「神に敵対する民」 列王記第2 24章
<1~7節>
南ユダの王エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカデネザルが攻め上ってきました。そして、ネブカデネザル王は人質と財宝を要求しました。その人質の中には、ダニエルもいました(ダニエル1:1~2)。
エホヤキムは3年間ネブカデネザルに隷属しましたが、その後反逆します。そこで、バビロンは先遣隊を送って、ユダ国を攻めました。この2節の主語が、「主は」となっています(ダニエル1:2でも)。それは、すでに主なる神が告げておられたとおり(23:26~27)、マナセの罪のために(21:16)、主がユダ国をバビロンの手に渡されたということなのです。
これまで主はイスラエルを助け、イスラエルを圧迫する国々をイスラエルの手に渡してこられました。
しかし、今や主がイスラエルをバビロンに渡したのです。神の民であるはずのイスラエルに、神が敵対されたのです。
エホヤキムの時代に活躍した預言者エレミヤは、エホヤキムが民たちに暴虐を行い主のことばが書かれた巻物を暖炉に投げ込んだことへの報いとして、主からの災いを予告しています(エレミヤ22:13~19、エレミヤ36:30~31など)。
エホヤキムが死に、代わってその子エホヤキンがユダ国の王になります。この頃にはエジプトの力は弱まり、バビロンが南はエジプト川から北はユーフラテス川上流まで支配を伸ばしていました。
<8~16節>
エホヤキン王も、「主の目の前に悪を行い」ました。ヨシヤ王の後は、ずっと主に逆らう王が続き、ユダ国は衰退していきます。
バビロンはエルサレムを包囲し、ユダ王エホヤキンとその母、家来たち、高官たち、宦官たちがバビロンに降伏して捕虜となります。主の宮の財宝と王宮の財宝もことごとく運び出されました。エルサレムには、手に職を持たない者たち、貧しい民衆だけが残されました。
イザヤが預言したとおりです(20:16~18)。
<17~20節>
バビロン王は、エホヤキンのおじマタヌヤを南ユダの王とし、彼の名をゼデキヤと改名しました。彼は、ネブカデネザルの支配下で、11年間王でした。ゼデキヤも、主の目の前に悪を行います。
「ゼデキヤ」とは「主は正義」という意味です。命名したネブカデネザルは、「自分に勝利を与えた神は正しい」という意味でこの名をつけたのでしょう。確かにネブカデネザルを用いているのは神です。神が、その名をつけることを許されたのですから。
残念なことに、神に不従順を続ける民たちに、神の正しいさばきがなされたのです。「主の正義(ゼデキヤ)」が、主の民であったイスラエルへのさばきという形で実現したのです。
(まとめ)
聖書は、信仰の先達たちを通して、そしてまた悪王たちを通して、私たちに生きる道を教えています。聖書に出てくる人たちの成功例も失敗例も、すべてが私たちへのメッセージです。
神はイスラエルに何度も手を差し伸べました。主の方では、ご自身の民を恋い慕ってくださったのです(申命記7:5~8)。
けれどもイスラエルは、どこまでも神に逆らい、人が造った偶像に頼りました。
その結果、神はバビロンを用いて、イスラエルを攻めました。神の民であるはずのイスラエルが、神の敵となったのです。
神は私たちを、「ご自分の宝の民」として選んでくださいました。
私たちの不誠実にもかかわらず、神は常に真実でいてくださいます(Ⅱテモテ2:13)。
何度神に反逆しても、悔い改めて神に立ち返るなら、何度でも赦してくださり、最高のごちそうを用意して、私たちと親しく食事をしてくださるのです(ルカ15:21~24)。
主が味方でいてくださるなら、私たちは何も恐れる必要はありません(ローマ8:31)。
イスラエルが滅びに向かっていく様から、神を敵としていく恐ろしさと、同時に神を味方としていく歩みの安心と力強さを教えられます。
今日、もう一度そのありがたさを受け取り直していきましょう。