「保証なしに従う」  列王記第2 8章1~6節


<1~2節>

 エリシャが「かつて子どもを生き返らせてやったあの女」というのは、シュネムの女性のことです(4:8~37)。彼女の家族と関わりを持ちつつ見守ってきたエリシャは、イスラエルがこれから7年間飢饉になるので、家族と共に旅立つよう勧めます。

 彼女は、神の人エリシャを通して神が語られたことばに従い、家族と共に7年間ペリシテ人の地に滞在しました。この地域で飢饉が起きると、ペリシテ人の地に避難するのは、これまでもしばしばありました(創世記26:1)。


<3節>

 飢饉の7年が終わって食料不足も解消され、彼女と家族はペリシテ人の地から北イスラエルに戻ってきます。すると、他の人が彼らの家に住みつき、畑も他の人が使うようになっていたようです。そのため、何とか家と畑を取り戻そうと、王に訴えようとします。 


<4~6節>

 この頃には、アハブ王も預言者エリシャのことを好意的に見ていたようです。王はエリシャに仕えていたゲハジに、「エリシャが行ったすばらしい(大きな)ことを、残らず私に聞かしてくれ」と言いました。ゲハジが王に、シュネムの女の上に起きたすばらしいことを話している時に、ちょうど彼女が家と畑のことを王に訴えにきました。

 当時は、町の門やそのそばにある広場で、高官たちが人々の問題を聞いて解決していました。王も同席することがありました。恐らくそこで王とゲハジが話していた時に、シュネムの女が来たのでしょう。アハブ王は話題の女性と生き返ったその息子を目の当たりにして感動しました。すぐにひとりの宦官に命じて、略奪された彼女の家と畑を返し、加えて離れていた間の畑の収穫も返すように命じます。 この

 聖書箇所から、以下のことを心に留めましょう。 • 主のことばに従うとは先の保証がないまま従うことです(1~3節)。

 シュネムの女とその家族は、7年後にどうなっているかわからないまま、また本当に飢饉が起きるかどうかもわからないまま、ただ預言者エリシャを通して神が語られたことばを信じて、ペリシテの地に行きました。

 当時は7年も家を空けると、このように家や畑が奪われてしまうこともしばしばあったことでしょう。それでも、従っていったのです。神のことばに従う時には、先に何の保証もないまま従うのです。それが主のことばだからという理由で、主なる神ご自身だけを信頼してついていくのです。結果や保証が見えてから従うなら、それは信仰ではありません(へブル11:1)。神は決して悪いようにはなさらないという、神ご自身への信頼だけが保証です。

 実際従った結果、必ずしも目に見える良いことばかりが起きるとは限りません。それでも主に従うのです。最終的には、地上に安住の地はありません。真の安息の地である天の故郷に至るまで、どこまでも主に従いましょう(へブル11:13~16)。


• 神は人の心を変える力があります(4節)

 エリヤの時代に散々偶像政策を進めて神に逆らい、エリシャをも一時は殺そうとまでしたアハブ王が、エリシャを通して為された神のわざを「すばらしいこと」と受け取り、自らそのことを聞きたいと求めるようになりました。

 一時は反発されたり憎まれたりすることがあっても、時間を経て神は人の心を変えてくださり、神のみわざに心を向けるようにしてくださいます。

 ですから、主のことばに反発したり、主から離れてしまったりした人たちのためにも、あきらめないで祈りつつコンタクトをとっていきましょう。


• 神のみわざを見た者には、それを伝える責任があります(5節)

 ゲハジは、エリシャを通してなされた神のわざを間近で見てきました。それが王に証しをするために用いられたのです。神がご自身のわざを私たちに見せてくださるのは、それを内に秘めておくためではなく、人々に伝えるためです(Ⅰペテロ2:9)。

 私たちが「世界の光」(マタイ5:14)としてこの地に置かれていることを心に留めているなら、思わぬ時に「神がなさったすばらしいわざを残らず私に聞かせてくれ」と言われる時がきます。その時には、見たこと、聞いたこと、体験したことを、そのまま伝えればよいのです。

 神の栄光が崇められるために、伝えていきましょう。


• 神の絶妙な時があります(5~6節)

 ゲハジが王にシュネムの女の上になされた神のわざを話しているちょうどその時に、彼女と生き返った息子がやってきました。その存在を通して、ゲハジの証しの真実が証明されました。そのことが、王の心を動かし、彼女が王に訴えようと思っていた問題も、予想以上の解決を得ることになりました。

 このように「神の時」というものがあります。神の時は、私たちの思いでは測り知ることができません。神は、ゲハジが王に証しする時とシュネムの女が来る時を重ねてくださって、王の心にも触れてくださったのです。

 私たちの人生にも、「神が正にこの時に」してくださったと実感する、神の絶妙な時があるのです。


• 神は失ったものを何倍にもして返してくださる(6節)

 シュネムの女は、結果として家と畑だけでなく、離れていた期間の畑の収穫まで返されました。 このように神様は、私たちが失ったと思っていたもの以上に返してくださるのです。それは必ずしも、同じものではないかもしれません。目に見えない祝福として返って来ることの方が多いかもしれません。地上のものは、やがてはなくなるものです。見える持ち物はみな一時的なもので、永遠の祝福にはなりません。

 神が私たちに与えたい祝福は、永遠の祝福です。神の視点に立てば、私たちの人生で何一つ「損をした」ということはないのです。失ったと見えても、それに勝る祝福を神は与えてくださるのです。ですから、主に従う時には、物を失うことはあっても、損をすることはありません。

 主なる神への信頼があれば、常に主の霊的祝福に取り囲まれているのです(エペソ1:3)。神が知恵と啓示の御霊を送って心の目を開いてくださる時に、どれほどの霊的祝福を与えられているかが見えてきます(エペソ1:17~19)。失ったものと比べものにならないほどの、豊かな祝福を神からいただいていることを御霊が啓示してくださる時に、失ったよりも遙かに多くの恵みが戻ったと実感することができるのです。

 どこまでも神ご自身を信頼し、たとえ地上では失うものがあっても、永遠に続く霊的祝福がこの地でも天でも与えられていることを信じ、主に従う道を選んでいきましょう。

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