「神を信じない罪」 列王記第2 16章
<1~6節>
南王国ユダでは、ヨタムの子アハズが王になります。アハズ王は、父祖ダビデと違って、異教徒のならわしや偶像礼拝をし、主の目にかなうことを行いませんでした(Ⅱ歴代誌28:1~4)。
ヨタムの治世から、すでに神への反逆的行為(偶像崇拝)があり、神は警告を発しておられました(15:37)。
アラムの王レツィンと北王国イスラエルの王ペカは、反アッシリヤ同盟を結び、南ユダのヨタム王を誘いますが、ヨタムは断ります。そのため、アラムと北イスラエルは南王国を攻めはじめました。
その子アハズ王も誘いを断ったため、アラムと北イスラエルの連合軍の攻撃を受け、エルサレムにいたアハズ王は包囲されました(Ⅱ歴代誌28:5~8)。
またアラムは、アハズ王を包囲する準備として、東洋への足場ともなる重要な港、エラテをも占領します。
<7~9節>
そこで、アハズ王は、強力なアッシリヤ王ティグラテ・ピレセルに助けを求めます。
この頃、預言者イザヤはアハズ王に会いに行き、動揺しているアハズ王に神のことばを伝えています(イザヤ7:1~4)。
イザヤは「主から、しるしを求めよ(神に信頼せよ)」と、アハズ王に伝えましたが、彼は拒否してアッシリヤに助けを求めたのです。
イザヤは、この世の権力に頼るのではなく、歴史を支配しておられる神に信頼するよう伝えましたが、アハズ王は、神にではなく、今力強く見えるアッシリヤに頼ったのです。
アッシリヤ王はアハズ王の願いを聞き、アラムのダマスコを攻め上り、アラムの王レツィンを殺害します。
この後、今度はアッシリヤ王がアハズ王を悩ませる存在になります(Ⅱ歴代誌28:21~23)。
人に頼った結果は、人に支配されることになるのです。
さらに、アハズ王は、アッシリヤを助けているのはダマスコの神だと思い、今度はその神々にいけにえをささげ、主の前に悪を重ねていきます。
<10~20節>
アハズ王は、アッシリヤが崇拝するダマスコの祭壇を見て、その図面と模型を祭司ウリヤに送ります。祭司ウリヤは、アハズ王の命じたとおりに祭壇を造りました。
こうして、南王国ユダにおいて、王と祭司の承認のもとで宗教が混合されることになりました。
ますます生ける神礼拝がなおざりにされていくことになります。
(まとめ)
アハズ王は、神を信じるのではなくアッシリヤに頼り、アッシリヤが信じているダマスコの神々をも崇拝していきました。
苦しくなったから、とりあえず一時しのぎにでも助けとなりそうなものに乗り換えていったのです。
私たちも、何かが好転していかないと、神を信じるよりも人や流行の物に心のよりどころを求めていく弱さを持っています。
困った時に、誰かに相談をしたり、公共機関に助けを求めるのは悪いことではありません。 しかし、大事なのは、神に祈りながら、すべてのものを用いて益としてくださる神を信じることです。
神を信じないことが、一番の罪なのです。神の御前にへりくだって、神を信じて歩みましょう。
主イエスも、何よりも神を信じることが大切であると繰り返し語っておられます(ヨハネ福音書6:29、40、7:38、11:25~26、40、14:1…)。
それでも私たちは、「信じます」と言ったそばから、不信仰な思いが出てきます。「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)と主に叫びながら、信仰をも与えていただきましょう。
見える物、見える人、見える出来事に心がとらわれていくよりも、神ご自身との交わりを楽しみ喜びましょう。
たとえ一時的に神に見捨てられたかのように思える時があっても、主なる神は必ず助けてくださいます。
主はご自身の民を見捨てることはなさいません。 神を信じましょう。
イエスは答えて言われた。「あなた方が、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 (ヨハネ6:29)
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が 流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)