「主の言葉に迫られて」  列王記第2 9章1~37



<1~6節>

 預言者エリシャは、預言者仲間の一人を呼び、イスラエル軍の隊長としてアラムと戦っているエフーに油を注いで王とするように命じます。これは、エリヤの時代に主から指示されていたことでもあります(Ⅰ列王記19:16)。

 遣わされた預言者は、アラムとの戦いのために会議中であったエフーを呼び出し、家に入って彼に油を注ぎ王に任命します。


<7~10節>

 そして預言者は、バアル神に仕えて主の預言者を殺し、ぶどう畑を奪うためにナボテを殺したことの(Ⅰ列王記21章)報いとして、アハブ王家を滅ぼすよう、エフーに命じます。偶像政策により、生ける神を恐れなくなったアハブ家の政治は、残虐に満ちたものとなっていました。

 アハブ王とイゼベルによって為された偶像政策と恐怖政治への裁きのために、神は預言者を遣わしたのです。

 それは、ナボテを殺害した時に、神が預言者エリヤを通して言われたとおりです(Ⅰ列王記21:20~26)。  

 エフーは、若い預言者がエリシャから遣わされたこと、アハブ家が神に打たれる理由がすぐに理解できたこと、また預言者の言葉に霊的力を感じたことなどから、これらが神のみこころであると受けとりました。


<11~13節>

 エフーの主君の家来たちは、預言者に対して好意的ではなかったのか、「あの気の狂った者は何のために来たのですか」と表現しています。エフーも、事の重大さをまだ受けとめきれなかったのか、一度は話をはぐらかしますが、家来たちになお問い詰められ、油を注がれたことを伝えました。

 すると、預言者を馬鹿にしていた家来たちも、預言者の言葉を重く受けとめ、エフーを王として宣言します。


<14~16節>

 預言者を通して主が言われたとおり、エフーはアハブ家のヨラムに対して謀反を起こします。そしてアラムとの戦いで、負傷して神殿に帰っていたヨラム王と、その見舞いに来ていた南ユダのアハズヤ王がいるイズレエルに、エフーは向かいます。


<17~20節>

 イズレエルのやぐらの上にいた見張りの者は、エフーの軍勢が向かっていることを王に伝えます。

  ヨラム王は、騎兵を一人送りますが、彼はそのまま戻って来ませんでした。次に送った騎兵も、やはり戻って来ませんでした。二人ともエフーに、すごい気迫で「私のうしろについて来い」と言われ、謀反と気付いたのでしょう。もともと彼らもヨラム王権の限界を感じていたのかもしれません。


<21~29節>

 送り出した騎兵たちが帰ってこないので、北イスラエルの王ヨラムと南ユダの王アハズヤは、それぞれ自分の戦車に乗り、エフーを迎えます。その場所は、「イズレエルのナボテの所有地」でした。

 ヨラム王はエフーの言葉を聞いて、これが謀反であることに気付きます。エフーは、それまでは王に忠誠を誓い仕えていました。ですから王もエフーを信頼しきっていたのでしょう。

 しかし、エフーは、地上の王よりも上におられる、王の王なる神の言葉に従ったのです。エフーは弓でヨラム王を打ち、王の遺体はナボテの所有地の畑に投げ捨てられました。

 ついで、アハブ家と同化してしまっていた、南ユダの王アハズヤも打たれました。


<30~37節>

 アハブ家の偶像政策と恐怖政治を断行してきたイゼベルは、エフーの軍勢がイズレエルに来たとき、お化粧をして髪を結い直し、名誉心をむき出しに「元気かね。主君殺しのジムリ」と言います。「ジムリ」は、バシャ王朝を滅ぼした謀反人です(Ⅰ列王記16:9)。

 エフーは、イゼベルのそばにいた宦官たちに、自分の味方になるよう呼びかけたので、彼らの手によってイゼベルは最期を迎えます。その遺体は、彼女だと認識できない状態になっていました。  

 エリヤが預言し、エリシャに仕える預言者を通して神が言われたとおりになったのです(Ⅰ列王記21:21~26、Ⅱ列王記9:10)。  


 エリヤの時代に主が言われていたとおりに、エフーに油が注がれました。エフーも他のアハブ家に仕えていた者たち(戻ってこなかった騎兵たちやイゼベルのそばにいた宦官たちなど)も、どこかでアハブ家のあり方に問題を感じていたのかもしれません。そのような中で、預言者を通して神の言葉が伝えられたので、エフーは確信を持ってヨラム王に立ち向かいました。  

 神の言葉によって召し出されたエフーに、アラム王の家来たちも、またヨラムやイゼベルに仕える者たちも、協力することになります。  

 一人の人が、神から迫られ、神の言葉によって確信を与えられて進んで行く時、周りの人々もまた、今までの生き方を悔い改め、神のみこころに従っていくようになります。  

 エフーも、アラムとの戦いでは隊長としてアハブ家のヨラム王に仕えていました。けれどもアハブ王権のあり方をそれでよいと思っていたわけではなかったのでしょう。  

 それでも神から迫られなければ、どうすることもできなかったのです。した方がよいとわかっていても、神から迫られ、神の言葉に押し出されなければできないということがあるのです。  

 その時には、神の迫りが来るまで待っていればよいのです。神の言葉に押し出される時には、状況はどうであっても踏み出していくことができます。神のみこころだとはっきりわかった時には、障害と思えることがいくらあっても大丈夫です。  

 しかし、主のみこころかどうかわからない時には、私たちは何もすることができないのです。 「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです」(Ⅱコリント13:8)。  

 主のみこころがわからない時には、主の迫りが来るまで待ちましょう。そして、主の言葉によってはっきり神のみこころを受け取った時には、たとえ状況が悪くても従っていきましょう。

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