「回復の希望」 列王記第2 25章
<1~7節>
南ユダ国最後の王ゼデキヤの治世第9年(紀元前589年頃)に、バビロン王ネブカデネザルの大軍がエルサレムを攻め、完全に包囲しました。主はエレミヤを通してゼデキヤに、バビロンに降伏するようにと、語られていました。それでも彼は偽預言者に惑わされ、バビロン王に反逆したからです(エレミヤ27:12~15、29:4~9)。
さらにエルサレムでは飢饉がひどくなり、極度の食糧不足になります。ゼデキヤは捕えられ、バビロンに連行されました。
<8~21節>
その後ネブカデネザル王の家来(侍従長)ネブザルアダンは、エルサレムの神殿や主要な建物を焼き払い、城壁は崩され、町の残りの民も一部の貧しい人々を残してバビロンに捕え移されました。神殿に用いられていた青銅や器具類もバビロンに運び去られ、軍の指揮官や王の側近たちは処刑されます。
<22~24節>
バビロン王ネブカデネザルは、かつて南ユダ国でヨシヤ王に仕えていた書記シャファン(22:8)の孫ゲダルヤを、ユダに残った民たちの総督とします。ネブカデネザルがゲダルヤを総督に選んだ理由は、ゲダルヤが父アヒカムと共に、預言者エレミヤについていたからです(エレミヤ26:24、39:11~14)。
<25~26節>
ところが王族の一人、イシュマエルが謀反を起こし、ゲダルヤとカルデヤ人(バビロン人)を打ち殺しました。イシュマエルと民はネブカデネザルの復讐を恐れて、エレミヤを連れてエジプトに逃げます。これは、預言者エレミヤを通して主が語られたことに反する行動です(エレミヤ42:7~12、43:1~7)。
<27~30節>
ユダの王エホヤキンが捕え移されて37年目(前561年、エルサレム滅亡から25年)、ネブカデネザルの子エビル・メロダク王はエホヤキンを釈放して手厚くもてなしました。
なぜエビル・メロダクがエホヤキンに優しくしたかはわかりませんが、救済史的視点からすると、ダビデの子孫から救い主が生まれるために、バビロン王エビル・メロダクを主が用いられたのでしょう。
さて、ユダ地区は新バビロニヤ帝国のサマリヤ地区に編入されます。そしてペルシャ王クロスが解放のお触れを出し(前539年)、ゼルバベル指導の下に、バビロンからイスラエルの民4万人がエルサレムに帰還する時まで、ユダは聖書の記述から消えます。エレミヤによる主のことばの通りです。
イスラエルの民たちの度重なる神への反逆により、一度イスラエルは滅びます。けれどもそれで主のご計画が終わるわけではありません。イスラエルの滅びは、人間の目から見ると悲惨に思えますが、主の目からご覧になると、この地が安息を得て回復が始まる出来事なのです(Ⅱ歴代誌36:21~23、エレミヤ29:10)。
私たち人間の罪の性質は、放置すると罪に流されていきます。最初は主との関係で熱く燃やされていても、時間と共に冷えていき、形式的になっていきやすいのです。形だけの礼拝生活になり、やがて生ける神以外のものが心を支配していく時、主は形式的な信仰生活を壊されます。
それによって、私たちは砕かれ、へりくだって主を求め、主だけにより頼み、主のことばに従うように変えられ、信仰が回復されるのです。
教会も、形式的になって、神以外のものが崇められ大切にされていく時、主はその形式的なものを壊されます。そして、もう一度へりくだって主の御名を呼び求めるようにされるのです。
主が壊される時は、終わりではなく、信仰復興の始まりなのです。
主はエレミヤを通して、バビロンに連れて行かれたイスラエルの民たちに、その町の繁栄を祈り、へりくだって主を求めるように命じました。それは民たちにとっては不本意なことかもしれません。けれどもその不本意なことを通して、へりくだることを学ぶのです。
同時に主は回復の希望も語っておられるのです(エレミヤ29:7~14)。 この将来と希望を与える主のご計画に目を留め、いよいよ主のみ前にへりくだり、主を求めましょう。