1章1節〜5節
1:1 私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、 1:2 信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。 1:3 私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、 1:4 果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。 1:5 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。 |
「信仰から出る愛が目標」
Tテモテ、Uテモテ、テトスの3つの書簡は牧会書簡と言われていますが、これは次のような理由からです。
1 パウロが現職の牧会者であるテモテとテトスに宛てて書いた手紙である。
2 教会生活の実際的問題が、具体的に取りあげられた内容である。
3 微妙にずれた偽りの教えが入ってきたので、その偽りの教えから教会を守るため、キリスト信仰の根本的教えを明確に記している。
テモテ書は、使徒の働きの後に書かれたもので、紀元65年頃に書かれたと考えられています。ロ−マに幽閉されていたパウロが、61年頃解放された後に書いたのではないかと言われています。初めの部分はテモテ個人に宛てて書かれたように思われます。しかし、1節で「キリスト・イエスの使徒パウロから」と彼があえて使徒パウロと自分のことを書き表していますが、手紙の冒頭で使徒パウロと書く時には、パウロの使徒性を疑う人の疑念を除くためや、手紙の名宛人がこの使徒から権威をもってその教会を託されていることを示すためにあえて使ったと考えられます。
私がこの婦人リ−ダ−会でテモテ書を選んだのは、リ−ダ−の方々に必要なことが書かれていると思ったからです。本書の書かれた目的は、次のとおりと言えます。
1 エペソ教会に偽教師がいたため、悪戦苦闘している若いテモテを励ますため。
2 テモテがパウロの使徒的権威に基づいて働いているということを教会に示すため。
3 教会内の制度を整備するのに必要なことを伝えるため。
4 教会員を訓練し、教会員一人ひとりの霊的な成長を願ったため。
以上のことを念頭に置きながら1節から5節まで読むこととします。
1節に「私たちの救い主なる神」とありますが、普通は“救い主イエス・キリスト”という言葉が使われています。牧会書簡にこのような表現が用いられているのには、時代的背景があると考えられます。当時ロ−マ皇帝のことを“救い主なる神”と呼び、皇帝礼拝が強要されていました。しかし、私たちが信じる神こそ救い主であり、本当に礼拝すべき唯一の方であるということを確認する意味を込めて、まず冒頭の挨拶でこの表現を使ったと考えられます。
次に、「私たちの望みなるキリスト・イエス」とありますが、キリスト・イエスは私たちに救いの望みを与え、この望みは再臨の時に完成されます。これからの命令はパウロからではなく、この素晴らしい望みを下さったキリスト・イエスからの命令なので、よく聞いて欲しいと述べています。
2節の「信仰による真実のわが子テモテへ」というのは、パウロとテモテは実の親子ではありませんが、同じキリストを救い主として信じる信仰ゆえに、親子のような存在となっています。パウロはテモテを“同労者、キリスト・イエスの僕、私の兄弟”などと呼んでいます。これは、信仰にあって忠実であり、信頼している慕わしいテモテをこのような言葉で言い表したのです。
「恵みとあわれみと平安とがありますように」とありますが、これはいつもの挨拶と微妙に違っています。テモテ書には「あわれみ」という言葉が使われています。それは、様々な異端的教えをするような人がおり、しかもまだ出来て間もないエペソの教会に遣わされて、悪戦苦闘している若いテモテを慰めるためであったと考えられます。そのような状況下で、牧会能力の限界を感じて、弱っているという話しを聞いていたと思われたため、神の助けは必ずあるということを、この「あわれみ」という言葉で表したのではないかと考えられます。
同じような挨拶文であっても、手紙の受取人の状況を念頭に置いて、微妙に言葉使いを変えているところに、相手を思いやるパウロの心尽くしが現われています。
3節から本論に入ります。パウロはテモテがエペソにとどまり、リ−ダ−として次の2つのことを人々に命じるようにと語っています。
第1に、「ある人たちが違った教えを説いたり」しないように命じています。多分パウロの中には、具体的な名前が上がっていたと思われますが、ここではあえてある人とだけ言っています。しかし、20節になると、ヒメナオとアレキサンデルの名前を出して、彼らをサタンに引き渡したとはっきり言っていることを思うと、ここで言われている“ある人”にはまだ悔い改めの余地が残されていると思われます。
次に、「違った教え」とはどういう教えであったかについては、6章3節に「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない人」とありますが、これが違った教えを説いている人のことです。反対に「主イエス・キリストの健全なことば」とは、神の子キリストが神の権威を持って語った言葉、すなわち福音のことです。その福音に対して、人間の努力や頑張りによって救いを得ようとする、律法主義的な要素などが微妙にミックスされて説かれていたのかもしれません。救いとはどこまでも恵みであり、神のあわれみであるのに、どこかで人間的な要素や人間の頑張りの大切さ、あるいは律法を行うことによって達成されることなどを強調する教えがあったのかも知れません。
