行い、ヤロブアムのすべての罪から離れず、それを行い続けた」という評価です。私たちも、「主の目の前にどうであるか」を問いかけていく必要があります。人にどう見えたとしても、神がどのようにご覧になっているかをいつも意識しましょう。
➢ 勝利に対する情熱(18~19節)
神の人エリシャがそうであったように、主は私たちのパッションを喜ばれます。そして、私たちの戦いは肉のものではなく、人々を神から引き離すサタンとの霊的戦いです。見えるものを敵にしたり、他の戦いに参戦したりして、肝心な戦いでの情熱を失ってしまわないように気をつけましょう。そして悪魔に立ち向かう情熱を、主から与えていただけるように、また敵を間違えないように、絶えず祈り求めましょう。
➢ 主の働きは次世代にまで及ぶ(20~21節)
死んだ預言者エリシャの遺体に触れた遺体が生き返りました。これは、エリシャの上に働いてこられた神が、エリシャの死後も継続して働かれる証です。
「主は今生きておられる」という告白は、次の世代、次の世代へと引き継がれていくものです。自分が死んだ後にもこの福音は継承されていくものだ、という視点で、信仰生活を続けましょう。神の働きは、世々に渡って続くのです。
➢ 神のあわれみは人間の罪より大きい(2~5、23節)
エホアハズもヨアシュも、主の目の前に悪を行い続けた王です。それでも、エホアハズが主に願うと主は助けてくださり、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえにイスラエルをあわれみ、滅ぼし尽くすことはなさいませんでした。
人間の弱さ、愚かさ、罪深さをご存知で、なおも神はあわれんでくださるのです。私たちは死ぬまで何か欠けたところがあるのです。完全にはなれないのです。「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」と胸をうちたたいてひざまずくしかないのです(ルカ18:13)。
主はその欠けたままで、私たちを受け入れてくださるのです。欠けているけど、主イエスの十字架の贖いを信じるゆえに、完全な赦しを受けるのです。キリストの十字架の血潮による完全なきよめを信じて、そのままで弟子としてイエスについていくことができるのです。その深い神のあわれみを知って初めて、主への情熱が生まれてくるのです。
神の大きなあわれみを信じて、主の後をついて行きましょう。