「神の名が置かれた神殿」  列王記第2 21章


<1~9節>

 ヒゼキヤに代わって、その子マナセが12歳で南ユダの王になりました。ヒゼキヤは神にとことんより頼み従いました。けれどもマナセは、父のヒゼキヤが取り除いた高き所を築き直し、偶像に仕え、占いやまじないをし、「主の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こし」ます。  

 彼は「エルサレムにわたしの名を置く」(4,7節)と言われた主の神殿に、バアルの祭壇を置いて拝みました。主の名と、「先祖に与えた地から、民を迷い出させない」と言われた主のことば(律法)が置かれた神殿を、偶像崇拝の場所に変えてしまったのです。


<10~18節>

 マナセが偶像で主の神殿を汚したため、神はエルサレムとユダに災いをもたらします。主は預言者を通して、次のように告げました。それを聞く者は、「二つの耳が鳴る」(災いを聞かされた時の恐怖と悲惨を表す慣用句)であろう。出エジプト以来、民たちが主の目の前に悪を行い続け、主の怒りを引き起こしてきた結果、エルサレムはぬぐい去られて無きものとなり、徹底的に奪い去られると。  

 こうしてマナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流しました。


<19~26節>

 マナセの死により55年の統治は終わり、その子アモンが王になります。アモンもマナセ同様に、偶像に仕えて主の目の前に悪を行いました。彼は刻んだ偶像に仕え続け、2年で王権は終わります。  

 アモンは家来たちの謀反で殺害され、その家来たちもまた民衆に打ち殺され、アモンの子ヨシヤが王となります。  

 列王記には記されていませんが、歴代誌には次のことが記されています。主は、マナセをアッシリヤ王配下の将軍たちによってバビロンへ連行します。このバビロンで、マナセは主の前にへりくだり、神に祈りました。  

 主は、そのマナセの切なる願いを聞き入れ、再び彼をエルサレムに戻します。  

 苦難を通して、マナセは「主こそ神であることを知り」ました。そしてユダの人々に、エルサレムの神殿から偶像の祭壇を取り除き、主なる神に仕えるように命じたのです(Ⅱ歴代誌33:10~23)。  

 55年間マナセ王の統治が続いた背景には、このような悔い改めの後半があったのです。  

 主を侮って偶像に仕えたマナセも、苦難を通して主の前にへりくだり、主に叫びました。そのようなマナセを、主は助けてくださったのです。マナセの人生は変えられました。  

 南ユダが急速に堕落の道を辿り、崩壊に向かっていく最中でも、神は、主の前にへりくだり主の御名を呼ぶマナセをあわれんでくださったのです。  

 私たちがどんなに罪深い者であっても、神の前にへりくだる時に主はあわれみ、私たちの祈りに答えてくださるのです。  私たちは今もたえず偶像崇拝の誘惑に囲まれています。刻んだ偶像だけでなく、オカルト、占い、カリスマ的人物、快楽、宗教的要素のある慣習(ハロウインなど)…。霊的に主から引き離すものに取り囲まれています。  

 聖霊はそのことに気づかせてくださり、主にのみより頼むように促してくださいます。  

 その時には、たえず主の名を呼び、主のみ前にへりくだりましょう。  また教会も「主の名が置かれている神殿」です。教会は絶えず主への讃美と祈りがささげられる場所です。  

 祈りの火が消えないようにしましょう。  

 偶像や悪魔の力から人々が守られるように、主の名が置かれた礼拝の場を、祈りの場を大切にしましょう。

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