「敬虔にかなう教え」とありますが、これは神様を畏れることの大切さとか、たとえ自分の思いとは違っていても最終的には神様に従って行くことの大切さとか、それを行なった時に神様から受ける祝福など、これら全部をまとめて“敬虔”という表現を使ったと思います。このことを大切であると考えないで、もう救われたのだから、神様はあわれみ深い方だから何をしても赦してくれる、別に従わなくても大丈夫だと、神を畏れる畏怖の念を否定するような教えとは異なることを示したと考えられます。このように律法主義的な教えとか、敬虔さを大切にしない違った教えを説いている人たちが何人かいたようです。
恵みによって救われる出来事と、絶対的義なる神様を畏れ従うこと、この両方のバランスが必要で、どちらかを無価値とする教えは、誤った教えであり不健全な教えです。違った教えとの違いは何時も微妙なものなので、私たちがそれに気が付くためには、たえず健全な言葉に触れている必要があります。健全な言葉とは神の言葉です。もしそうでないと、このような微妙な言葉が述べられていても気が付かずに過ごしてしまいます。違った教えとはそれほど微妙なものです。ですから何か違う、何かおかしいと気付くためには、私達自身がこの健全な言葉である神の言葉に、絶えず触れていく必要があります。
聖書は全体が一つのメッセ−ジであり、全体でバランスのよくとれた書物なので、いつも同じ書簡ばかりを読んでいると偏ってしまいます。この意味からも、特にリ−ダ−の方たちは聖書通読を是非続けていただきたいのです。毎日出来なくても、聖書全体を読み、神様の生きた言葉に絶えず触れていていると、違った教えが来た時には、すぐに気付くようになります。
第2に、4節で「果てしのない空想話しと系図」のことが語られています。テトス書1章14節には「ユダヤ人の空想話」という言葉があります。これは、ユダヤ人のラビたちの中に天地創造のまつわる寓話を作り、聖書に出てくる人物の系図とか、聖書の細部をいじくって楽しんいた人がいたようです。福音とはおよそ関係のない事柄であり、神の救いを実現するものではないとパウロははっきりと述べています。つまり、そのような空想話しや系図に心を奪われていると、神様から託された肝心な勤めを果たせなくなり、福音宣教の益にならないとパウロははっきり語っています。皆さんのセルの中でも、例えば予定説とか、世の終りはいつ来るかなど、いくら話し合っても結論の出ないことで、堂々巡りすることはないでしょうか。また、福音の本質に無関係な話に夢中になり、気が付いた時には、求道中の人を躓かせてしまったというようなことはないでしょうか。私達の交わりの中で、大切なことがちっぽけなことのように扱われていないか、よく注意する必要があります。リ−ダ−の方たちは、やはりそういうことに心が奪われないように気を付け、軌道修正する役割を担っています。皆様は「小グル−プの十の心得」を学んでおられましたが、とても大事なことが書かれているので、時々それを御覧になり、それを確認して頂きたいと思います。
5節には「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」とありますが、これがこれまで語って来たことの目標であるとパウロは述べています。今まで私は「偽りのない信仰」という言葉に心をとめていませんでしたが、偽りのない信仰という言葉がここに出てくる重さを今回初めて感じました。
私達が目標とするのは「信仰から出てくる愛」ですが、聖書でいう愛と、一般にイメ−ジされている愛とはまったく違います。人間のいう愛はヒュ−マニズムや“情”とかで表現されましょうが、これは聖書でいわれている愛とはまったく違います。言葉をかえていえば、正しい福音理解から生れる愛のことです。罪だらけの私たちを、御自分のひとり子イエス・キリストを犠牲にしてまで救って下さった神様の愛を一杯に受けることによって、溢れ出てくる愛なのです。愛が無いのにもっと愛さなくてはと絞り出す愛と、聖書がいう愛とは全く違います。しかし、愛を追い求めて行くのだというと、私たちはつい頑張ってしまいやすのではないでしょうか。どこまでも「信仰の結果として恵みによって出てくる愛」が目標です。それは単なる人間的優しさとも違います。人間からは絶対出てこない、神の一方的なアガペ−の愛です。人間の頑張りや努力からは、聖書でいう愛は絶対出てこないのに、それをあえて目標とするのです。ですから聖書で示された目標は、人間の力では絶対に達成出来ないものです。それは、全部神様が成し遂げて下さるものなのです。
ただ私たちは指し示された目標をはっきり見て行く時に気付くのは、“ああ!自分には愛がない。愛がないので悲しいから愛を下さい”と求めるのみです。他の人に愛があるかどうかはどうでもよいことで、まず自分に愛があるかどうかを吟味すべきです。そして無いことに気付くことが大切です。“私の中から神様の愛が溢れ出るまで、私をあなたの愛で満たして下さい。救われるに値しない者のためにどんなに大きな犠牲が払われているか、愛が注がれているのかをもっと分からせて下さい”と私たちは祈るほかないのです。ですから、私達が目標とするのは、偽りのない信仰から出てくる愛です。ヒュ−マニズムの愛は、人の側が頑張って頑張って愛して行く愛です。ですから必ず疲れます。結果的には、心の中は不満で一杯になります。また神様よりも、人からの評価がいつも気になります。
しかし、信仰から出てくる愛は、思わず神様の愛によってさせられるものですから、疲れないし喜びと平安が心にあるはずです。そういう愛を追い求めるよう、しっかりと焦点を定め、それからずれてしまい信仰から出てくる愛を決して見失しなうことのないようにと、パウロは勧めています。ですから、“信仰から出てくる愛”と、いわゆる“ヒュ−マニズムの愛”とがごっちゃになっていないか、よく検討してみて下さい。
自分でやって行く愛でしたら、私たちは必ず破れ倒れてしまいます。神様が差し出しておられる目標は、神様が達成して下さるのですから、私たちはそこを目当てにして、自分にはありませんから神様あなたがやって下さいと、絶えず神様に明け渡して行くことです。