「エリヤからエリシャへの引き継ぎ」  列王記第2 2章1〜25

<1〜8節

 エリヤが主のもとに召される時が近づいた頃に、主はエリヤをべテル、エリコ、ヨルダンへと遣わします。エリヤは後継者となるエリシャに、とどまっているように3回とも命じますが、最終的にはエリシャの自主性に任せています。 エリシャは、エリヤの地上での働きが終わろうとしているのを知っていて、最後まで主がエリヤを通してどのように働かれるかを見たいという思いが強かったのでしょう。これに関しては、エリヤはエリシャが自分で決断してついて来ていることに、安心しているかのようです。

 べテルとエリコでは、預言者たちに出会います。偶像の町で霊的戦いを続ける同労者たちにエリシャを引き会わせよう、という目的がエリヤにあったのかもしれません。そしてヨルダン川で、エリヤは自分の外套を取って川の水を打ちます。すると、川の水が両側に分かれ、2人は乾いた土の上を渡りました。

 モーセの後を継いだヨシュアが、ヨルダン川で経験した奇跡が、再びここで起きたのです。預言者のともがら50人は、遠く離れたところからそれを見ていました。

 エリヤは、主が力あるみわざをヨシュアの時と同じように行ってくださり、その同じ力でエリシャを助けてくださるのだということを、彼に教えようとしたのでしょう。


<9〜14節

 ヨルダン川での奇跡を目の当たりにしたエリシャは、偶像崇拝により霊的危機にあった当時のイスラエルで預言者として立つためには、エリヤの2倍の霊的力をいただきたいと求めます。主の特別な力を受けなければ、とても太刀打ちできないと認めていたのです。

 2人が進んで行くと、突然1台の戦車と火の馬が現れ、エリヤは竜巻に乗って天に上っていきました。驚きと悲しみで、エリシャは自分の着物を引き裂きます。そして、エリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、それでヨルダン川の水を打つと、エリヤがした時と同じように、川の水が分かれたので、乾いた土の上を渡りました。

 エリヤと共におられた主が、変わりなくエリシャと共におられ、ご自身のみわざを現してくださったのです。ここから、預言者エリシャを通して、次々に神のみわざが起きていきます。


<15〜18節
 一連のことを遠くから見ていた預言者のともがらは、エリヤに留まっていた同じ神の霊が、エリシャの上にも留まっていることを認めます。そして、竜巻に乗ってエリヤがいなくなったことで、エリヤの体を探すことをエリシャに提案します。けれども、エリシャは主が連れ去られたことを知っていたので断ります。しかし、彼らがしつこく願ったので、委ねました。結局3日間探しましたが、彼らはエリヤを見つけることはできませんでした。やるだけやって彼らは、主がエリヤの体ごと御許に連れて行かれたことを知ったのです。


<19〜22節
 この時エリシャがいたエリコの町の住民から、その土地の水が悪いという苦情を聞きます。エリシャは、塩を水の源に投げ込み、主がその水を癒されたと宣言します。そしてその通り、エリコの水は良い水に変わり、水の影響による死や流産はなくなりました。


<23〜25節

 またエリコからべテルに上っていくと、子どもたち(「若い青年たち」とも訳せる)が出てきて、エリシャをからかいました。彼らは、2頭の雌熊にかき裂かれます。これは、エリシャを冒涜した罪というよりは、べテルの町が偶像に依存し、神への侮りがはなはだしかったことへの、神の裁きでもありました。偶像による霊的影響が、その土地の青年たちにも伝染していたのでしょう。

 預言者たちはいつの時代も、様々な霊的戦いの中で、神のことばを人々に伝えていきます。主が共におられなければ、その戦いを続けることはできません。神は、その時代その時代にいる人々、またその地域にいる人々を用いて、ご自身のみわざを現します。私たちは、神の壮大な計画のほんの一部分で、与えられた役割を果たすにすぎません。人は代わっても、神は変わりません。神のみわざも変わりません。 主の御顔を慕い求める者たちがいる限り、神はそこにご自身のみわざを現してくださるのです。エリヤを通してなされた神のわざが、エリシャを通してもなされたように、神のなさることは、人が代わっても、変わらないのです。時代が変わっても、神の永遠のご計画は変わりません。

 神のご計画と御力を思いながら、主から与えられた領分を受け取っていきましょう。

 主のご計画が何であるのかを知るために、いよいよ主の御顔を、主ご自身を、慕い求めていきましょう。

     主とその御力を尋ね求めよ。
     絶えず御顔を慕い求めよ。
                     詩篇 105篇4節

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