1章6〜11節


1:6 ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、
1:7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。
1:8 しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。
1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、
1:10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。



この書簡はエペソ教会の牧会を託された若いテモテに送られていますが、それはテモテ個人だけではなく、エペソ教会で公に読んで欲しいという願いをもって、パウロは書いています。前回のところで、パウロはエペソ教会の人たちに2つの事を命じています。

(1)違った教えを説くことがないように。

   律法主   人間の頑張りで良い行いをすることで、救いを得ようとする教え。

   無律法主義  神様を恐れることに価値を置かず、神に従うことを軽んじ、敬虔さを軽んじる教え。

(2)福音の根本的でないことに心が奪われることのないように。枝葉のことにこ   だわり、肝心な福音が小さくなってしまわないように。

 それらの命令の目的は愛ですが、この愛はヒュ−マニズムでも、人間的な情でもありません。それは、清い心と正しい良心と偽りのない信仰から与えられる愛を目標としています。ですから、私たちの中から絞り出したり、人間の力で頑張って愛していく疲れる愛ではなくて、信仰の結果として、神様から与えられる一方的な愛、すなわちアガペ−の愛を目標とするようにと言われています。しかし,愛といっても、神様から頂く愛ですから、私たちは自分には愛がないことをまず認めなくてはなりません。
ですから、神様、私には愛がないから下さいと、私たちが神様から愛を頂くことを目標とするのです。パウロは“私たちが目当てとすべきゴ−ル”をはっきりと指し示しました。これが前回までのところです。


 今日は6節から11節までを学びます。ある人たちは、偽りのない信仰から出てくる愛を見失しない、脇道にそれて無益な議論に走りました。ここで使われている「議論」は、“くだらないお喋り”と訳される言葉です。目的を見失うと、私たちは必然的にこのくだらないお喋りを始めます。

 リ−ダ−の皆様方はこの目標をはっきりさせていないと、気が付いたら所属しているグル−プの人々がくだらないお喋りや無益なお喋りに走っていて、肝心の福音がおろそかにされていたという危険性が何時もあると思います。まず私たち自身が、この清い心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛、これを目標としているのだということを何時もはっきりさせ、そのことをグル−プの皆さんにも伝え、そこに何時も焦点を当てるように意識することはとても大事なことであり、それがリ−ダ−に与えられている大切な使命であり役割であると思います。

 そうであるにも関わらず、脇道にそれ無益な議論にふける人たちは、皮肉にも律法の教師になりたいと願っている人たちであり、その人たちは、律法の何たるかも、福音の何たるかも分かっていないのです。その人たちは律法を用いながら、空想話し(4節)に興じている人たちです。ですから、信仰に少しも結び付かないのです。そういう律法をもてあそんでいる人たちに対して、本来律法は良いものなのだとパウロははっきりと語っています(8節)。

 使徒の働き10章で、神様はペテロに夢を見させ、もはや清い動物と汚れた動物、食べて良い食物と食べてはいけない食物の差別が無くなったことを示し、また割礼にしても、もう「キリストの割礼」だけで良いと述べています。キリストの恵みを明確にするために、律法は必要です。私たちも、律法そのものは良いものであると、はっきり認める必要があります。

 「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ロ−マ7:12)

 「もし自分がしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。」(同7:16)

 ですから、私たちがしたくないことをしてしまい悩むのは、それは律法が良いものであると認めているから悩むのです。

 先ほどの割礼については、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、『キリストの割礼』を受けたのです。」
(コロサイ2:11)とあります。ここでは、パウロは「キリストの割礼」を受けた私たちは、もはや「肉の割礼」を受ける必要がないと言っていますが、そのパウロがロ−マ書では、律法は聖なるものでありかつ良いものであると言っています。そのうえイエス様は、律法についてマタイ5章の17節から20節で、もっと厳しい姿勢で語っています。この個所で、イエス様は律法を破棄するためにではなく、成就するために来たと言っておられます。神様の戒めを軽んじてはならないと語っています。

 久遠教会の初代の牧師であった丹羽先生も日曜学校で、「十戒」を子供たちにしっかり教えるようにと言っておられたそうです。なぜかというと,律法をはっきり認識しなければ罪ということが本当には分からず、罪が分からなければ、キリストの十字架の贖いの深さが分かりません。

律法の前では、私たちは自分の罪を知るばかりであるとロマ書3章20節で述べられています。また、ガラテヤ書3章24節では、律法は私たちがキリストの元へいくための養育係りであると言われています。律法を知ることにより、私たちは自分の罪を知り、自分の力では救われることが出来ず、そのためキリストのもとへ逃げ込まなければ救われ得ない罪人であると知らされるのです。このように、キリストのところに導くための養育係りとして律法があるのだと言われています。

 したがって、律法がぼやけて来ますと、必ず福音もぼやけてきますし、信仰もぼやけてきます。すべてがぼやけたものになってしまいます。ですから、律法が良いものであり、私たちがまず受けるべきものであるというところに立たないと、すべてがぼやけてしまうのです。福音の恵みを受けていくうち、私たちはともすれば、何時しか無律法に陥り易い危険性が絶えずあります。ですから、律法は正しい人のためにあるのではなくて、律法を無視する不従順な人、不敬虔な人、汚らしい俗物、父や母を殺す者等を、告発するためにあると言われています。すなわち、律法は私たちに違反を示すものなので、律法無しには私たちは違反していても気が付きません。律法で禁じられているから、自分がやっていることは悪いことだと分かるのです。

