「罪の責任転嫁」  列王記第2 6章24節〜33節

<24〜25節>

 ここは、必ずしも23節に続いているわけではありません。アラムの王ベン・ハダデという名の王は3人いることや、この時のイスラエルの王が誰かも明記されていないので、正確な時期はわかりません。
 恐らく、サマリヤに起きたひどい飢饉は、8:1で言われている7年間の飢饉ではないかと思われます。もともとの飢饉と、アラムによるサマリヤ包囲が重なって、食料不足が深刻になっていました。ろばの頭も鳩の糞も本来は食用ではありませんが、それらが高い値段で売られるほどに、食べるものがなかったことがわかります。


<26〜29節>

 イスラエルの王は飢饉の状況を見るために、頻繁に城壁の上から様子を見ていたのでしょう。一人の女性が、王に向かって助けを求めます。王は、打ち場の物も酒ぶねの物も欠乏しているのだから、自分にもどうすることもできないと返します。
 彼女は食べ物がないことで、どのような悲惨な状況が起きているかを王に知らせます。
 親が子どもを食物にするという悲劇は、すでに預言されていました(レビ記26:29、申命記28:55〜58)し、バビロンによるエルサレム包囲の折にも同じようなことが起きることが予告されています(エゼキエル5:10)。
 一人の女性が約束を守らなかったことを解決してほしいということではなく、ここまでしなければ生きていけないほどの食料不足を何とかしてほしいと、彼女は王に訴えているのです。


<30〜31節>

 この悲惨なイスラエルの状況を悲しみ、王は自分の服を引き裂きました。そしてその怒りは、預言者エリシャに向けられたのです。本来は、国の責任を負うのは、王です。エリシャは、アラムの攻撃を預言して王に伝え、王を助けてきた人です。そんなエリシャに対して王は、彼がいることでアラムが攻撃をしてきたと、責任を押し付けたのです。  
 それは、民たちの苦しみの大きさを目の当たりにして、もう自分では責任を負いきれず、だれかに責任を擦りつけなければ自分自身を保つことができないという、王の弱さであったかもしれません。


<32〜33節>

 エリシャは、長老たちと家にいました。恐らくこの飢饉のために長老たちと話し合ったり、祈り合ったりしていたのでしょう。
 その時に、王がエリシャを殺すために遣わした使者がやって来ました。もともと王は主に期待などしてもいないのに、「これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか」と、エリシャに使者を通して伝えます。

 飢饉による過酷な状況の中で、イスラエルの王は悲しみ怒り、自分の衣服を裂きます。その下には、荒布を着ていました(30節)。荒布は、悲しみを表すだけでなく、本来は悔い改めを表すものです。
 けれども、王は悔い改めることはせず、ただその悲しみをエリシャに責任転嫁していきました。

 本当は、王自身が、生ける神を無視して侮り偶像崇拝をしてきた罪を悔い改めるべきでした。けれども王は自分の罪を認めることはせず、預言者に責任転嫁することで、いよいよ神との溝を深めていったのです。

 最初の人アダムも、罪によってまずしたことは、責任転嫁でした(創世記3:8〜13)。男も女も、神の戒めを破ったことは同じでしたが、男は女に、女は蛇に、自分の罪の責任を擦りつけました。
 こうして、誰も罪を認めないことで、いよいよ神から遠のいていったのです。

 蛇をサタンの象徴とすると、サタン(悪魔)のせいにして、罪を認めないということもありえるのです。

 あらゆる人間関係(家庭、職場、学校、地域社会、教会…)で、互いに責任転嫁をし合っていると、結局は神様との関係が冷えていくことになります。私たちと神との関係が深まるのは、悔い改めを通してだからです。罪を認めない生き方は、主イエスの十字架の恵みを受けないことになり、生き生きとした神との関係を損なっていくことになるのです。

 誰かが罪を引き受けて、痛みをもって悔い改めていくことで、神の祝福はもたらされるのです。ヨブは、家族の罪のためにも、とりなしをしていました(ヨブ記1:5)。罪赦された者だけが、他の人の罪をも贖うためにとりなすことができるのです。

 罪の赦しが前提にないと、人は自分の罪さえも認めることは恐ろしくてできません。主イエスの十字架による罪の赦しを受け取った者だけが、自分の罪も、人の罪も、悔い改め贖いを受けることができるのです。

 自分の罪を他の人や環境のせいにして、悔い改めずにいることはないでしょうか? それによって、神との関係にも溝ができているかもしれません。主イエスの血潮による罪の赦しがあることを信じて、大胆に悔い改めていきましょう。

 そして、何度でも悔い改める者を赦してくださる主の恵みを受けてまいりましょう。

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