「気休めではない復活の希望」 列王記第2 4章8節〜37節
この4章では、預言者エリシャを通してなされた、特筆すべき神のわざが続けて記されています。その二つ目の出来事が今日のところです。
ある日、エリシャがシュネム(カルメル山から4〜50kmにある)を通りかかると、一人の裕福な女性が食事に引き止めます。それからシュネムを通るたびに、彼はそこに寄って食事をするようになり、彼女は夫と相談して、エリシャのための部屋を作りました。
エリシャは彼女に何かお礼をしたいと思い、彼女に子どもがいないことを知り、1年後に男の子が与えられることを予告します。そしてその通りに、ちょうど1年後にシュネムの女性は男の子を産みました。
しかしその子が大きくなって、激しい頭痛に襲われ、その日のうちに母親のひざの上で死んでしまいます。彼女は夫にその事実を伝えずに、カルメル山にいるエリシャのもとに行きます。
彼女は、「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか」(28節)と言いました。
エリシャは、自分の杖を若者ゲハジに渡して、それを子どもの上に置くように命じます。ゲハジは、エリシャとシュネムの女性より先に行って、その杖を子どもの顔の上に置きますが、何の応答もなかったので、引き返してエリシャに報告します。
エリシャは家に着くと、中に入り戸を閉め、死んだ子と二人きりになって主に祈りました(33節)。そして、その子の上に身を伏せると、子どものからだが暖かくなり、やがてその子は目を開きます。
シュネムの女性は、生き返ったその子を見て、エリシャにひれ伏し、子どもを抱き上げて出て行きます。
この出来事から、二つのことに注目しましょう。
・何をするにも形ではなく、祈りが必要です。
ゲハジが、死んだ子どものもとに先に遣わされましたが、ただエリシャの杖を置くだけでは何も起きませんでした。
形だけ言われたことをしても、マニュアル通りに事を行っても、主のわざは起きません。エリシャが主に祈った時に、奇跡は起きました。
悪霊に憑かれた子どもの霊を追い出せなかったイエスの弟子たちにも、イエスは祈りが必要であることを教えています(マルコ9:16〜29)。
杖を置いただけでは主のわざは起きません。方法論ではなく、何をするにも祈りです。一生懸命奉仕をしても、他の教会で成功した方法論をとり入れても、そこに祈りがなければ、事は起きないのです。
祈りに重点を置きましょう。
・信仰者の復活は、気休めではありません。
このように旧約聖書の時代にも、死者の復活はありました。 私たちは、キリストを信じて召された人たちのことも、気休めで天国の希望を語るわけではありません。
聖書は、はっきり天における復活のからだが与えられることを約束しています(Tコリント15:44、49、50〜52、Tテサロニケ4:16〜18)。
「天国でゆっくりお休みください」と、決まり文句で言うのではなく、キリストを信じる者は、心から復活を信じ、天における再会を待ち望むことができるのです。
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に 引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも 主とともにいることになります。
第Tテサロニケ4章17説