「安泰からくる霊的堕落」 列王記第2 15章1~38
<1~7節>
分裂したイスラエルの、南王国ユダでは、アザルヤ(ウジヤ)が王になります。ウジヤ王については、Ⅱ歴代誌26章に詳しく記されています。
ウジヤ王は、神を求めることを教えたゼカリヤが存命中は、神を求めました。神がその間彼を助けたので、彼の勢力は並みはずれて強くなりました(Ⅱ歴代誌26:5~8)。そしてやがて、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招くことになるのです。
ウジヤ王(アザルヤ)は、祭司にしか許されていない香をたくことを、領分を超えてしようとしたのです。80人の祭司たちが止めましたが、彼は激しく怒って実行しようとしました。この時に、主が彼を打たれたので、彼はツァラアトという重い皮膚病に冒されました(Ⅱ歴代誌26:16~20)。彼は、死ぬ日までツァラアトに冒され隔ての家に住み、その子ヨタムが宮殿を管理し、ウジヤ王の死後はヨタムが代わって王となります(5節)。
聖書には、「主が打たれる」という出来事が記されています。それらは、このウジヤ王と同じようにに「心の高ぶり」が原因です。主が生きておられることは、心が高ぶる時に主に打たれることを通しても知らされるのです。
「神は高ぶる者に敵対し退け、へりくだる者に恵みを与えます」(ヤコブ4:6、Ⅰペテロ5:5~6)。
人間の罪の根源は、この「心の高ぶり」にあります。最初の人アダムとエバが罪を犯したのも、「あなたがたは神のようになる」(創世記3:5)というヘビの誘惑に負けたことにありました。神は創造者で、私たちは造られた者です。私たちは、神の御前にへりくだり、神に従うべき存在です。
ですから、私たちは苦難の中で「その原因が自分の高ぶりにあるのではないか?」と一度は自分に問いかけてみましょう(苦しみのすべてが高ぶりからくるわけではありませんが)。
そこで悔い改めるなら、神はへりくだる者に恵みをくださるのです。
ウジヤ王は、神の助けによって勢力が強くなったのに、神に感謝することもその栄光を神にお返しすることもせず、自分の誇りとしていきました。その結果高ぶって自分の領分を超えたため、神に打たれたのです。
人間的な成功は、人を高ぶらせる大きな要因になります。少々思い通りにいかなくても、そこで主の御前にへりくださることができるなら、長い目で見た時には安全な道です。成功した時、調子が良い時は、益々神の助けを認めて、神に栄光をお返しし神の前にへりくだっていきましょう。
<8~31節>
一方の北王国イスラエルでは、約30年の間に、ゼカリヤ、シャルム、メナヘム、ペカフヤ、ペカ、ホセアと目まぐるしく王が交代します。そのほとんどが謀反によります。そしてホセア王を最後に、紀元前722年にアッシリヤに滅ぼされます。北王国イスラエルの王たちは、相変わらず「主の目の前に悪を行い、ヤロブアムの罪(偶像崇拝)から離れなかった」のです(9、18、24、28節)。
生ける真の神に頼らず、偶像によって国の安定を図ろうとした結果、かえって国は弱体化して滅びを招くことになったのです。
<32~38節>
南王国ユダでは、アザルヤ(ウジヤ)王の後、その子ヨタムが王になります。彼も勢力を増し加えますが、父王のように高ぶることはなく、「主の前に、自分の道を確かなもの」としました(Ⅱ歴代誌27:6)。父ウジヤ王が高ぶって、主に打たれる様子をそばで見て教訓にしたのでしょう。
<まとめ>
北王国イスラエルは、じわじわと霊的堕落の道を辿り、気がついたら自分たちの力では立ち行かなくなっていました。
神への信仰が、いかに国や人の生き方に影響を与えていくかを教えられます。目に見える安定というものは、神の御前には簡単に吹き飛んでしまうものです。
私たちは終わりの時代に生きていることを心に留め、生ける主を見上げ、この方に従いましょう。
目に見える安泰で満足するのではなく、霊の目でへりくだり、主を求めましょう。そうでないと、「安泰だ、安泰だ」と言っているうちに、気がついたら修復できない霊的状態に陥っているということがあるのです。
北王国イスラエルの「ヤロブアムの罪」は、生ける神ではなく、見える偶像で偽りの安泰を図ったことにありました。
南王国ユダのウジヤ王も、勢力を伸ばした時に高慢になり、高ぶって自分の領域を超えてしまい、神に打たれました。
たえず栄光は神にお返しし、へりくだって神を崇めてまいりましょう。 祈りの生活へと向かいましょう。
しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。 (Ⅱ歴代誌26:16)