「異邦人のナアマン将軍」 列王記第2 5章1節〜14節
<1〜3節>
アラムの国の将軍ナアマンは、アラムの王(恐らくベン・ハダデ2世)に重んじられていました。それは、主がかつてナアマンを通してアラムに勝利をもたらしたことを、実績として認められていたからです(T列王記22章)。
ナアマン将軍は、ツァラアト(重い皮膚病)に冒されていました。イスラエルから捕虜となってナアマンの家で仕えていた若い娘は、イスラエルの預言者エリシャがナアマンの病気を直せるであろうことを、彼の妻に伝えます。
<4〜8節>
早速ナアマンはエリシャのことを、アラムの王に告げます。アラムの王は、ナアマンの病気を直してほしいという内容の手紙と多くの贈り物をナアマンに持たせて、イスラエルへ送り出します。
アラムの王は、イスラエルの預言者は当然イスラエルの配下にあると思って手紙を書きましたが、イスラエルの王は必ずしも預言者と良い関係ではありませんでした。ですからイスラエルの王(恐らくヨラム)は、その手紙を、アラムからの嫌がらせかイスラエルを攻撃する機会を狙ってのものと解釈しました。それで、悲しみや怒りを表す「自分の服を引き裂く」という行為をしました。それを知ったエリシャは、ナアマンを自分の元に送るように、王に願い求めます。
<9〜14節>
ナアマンは、自分のツァラアトを直すために、エリシャが患部に手を置いて祈ってくれるものと予想していました。しかし、エリシャは「ヨルダン川へ行って7たびあなたの身を洗いなさい」と命じます。そう言われて、ナアマンは一度は腹を立てて帰ろうとしますが、彼のしもべたちの説得により、エリシャが言った通りにヨルダン川で7たび身を浸します。
するとツァラアトは完全に直り、幼子のからだのようにきれいな肌になりました。
今日の箇所から、以下3つのことを心に留めましょう。
〇自分の意に反する場所にも神のご計画がある(2節)
ひとりの若い娘(恐らく20歳前後)は、生まれ育った町から全く知らない外国のアラムに捕虜として連れて来られ、ナアマンの家で仕えていました。ある意味ではとても不幸な境遇でした。
しかし、神は彼女を用いて、神のすばらしいみわざを異邦人ナアマンに知らせるのです。彼女の名前は記されていません。けれども、彼女のしたことは聖書を通して世界中に知られ、異邦の地に神のみわざを伝え福音の種をもたらすきっかけとなりました。彼女はただエリシャの名を伝えただけですが、それによって異邦人の救いの扉が開かれたのです。
エジプトの地に奴隷として売られたヨセフもそうですが、「なぜこんな場所に自分が行かなければいけないのか?」と思えるような不本意な場所にも、神のご計画はあるのです。
境遇を嘆くよりも、神はここで自分に何をするように願っておられるかを、祈り求めることが大切です。
〇神は難しいことを命じておられない(10〜13節)
エリシャがナアマンに命じたことは、実に簡単なことでした。しかし、プライドがあるとできないことなのです。「簡単なことは嫌だ、自分が努力した功績が残らないのは嫌だ」と言って、多くの人は神の恵みを拒否していきます。
福音も同じように、ただキリストを信じるだけでよいのです。でも多くの人は、そんな簡単な救いでは嫌だと言って、努力したり修行したりして、自分の功績が認められる方法を求めて、この恵みの救いを拒否していくのです。
神の救いは単純です。神が私たちに求めておられることは、実にシンプルです。すべて神の恵みでありあわれみなので、心の高慢が打ち砕かれる時には、いとも簡単に受け取れるのです。神に従うことを妨げているのは、多くの場合、自分の中にあるプライドなのです。
ナアマンも、アラムの将軍としてのプライドを捨てた時に、神のすばらしいみわざを体験したのです。
〇神の言われた通り実行すれば、その通りになる(14節)
神が命じられることは、「こんなことをして何になるのだろう」「もっとこうした方が上手くいくのに」と思えることがあります。でも、そこで自分の分別を後ろにして「神がそのようにおっしゃるのだから」と、神のことばに従ってみる時に、人知を超えた神の力を体験できるのです(ルカ5:5〜6)。
自分のやり方に、神を従わせようとするから、すべてがおかしなことになるのです。主権は神にあるのです。「ヨルダン川に身を浸しなさい」と言われれば、ダマスコやアラムにある立派な川ではなくて、ヨルダン川が最善なのです。「7たび身を浸しなさい」と主に言われたら、一度で十分と思えても、7回身を浸すのです。
その通りに実行する時に、驚くべき奇跡は起きるのです。神の言葉に従うのか、どこまでも自分のやり方に従うのか…常に問われています。
ナアマン将軍のことは、キリストが異邦人も救いの対象であることを示す型として例えています(ルカ4:27)。
当時イスラエルにもツァラアトに冒されている人はたくさんいました。しかし、異邦人であるナアマンだけが癒されたのです。神の民であるはずのイスラエルは、神が遣わした預言者を頑なに受け入れず、神を侮り偶像に頼っていきました。
私たちも「自分たちは神の民だ」ということだけで満足して、神の主権を認めず主から心が離れているなら、ナアマンの時代のイスラエルと同じことになります。むしろ外から来る人たちが、神の生き生きとしたみわざに預かっていくことになります。
形骸化した信仰は、たえず壊していただく必要があります。クリスチャンらしい行いをしていることで、神に喜ばれるわけではありません。キリストに堅く結びつくのでなければ、どのような表面的な行為も空しいのです。
今、神が私たちに語っておられるみことばを、聖霊の助けを求めつつ実行しましょう。自分のやり方はいつもうしろにして、神のやり方に従いましょう。
そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に7たび身を浸した。 すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
U列王記5章14節