「主の目には小さなこと」  列王記第2 3章


<1〜3節>

 二つに分裂したイスラエルで、南ユダの王がヨシャパテの第18年に、北イスラエルではヨラム(アハブの子)が王になります(アハズヤ王の後)。

 両親のアハブとイゼベルほどではありませんでしたが、ヨラムも主の目の前に悪を行いました。ヨラムは父アハブが造ったバアルの石の柱は取り除きましたが、ヤロブアムの罪(T列王記12:26〜30)を犯し続け、金の子牛による偶像政策を続けました。バアル神で上手くいかなかったら、金の子牛崇拝に戻そうとしただけです。

 多くの人々は、このように神を転々と変えながら、どの神が一番幸せをもたらしてくれるかを試しています。しかし人が造り出している神である限り、満足することはできません。

 本当の神は、人間の都合に合わせて動くのではなく、人間の方が造られた者として、神に従っていく立場にあるのです。真の神に従いたくない人間は、常に自分の思い通りになる偶像を求めていき、真の神を受け入れようとはしません。ヨラムも、頼る偶像の種類を変えただけで、主のみこころをそこなっていることに変わりありませんでした。


<4〜7節>

 モアブの国は、ダビデの時代からイスラエルの属国となり(Uサムエル8:2)、羊毛を貢物としてささげてきました。しかしアハブ王が死ぬと、モアブの王メシャはイスラエルに反乱を起こします。そこでヨラムはイスラエルを動員し、南ユダのヨシャパテ王にモアブとの戦いに協力するよう要請し、ヨシャパテは受諾します。

 これと似たようなことが、アハブ王の時代にもありました(T列王記22:4)。北と南に分かれていても、ヨシャパテ王には、同じイスラエルであるという同胞意識が強かったようです。


<8〜12節>

 エドムの王もこの戦いに加わるため、ヨラムとヨシャパテは遠回りをします。そのため、飲み水と家畜のための水が足りなくなってしまいます。そこで、ヨシャパテ王はアラムとの戦いの時と同様に(T列王記22:5、7)、主のみこころを求める預言者を呼ぶよう、ヨラムに求めます。ヨシャパテは、主を恐れる心をもっていました。そして、エリヤの後継者となったエリシャが彼のところに下ってきました。


<13〜20節>

 預言者エリシャは、偶像政策によって神の前に罪を犯し続けるヨラムに、「あなたとは関わりはない」ときっぱり言います。しかし主のみこころを求めるヨシャパテに免じて、エリシャは神のみこころを彼らに伝えます。

 乾いた谷にみぞを掘れば、そこに水が溢れるようになると伝えました。また、主がモアブをイスラエルに与えるとも伝えました。朝になると、エリシャが言った通り、地は水で満たされます。「これは主の目には小さなことだ」と、エリシャはヨラムたちに言いました。


<21〜25節>

 モアブ側は、3人の王たちが攻め上ってくると聞いて、厳戒態勢に入ります。翌朝早くに、太陽が水の面を赤く照らしていたのを見て、3人の王たちが同士討ちをして流した血と勘違いし、油断してイスラエル陣営に攻めていきます。モアブは乾燥地なので、彼らは水の造り出す変化に慣れていなかったのでしょう。

 太陽の反射を血による赤色と考える、彼らの先入観をも用いて、神はモアブを攪乱させました。そして19節でエリシャが言った通り、モアブの町々は激しく破壊されます。


<26〜27節>

 モアブ王は追い詰められた結果、自分の長男を城壁の上で全焼のいけにえとしてささげました。これは、モアブが崇拝していたケモシュ神信仰ではよくあることでした。大切な人をささげることで、戦いを好転してもらおうとする人身御供のようなものでした。

 しかしイスラエルでは、このような習慣は全くありませんでした。あまりの異様で恐ろしい出来事に自分たちが関わったことに、イスラエルは神の怒りのようなものを感じたのか、あるいはそこに居合わせることで、自分たちに呪いのようなものがあるかもしれないと感じたのか、いずれにしても戦意を失い引き上げてしまいます。

 モアブ碑文(メシャ碑文)には、この戦いでイスラエル軍が敗北して逃げ帰ったと、モアブの勝利を称える内容が記されています。神はエリシャの預言通りに、モアブをイスラエルに与えていたのですが、イスラエルが最後まで主の言葉を信じて戦わなかったため、勝利を逃してしまったのです。


  遠回りをして水がなくなったイスラエルに、エリシャは乾燥した谷にみぞを掘るようにと主の言葉を伝えました。全く水気のない地に水が溢れるという出来事も、「主の目には小さなこと」なのです。

 「主はモアブをあなたがたの手に渡される」(18節)という主の言葉を信じて、途中であきらめずに戦い続ければ、勝利は与えられたのです。私たちも、主からするように迫られたことは、途中で投げ出してはいけません。不可能に見えても、実行していきましょう。

 常識ではありえないことも、「主の目には小さなことだ」という視点に立って進んで行くことが、信仰です。主が「みぞを掘れ」と言われれば、荒野の谷で水など出るはずがなくても、掘ってみるのです。

 主はあなたに、今、何をしなさいとおっしゃっていますか?それが自分には不可能に見えても、主の目には小さなことなのです。主の言葉を信じて一歩踏み出すと、様々な妨げや痛みが出てきます。しかし、主はさらに信じて前進していくことを求めておられます。

 信仰は、まだ見ていないもの、目に見えないものを、信じて進んで行くことです(へブル11:1)。目に見えているものを信じても、それは信仰ではありません。また、安全と思えることだけをしていくことも、信仰ではありません。リスクが伴っても、主がしなさいとおっしゃるなら、偉大な主が導き続けてくださるので、答えをいただくまであきらめずに前進していきましょう。途中で誰かにバトンを渡すこともあるでしょうし、それぞれに与えられた領分があります。しかし、主が「ここまではあなたがやりなさい」と言われることは、人の目には不可能に見えても、「主の目には小さなこと」と信じて、偉大な主を見上げて、実行していきましょう。

      信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
                                    ヘブル11章1節


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