 ロ−マ書7章7節では、律法で「むさぼってはならない」と言われなければ、むさぼりが罪だと私たちは分かりません。神様の基準に照らされた時に、私たちはむさぼりが罪だと知らされるのです。特に、Tテモテ1章9節〜10節では、むさぼるなというような私たちの内面の罪ではなくて、人の外面に現れた具体的な罪を指摘しています。ここではパウロは律法を軽んじたり、神様をおそれない人たちを、特に意識しているように思います。なぜなら、エペソの町は異邦人社会ですから、ユダヤ人社会に比べれば、その道徳感も倫理感も非常に低かったと思われます。ここで言われているようなことは、エペソの町では、日常茶飯事に行われていたと考えられますので、逸脱に慣れっこになっていたかもしれません。教会も少なからず、このような影響を受けていたのかも知れません。

 律法は、祭儀律法と道徳律法の2つに大別されます。

 「祭儀律法」は、犠牲の動物などを捧げて儀式を行う際のことを定めた律法です。

 「道徳律法」は、いわゆる倫理的な律法です。

 ですから、祭儀律法は、キリストがすでに十字架にかかって、私たちのために全焼の子羊になって下さり、私たちは何時でも何処ででも、キリストを通して神様を礼拝出来る恵みに預かっていますので、祭儀律法はもはや必要なくなりました。

 しかし、道徳律法は、神様の基準をそのまま現すものですし、その道に歩んでいくことが人間にとって幸せな道であり、人間同志の無用な衝突を防ぐ方法として神様の知恵が現されていると思います。ですから、道徳律法は、現在も有効であるといえますが、新約に生きる私たちは、「モ−セの律法」に支配されているのではなく「キリストの律法」に支配されているのです。

 「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラテヤ6:2)。ですから今日の私たちは「モ−セの律法」のもとにあるのではなくて、「キリストの律法」のもとにあるのです。「キリストの律法」とは、“イエス様であったらどうするであろうか、イエス様は、私が、このことに対して、どのようにすることを、願っておられるだろうか”(What would Jesus do ?)と、絶えず思い巡らすことであります。しかし、それを知るためには、神様の基準はどのようなものかを知る必要があるので、どうしても「キリストの律法」が必要になります。あらゆる場合に、イエス様だったらどうするかを考えて生きることが、新約の時代に生きる私たちの生き方です。

 「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」                         (ロマ書12:2)

 「主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(エペソ5:17)

 しかし,私たちは聖霊に促されなければ、何が神のみこころであるか分かりません。また、自分で自分を変えるのではなくて、神様によって変えられ続けていくのです。
ですから新約に生きる私たちは、このキリストに支配されている者、すなわち、底知れない罪を、ただキリストの十字架で限りなく赦していただいたキリストの愛に対して、“私はどう生きるべきか、何を悔い改めるべきか、何を喜ぶべきかを、その『キリストの愛の律法』に立って考えなさい”それが私たちに、常に求められていることではないかと思います。

 福音は健全な教えである律法を軽んじるものでは決してありません。そればかりか、福音は律法を土台としているものであり、むしろキリストにあって、律法を成就していくものなのです。ですから福音を信じていると言いながら、律法に違反して全く平気な人がいるならば、それは福音を信じている人とは言えないと思います。もちろん私たちは罪人ですからしょっちゅう罪を犯しますが、その時痛みを感じ苦しくなって神様に立ち帰り、キリストの十字架にすがらなければやっていけません。

 そして、私たちの交わりが律法をいい加減にすると、すべてがぼやけてしまいます。神様をおそれる心を失い、神様に従うことを軽んじるようになったら、それは世俗主義に陥ってしまいます。

 宣教の教会になるためには、新しい人たちが来やすい教会であることはとても大切なことであると思います。同時に、神様をおそれる心や、最終的には神に従うことが最善なのだ、つまり神様の主権というものをはっきりしなければ、教会またはグル−プの交わりは世俗化してしまいます。パウロは、私は福音宣教のためには何でもする、ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持っていない人にはいない人のようになる。それによって一人でも多くの人がキリストの者とされることを喜ぶと言っています。(Tコリント9:20〜21)

 そのように、教会が新しい人に開かれ、色々な人たちのために福音を提示していくことはとても大切なことですが、それと同時にそこに集った人たちに、神様を恐れる礼拝の心というものを、しっかりと植え付けて行く必要があります。この両面があって初めて、「バランスの取れた教会」になっていくと思います。

 そのために、「ウエルカム」と「ワ−シップ」のこの両方が大事です。福音は律法を土台としています。神の義、神の清さ、神の基準そういうものがはっきりされるために、律法を通らないとどんなに人が集まっても、それらの人たちがキリストを切実に求めて行くようになりません。
教会、セル・グル−プを問わず、この「ウエルカム」か「ワ−シップ」かのいずれかに偏ったら駄目です。ですから、どんな弱さの人も受け入れると同時に、そういう人たちが真の礼拝者になっていく、また神を恐れるものになっていく、それは取りも直さず、私たちがその姿勢を持っていなければそのようには育っていきません。
それはまた、教会に来ている子供たちについてもいえることで、大人たちが本当に神様を恐れ、神を崇めて礼拝している姿を見れば、自然に礼拝する心を身に付けていきます。
逆にそれを持っていなければ、子供たちは神様を軽んじるようになると思います。ですから、この「ウエルカム」と「ワ−シップ」の両方を大切にしていく交わりを祈り求めていきたいと思います。
特にリ−ダ−の方たちは、この両方が大事であることを、是非心に止めて頂きたいと思います。 そのためにも、皆さんのグル−プにおいて、この「ウエルカム」と「ワ−シップ」のバランスがとれているかどうか、また、それだけに限らず、弱い所は何処かを、皆さんで分かちあって頂きたいと思います。







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