「欲に目が眩んだゲハジ」  列王記第2 5章15節〜27節

<15〜16節>

 ナアマン将軍は、長年苦しんできたツァラアトが癒されたので、用意してきた贈り物(5:5)をエリシャに渡しに引き返してきます。

 しかしエリシャは、その贈り物を受け取りませんでした。恐らく、アラムの国がイスラエルにとってしばしば敵国であったので、受け取ることが後々よくないことになるかもしれないと考えたからかもしれません。

 でもそれ以上に、異邦人のナアマンやアラムの人たちに、この癒しのわざを生ける神がなさったのだということを明らかにする目的がありました。事実、ナアマンのツァラアトが癒されるまで、エリシャとナアマンは一度も会っていません。エリシャはただ使いを遣って、ヨルダン川に七度身を浸すようナアマンに伝えただけでした。決してエリシャ自身に特別な力があったわけではなく、神の力によって癒されたことをより明確にするためにも、エリシャは贈り物を受け取らなかったのです。

 奇跡が起きると、人はそれに関わった人物をどうしても特別視してしまう傾向があります。しかし真の預言者は、神が崇められることだけを求めるので(ルカ6:23、26)、主のわざに自分が関与したかのように受け取られるのは不本意なのです。  

 それが勘違いされず、ただ厚意としてささげられるものは、エリシャも喜んで感謝して受け取っています(4:8〜11)。

 贈り物を受けるのも断るのも、主の知恵と信仰が必要なのです。


<17節>

 「イスラエルの信じる神以外に神はおられない」と告白したナアマンは、もう今までのようにアラムの偶像に仕えることはできませんでした。エリシャが贈り物を受け取らなかったため、代わりに「ただ主だけを礼拝する」決意を伝えて、ナアマンはエリシャを喜ばせます。ナアマンは唯一の主なる神を礼拝する祭壇を築くために、二頭の騾馬に乗せるだけのイスラエルの土を与えてほしいと願い求めました。

 生ける神の事実を体験した者は、もう人が作った神々を礼拝する行為はできないのです。


<18〜19節>

 ナアマンはアラムに帰ってから、将軍としての公的立場で起こり得る問題を早速意識しています。アラム王がリモン(嵐と雷の神)の神殿で拝む場合に、側近の自分に寄りかかるため、自分も身をかがめることになるかもしれないけれど、そのことは許可してほしいと願っています。ナアマンが、これまで拝んでいた偶像との関係を絶つ決心をここまでしていたことがわかります。

 それに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と答えます。それを許可するわけではなく、「主の前に最善を尽くしなさい」「神が必要な決断と力を与えて導いてくださるように」というようなニュアンスがあります。すでに偶像との関係を絶とうと決意しているナアマンですから、神が導いてくださって、必ずそこも曖昧にはしないと、エリシャは信じて送り出しています。


<20〜24節>

 ゲハジは若いとはいえ、これまでエリシャに仕え、エリシャを通して為された神のわざを何度も見てきています。しかし彼は、エリシャの思いを受け継ぐことはありませんでした。エリシャが断った贈り物を、自分が代わりに受け取ろうとしてナアマンの後を追いかけます。 「主は生きておられる」と心から信じていたら、このような偽りの行為はできなかったでしょう。 ゲハジは、この高価な贈り物を自分の物とするために、緊急事態が起きたことを装い(21節)、自分が主人のエリシャから遣わされたと嘘をつき、エリシャの親切心を見せつけようとします(22節)。ゲハジは二人の若者に、ナアマンから受けた贈り物を運ばせ、エリシャの家から見える丘まで来たら、エリシャに見つからないように二人を帰らせ、贈り物を自分の家にしまい込みます(23〜24節)。


<25〜27節>

 エリシャは、ゲハジがしたこの一部始終を見ていたわけではありません。しかしエリシャと共におられる神を欺くことはできませんでした。「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか」というエリシャの問いかけは、神の戒めを破った後に、神がアダムたちに言われた「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)という質問に通じるものがあります。

 罪のひと仕事を終えた後に、「あなたは、どこにいるのか?あなたはどこへ行って来たのか?」と問いかけられる時に、すべてをご存知である神がおられたことを意識します。「神の臨在」は、偽って自分の欲を成し遂げようとする罪の現場にもあるのです。神は、すべてを見ておられご存知なのです。  

 エリシャはゲハジに、今イスラエルが霊的危機にあり、異邦人(ナアマン)に救いと癒しが及んでいるこの時に、高価な贈り物に目が眩んでいる場合ではないと告げます。そしてゲハジはエリシャの予告通り、ツァラアトに冒されます。

 この箇所から、以下3つのことを特に心に留めましょう。

〇仕える神を明確にする

 ナアマン将軍は偉大な神の力に触れた時に、主なる神だけが唯一の神であることを知り、これまで仕えてきた偶像との関わりを絶つ決意をしました。私たちが真に仕え崇めるべき神がどなたであるのか、神はあらゆることを通していよいよハッキリさせてくださいます。

 生ける神の事実を体験し、神のご愛を知った者は、唯一の神以外に仕えることはできないのです。

〇神の栄光が現れることを優先する

  今回エリシャは、ナアマンの贈り物をきっぱりと断りました。それは、エリシャのツァラアトの癒しが、どこまでも神のわざであって、エリシャの力によるものではないことを明らかにするためでした。

 このように、贈り物を受け取るか否かだけでなく、その時その時にどう対応することが神の栄光につながるかを祈り考えながら、行動していきましょう。

 聖書で言われている「知恵ある行動」とは、神の栄光が現されるためはにどうすることが最善であるのかをよく考えてから行動することです。

〇神は罪の現場にも共におられる

 隠れていている罪の行いや誰も聞いていないと思っている陰口も、主はすべて見て聞いておられます。ゲハジが主人エリシャに隠れてした行為も、神はその現場におられてご存知でした。

 私たちはしばしば失敗する者ですが、罪の現場にも神が共におられることを知っているなら、そのことを指摘された時に、「しもべはどこへも行きませんでした」(25節)と偽ることはできないのです。すべてを見て聞いておられる神の前に、悔い改めるしかない存在です。

 神から(ある時は人を通して)罪を指摘されたら、素直に認めていきましょう。神は、罪を認め悔い改める者を、赦しきよめてくださいます(Tヨハネ1:9)。

 彼が家に入って主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。あなたはどこへ 行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行きませんでした。」

              U列王記5章25節





ページの先頭に戻る