「みことばによる矯正」 列王記第2 22章
<1~2節>
南ユダのヨシヤ王は8歳で王になり、31年間南ユダ国を治めました。彼は、父アモンの悪い影響を受けることなく、主の道を歩みました。民衆が彼を王として立てたので(21:24)、側近たちが彼に父王の悪政を改めて主の道を歩むように教育したのか、母親の影響を受けたのかは不明です。いずれにしてもヨシヤ王は主を恐れ、主が喜ばれる道を歩もうとしました。
<3~7節>
ヨシヤ王は偶像を取り除き(Ⅱ歴代誌34:3~)、神殿の修築費用のために、主の宮に献げられた金額を大祭司ヒルキヤに計算させ、工事をしている者たちに渡すようにしました。
<8~13節>
大祭司ヒルキヤは、神殿の工事費として献げられたお金を神殿から取り出している時に、律法の書を見つけました。それを受け取った書記シャファンは、律法の書をヨシヤ王のもとに持っていき、王の前で読み上げました。王はそれを聞き、自分の衣を裂きました(驚きや悲しみを表す行為)。
恐らくこの律法の書は、マナセ王とその子アモン王が偶像礼拝をしていた時代に、埋もれてしまったか隠されていたのでしょう。ヨシヤ王は幼い時から、主の教えを身近な者たちによって聞かされていただけで、実際に律法の書を見るのは初めてだったようです。
イスラエルの宗教改革が断行され、主の宮である神殿が修理されたヨシヤ王の治世に、律法の書が発見されたのは、神の摂理でした。
ヨシヤ王は律法の書の内容を聞いて、5人の者たち(ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤ)に、ユダ王国が今何をするべきか主のみ心を求めるように命じました。 律法の書(みことば)を通して、ヨシヤ王は、自分たちの先祖の歩みがいかに主のことばからはずれていたかを知り、愕然としたのです。
私たちもまた、みことばからいかに自分たちが神から外れた存在であるかを知り、罪を知るのです。
<14~20節>
ヨシヤ王から遣わされた5人は、主のみ心を求めるため、女預言者フルダのもとに行きます。フルダは、ユダの民たちが、主を捨て偶像の神々を拝み主の憤りを引き起こしてきたが、ヨシヤ王が主のみ心を聞いて心を痛め主の前にへりくだったので、ヨシヤ王の時代にはユダ国への災いが下ることはない、という主の約束を伝えました。
〈まとめ〉
◇ 罪(自分の真の姿)を知るのは、みことばによる
ヨシヤ王は、身近な者たちから主の教えを聞くことで、主の道を歩むことができました。
けれども律法の書が発見されて、直にみことばに触れた時、自分の国で起きている出来事は、先祖たちが主のことばに従わなかった結果であると深く知り、主の前にへりくだったのです。
罪を知るのは、みことばによるのです。
いかに自分が神から外れているかは、みこばによらなければわからないのです。
私たちは、聖書のことばによって絶えず矯正され、主の道に立ち返らされていくのです(Ⅱテモテ3:16)。
◇ 神のみ心を求めることの大切さ
律法の書によって、自分たちが犯した罪の重さを知ったヨシヤ王は、主のみ心を求めました。
主のみ心は、みことばと祈り、そして、信仰者のアドバイスや具体的な導きによって知ることができます。
諦めずに、忍耐強く、主のみ心を祈り求めていくなら、主は必ずご自身のみ思いを明らかにしてくださいます。
自分の思いを後ろにして、主のみ心を求めましょう(エペソ5:17)。 主のみ前にへりくだる時に、主は答えてくださいます。
◇ へりくだって、主のあわれみを求めて祈り続けよう
祈りが聞かれない理由の一つに、私たちの心の高さがあります。
主は砕かれた者の祈りに目を留めるお方です(詩篇51:17、イザヤ57:15、ヤコブ4:6、Ⅰペテロ5:5~6)。
祈りが聞かれて当然ではないのです。むしろ、私たちは罪ゆえに滅ぼされて当然の者なのです。
祈りが聞かれる資格などありません。もし聞いていただけるなら、それは主のあわれみ以外の何ものでもありません。
主の前には、私たちはそのような存在であることを謙虚に受けとめつつ、それでも主のあわれみを求めて切に祈り続けましょう。