2章1〜3節


2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

 
「祈りの武器」


 1章では,エペソ教会を委ねられ,様々な問題に遭遇して気落ちしがちなテモテに対するパウロの個人的励ましが書かれていました。当時の問題としては,異端的教えや律法的教えが教会に入り込んだり,反対に無律法主義の生活を送ったためにサタンに引き渡され,神の御名を汚して教会から出ていく人たちがいたりしてテモテも悩まされたことと思います。2章からは,牧会者として,あるいは教会のリ−ダ−として,次の事を大切にするように勧め,いよいよ本論に入ります。

 皆さんも地域セルを委ねられているわけですから,ある意味においてこの牧会者への勧めはそのまま通じるものです。そこで,パウロがテモテに牧会上大切な事として伝えた事柄をしっかり受け止めて頂きたいと思います。

 1節で言われていることは,「すべての人のために祈りなさい」で,これが第一の勧めです。ここで「王とすべての高い地位にある人たちのために」と述べています。具体的には,皇帝とか地方総督という人を念頭に置いているのでしょう。しかし,地位の高い特別な人よりも,“すべての人”のために祈ることを勧めているのです。それなのにどうして王や地位の高い人を祈りの対象に加えたかと言うと,当時のエペソ教会の中には反皇帝意識が高まっていたようです。はっきりとは分かりませんが,色々な迫害が関係していたのかも知れません。反皇帝という気運の高まった中で,パウロはただ反抗するのではなく,皇帝や高い地位にある人のために,むしろ祈りなさいと勧めています。そういう地位の高い人のためにも祈りなさいと言うことによって,すべての人のために祈りなさい,執り成しなさいとパウロは言いたかったのです。

 私たちについて言えば,国のリ−ダ−のために祈りなさいと言われているのです。このような内容の勧めは,聖書にはあまり出て来ませんが,決してどうでもよいことではなく,大切な事として言われています。日本の国を司っていたり,また大きな影響を及ぼしている人たちのために,私たちも確かに祈る必要があると思います。教会によっては第一週の祈祷会ではそのような祈りもするところもあります。祈りは本当に凄いもので,祈りによって街ごと変わったり,国ごと変わったり致します。本当に一つの街が執り成しの祈りにより街の住民全員がクリスチャンになるということが南アメリカで起こりました。世界を御手に治めておられる神様が働かれるのですから,祈りはそのように強力な武器です。

 1節のところで「願い,祈り,とりなし感謝がささげられるようにしなさい」と言われています。言い回しは違いますが,とにかく祈りなさいということを,4つの表現で強調しているのです。まず,神様に願いなさい。神様に祈りなさい。神様に対して執り成しの祈りをしなさい。そして神様に感謝が捧げられるように,感謝の祈りをしなさい。このように,「願い」,「祈り」,「執り成し」,「感謝」の祈りをしなさいと言われていますが,四つの言い回しをしながら,とにかく祈れ,祈れ,祈りなさいと,祈りを強調しています。

 まず,初めにリ−ダ−ヘの勧めとして最も大切な事とし言われていることは,祈りです。私一人が祈っても何も変わらないと言って,あきらめていはしませんか。ことは反対なのです。私一人が祈り出せば変わります。私一人が本当に祈る人になったら逆に変わるのです。韓国や中国,ロシア,その他いろいろな国が,祈りによって国ごと変えられている,そういう歴史的事実があります。祈りで国が変えられる位ですから,祈り始めれば教会だって変わります。私自身,祈りが足りないので,まだまだ変わっていかないことがあるかも知れませんが,私の祈りの足らない部分を,ぜひ皆さんで補って頂きたいと思います。

 本当に何を助けて欲しいかといって,やはり何を止めて頂いても結構ですから,その分,祈って頂きたいと切実に思っています。祈りがなければ,どんなに働いて下さる方がいても,立派な会堂や体制が出来ても,神様の御業は前進しません。逆に,少々会堂に不備な点があっても,教会のシステムや体制がいまいちであっても,牧会者が最悪であったとしても,祈りがあれば神様がカバ−して下さいます。神様は弱く愚かなところに働く方ですから,本当に祈りさえあれば,神様がカバ−して下さいます。ですからリ−ダ−は神様に願い,神様に祈り,神様にすべての人のための執り成しをし,神様に感謝の祈りを捧げる祈りに尽きると述べ,パウロは「すべての人のために祈りなさい」とまず第一にこのことを強調しています。

 何年か前に香港で,セル・グル−プを中心にして成長した教会のお話を聞いたことがありますが,その牧師さんは私と同じで,祈れないということを一つの悩みとして持っていたようです。でも,いろいろな教会の話を聞くと,どうも教会というものは祈らないと成長しないらしい,祈りが成長の鍵といわんばかりに,鉄則のように聞いていたので,それでは牧会者の自分が祈らないから,自分たちの教会は成長しないと思ったそうです。でも,セル・グル−プが出来て,そのセル・グル−プのリ−ダ−たちがよく祈るようになり,また特別な祈りの賜物のある人が何人か与えられて,そういう人たちが祈るようになってきたそうです。そのお陰で自然に教会が成長したのだそうです。必ずしも,牧師に特別な祈りの賜物がなくても教会は成長するという,新しいモデル・ケ−スになりましたが,その事を聞いた時,私たちの教会もそうなりたいと思いました。別に教会が大きくならなくてもよいのです。成長というのは人数が多くなることだけではなくて,神様の御業が生き生きと働いていく教会であることです。私たちの教会も,そのようになることを何時も願っています。神様が生き生きと働ておられれば,結果的にまた救われる人もおこされて来ますし,教会も成長します。

