「民の悩みを見て救われる神」 列王記第2 14章1~29
<1~6節>
南ユダ王国で、アマツヤが王となります。アマツヤは、総じて主の目にかなうことを行いました。けれども、先祖ダビデほど神と深く交わる関係ではなかったようです。
アマツヤの父ヨアシュは、家来たちに殺害されました(12:20~21)。アマツヤは律法に基づく倫理を明確にするため、その家来たちを打ち殺しますが、家来の子どもたちは殺しま
せんでした。それも律法を守るためです(申命記24:16)。
<7~16節>
エドムは、紅海に面していて、アラビヤとも変易できる重要な地方です。そのエドムを支配下に置いたアマツヤ王は、さらに勢力を伸ぱすために、北イスラエルのヨアシュ王に宣戦布告
しました。
それに対してヨアシュ王は、北イスラエルを「レバノンの杉(美しく雄大なことで有名)」にたとえ、ユダは「あざみ」のように小さな弱い存在と見なしました。そして、あまりにも力の差が歴然としていると言つて、戦いを拒否しました。
にもかかわらずアマツヤが聞き入れなかったため、戦いとなり、北イスラエルが圧勝しました。エルサレ人の城壁は壊され、神般の祭具が持ち出されました。
<17~22節>
アマツヤ王は、最終的に謀反によつて殺されました。アマツヤの死後、その子アザルヤ(ウジヤ)が南ユダの王となります。アザルヤ王は、ソロモンの時代にもあつた「エラテ」を再建し、ユダの所有地とします。ここは、紅海、アラビヤ、東方への海路の出発地点としての唯一の港です。
<23~29節>
北イスラエルでは、ヨアシュ王が死んで、その子ヤロブアム(2世)が王になります。彼は主の日の前に悪を行い、「ネバテの子ヤロブアムの罪」(偶像崇拝)をやめませんでした。
ヤロブアム2世は悪王でしたが、彼の時代にイスラエルは、一時的にレボ・ハマテ(ソロモン時代の北の国境)からアラバの海(死海のこと。イスラエル南の国境)までの領土を回復しました。
そのことについては、預言者ヨナを通して神が語っておられました(ヨナ書には記されていません)。
度重なる外敵の侵入によつて、悩み果て疲弊していたイスラエルの民を、神があわれんでくださったからです。同時代の預言者たちも、当時の厳しい社会情勢を伝えています(ホセア11:8~9、アモス9:14~15)。
まとめ
① 主の前に問われるのは自分の罪(6節)
アマツヤは、父親ヨアシュを謀反で打ち殺され、大きな傷を心に持っていたことでしよう。けれども、アマツヤは、父を打つた殺害者の子どもにまでは手をくだしませんでした。 律法でも、その罪を問われるのは犯した本人だけです。
人は大なり小なり心にひずみを抱えています。だからといって、皆が犯罪者になるわけではありません。成長過程で受けてきた傷は神様に癒やしていただく必要があります。
傷があるからといって、自分が犯した罪を、親や伴侶、第3者のせいにすることはできないのです。
神の前に問われるのは、自分自身の罪です。そのときに、人のせいにしたり、 言い訳したりはできないのです。
② 勝利を収めた後の高慢(7~8節)
アマツヤは、エドムを打ち取つたことで勢いに乗り、北イスラエルのヨアシュ王に宣戦布告します。しかし逆に北イスラエルに惨敗しました。
勝利を収めたり、成功した後は、高慢にならないように注意しましょう。いよいよ栄光を主にお返しし、へりくだつて主に感謝をささげましよう。自分の力を過信して思い上がり、
先の勝利よりも大きな痛手を負うことがあります。成功しでも失敗しても、神の前にへりくだり、神を崇めましよう。
③ ご自身の民の激しい悩みを見で救われる主(25~27節)
どれほど国が荒れ果て、争いが絶えない中でも、神はご自身の民たちをあれれんでくださいます。
人間の力ではどうしてあげることもできない苦しみがあります。何をどうすることが最善の助けであるかがわからなかったり、助けたいけれどもその力や余裕がないこともあります。
神様は、ご自身の方法で苦しむ民をお助けになるのです。それは、私たちが想像しているような助け方ではないかもしれません。
激しい悩みの中で、「神はこんなに私が苦しんでいるのに助けて下さらない」とつぶやくか、「神は苦しむ私を知つていてくださり、消し去らないでいてくださる」と感謝するかは、 その人の心の高さ低さで変わつてくるのです。
私たちは自分ではへりくだることができません。あらゆる苦難は、私たちがへりくだつて神を呼び求め、やがで神に心からの感謝をささげるための訓練なのです。
神は、愛する者を訓練します。それは後に平安な義の実を結ばせるためなのです(ヘブル12:5~11)。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえつて悲しく思われるものですが、後になると、これによつて訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)