 是非,国のためにも,教会のためにも,またすべての人のためにも,祈る者になって頂きたいと思います。私もなりたいですが,皆さんにも,私の足りない分を補なって頂きたいと切に願っています。 

 今,週報に,日々の聖句を載せて頂いている元の本がここにあります。それの最後の方に,「七曜の祈り」という欄があって,「日曜日は人類の救いのため」,「月曜日は教会の奉仕のため」,「火曜日は家族のため」とかいうのがあります。もう少ししたら,私たちの教会でも皆さんで心合わせて,日曜日は何のために祈りましょうというのが出来ればと思っています。皆さんで個々に,「何曜日は特にこの事のために祈ろう」というものを工夫して作り,祈って頂いてもよいと思います。また,自分自身祈りが足りないと思ったら,他の人にも祈りを要請していく,これも大事です。祈るだけでなく,祈りを要請する賜物というものもあるのかも知れなせん。皆んなが祈りを依頼するだけで,肝心の祈る人がいなくなったら困りますが,祈って下さい!と叫ぶのも大事です。

  祈りの賜物のある人は実際にいます。どういう人かというと,何時間祈っていても大丈夫。もう祈ることが楽しくって,楽しくって仕方がない。祈りが聞かれなくても,祈りが聞かれるまでとことん祈り続ける人,このような特別の祈りの賜物のある人のことです。ひょっとしたら私はそうかなと思われる人は,是非「祈りの鉄人」になって下さい。

 コロサイ書4章の2節に「目をさまして,感謝をもって,たゆみなく祈りなさい」とあります。この『たゆみなく』という言葉は軍事用語だそうで,軍隊で大砲や鉄砲などで,敵の城壁が落ちるまで打ち続けることです。祈りというものは,そのように敵の城壁がうち倒されるまで,がんがんあきらめずに祈り続ける,そのような強い言葉をパウロは使っています。でも私たちは,何年祈っても全く事が変わらないと祈り疲れてしまったり,あきらめたりしやすいけれど,祈りというものは他の箇所でも言われているとうり,忍耐の限りを尽くして祈るものです。忍耐がいるのです。
 ですから何年でも祈ってやるぞ,成るまで祈ってやる,がんがん祈り続ける,サタンの城壁がうち壊されるまでたゆみなく祈り続ける。祈りとは本来そういうものです。祈ってすぐ聞かれないともう嫌だというのは,祈りではないと思います。

 2節「すべての人のために祈る」ことは,「私たちが敬虔に,威厳をもって,平安で静かな一生を過ごすため」にもなると言われています。すべての人のために祈ることは,他人のためと思うかもしれませんが,結果的には敬虔に,威厳をもって,平安をもって私たちが過ごすための秘訣であると言っています。「敬虔に,威厳をもって」というのは,例えば清く正しくというように,語呂合わせるような意味で使われています。信仰深い生活が出来ることにより,平安な一生を過ごすことが出来ます。そのためにもすべての人のための執り成しの祈りは大切な事です。私たちは自分勝手ですから,自分さえ平安であれば良いという風に思ってしまいますけれど,実は,自分が平安であれば良いという生き方は,実際には平安のうちに生きられないものです。やはりすべての人が幸せであり,すべての人が平安でいてくれないと,本当の意味で平安を得られないのです。もちろん,実際には,簡単にはそのようにはならないかも知れませんが,すべての人たちが神様の祝福を受けていくことが,結果的には私の平安につながるのです。いくら自分一人が平安であっても,家族が平安でなければ自分自身も平安ではありません。自分たちが平安であっても,教会が平安でなければ平安ではないと思います。あるいは国が平安でなく戦争していたら,平安ではありません。そういう意味では,ほかの人のために執り成し祈ることにより,ほかの人が幸せになり,ほかの人に平安が与えられることが,結果的には私の平安につながります。また私の信仰の益と成長にもなります。だからこそ,なおさらすべての人のために,祈っていきなさいということが勧められているのです。

 3節では,すべての人のために祈ることが良いことであり,神に喜ばれることと言われています。良いこととは,まず第1に祈る人と祈られる人相互に良いことであり,第2にそれを神様が喜ばれることなのです。神様が喜んで下さることは,私たちにとっても喜びですから,すべての人のために祈ることは,結果的には私たちの喜びにつながります。

 牧会上一番大切なことは祈りです。すべての人のために祈る祈りです。一人のところでも祈り,兄弟姉妹が集まった時にも祈ることにより,主に働いて頂くことが大事です。徹頭徹尾何をするにもまず祈りです。

 どんなに私たちが何を頑張っても何を学んでも,主が働いてくださらなければ,すべては空しく終ってしまいます。逆にどんなに私たちが足りなくても弱くても,そこに主が働いてくださって,主が私たちの弱さを補ってくださるならば,神様の素晴らしい御業が現わされていきます。まず大事なこととして私たちに言われているのは,すべての人のために祈りなさい,願いなさい,祈りなさい,執り成しなさい,感謝を捧げなさいです。それが一番大切なこととして,パウロはこの牧会者テモテに,最初に言っていることです。是非もう一度この基本である祈りということを大切にしていきたいと思います。

 





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