2章4〜7節


2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
2:7 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ「「私は真実を言っており、うそは言いません。「「信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。

 
執りなしの祈りのゴール

 1章では,パウロが自分自身の証しを通して,エペソの教会を託され意気消沈している若いテモテを何とか慰め励まそうとする言葉が切々と語られていました。しかし,2章からは,牧会についての大切な助言が始まります。

 初めに言われているのは,とにかく全ての人のために祈りなさいということです。1節のところで,願い,祈り,執り成し,感謝を捧げられるようにしなさいと色々な表現がされていますが,とにかく祈れ,祈れ,祈れ,祈れと言われていています。まずリ−ダ−達に大切なことは,何にもまして祈りであることを強調しています。

 「すべての人のために,また王とすべての高い地位にある人たちのために願い,祈り,とりなし,感謝がささげられるようにしなさい」とありますが,これはすべての人の一例として,王とか高い地位にある人が取り上げられています。しかし,言おうとしているのはすべての人のために祈ることです。もちろん,高い地位にある人のために祈ることの大切さも説いています。特にその頃,エペソ教会の中に反皇帝主義が高まっていたので,ただ皇帝が悪いと反対し批判するのではなく,むしろその人たちのためにも執り成して祈りなさいとパウロは勧めています。

 今話題になっている小泉総理大臣のためにも,また天皇のためにも,ただ反対し批判するだけではなく,そういう人のためにも祈りなさいと言われているのです。これは教会についても言えることであって,牧師,副牧師,伝道師,執事会のリ−ダ−たちのために,執り成し祈ることは大切です。牧師が就任したからもういいといって安心されては困ります。常に危機意識を持って祈って頂きたいのです。とにかくすべての人のために,執り成して祈ることが,結果的に私達が平安な一生を過ごすことにもつながると2章2節では説かれています。また神様御自身もそうすることを喜ばれることが3節にも記されています。とにかく祈ることが大事,何にもまして祈るように勧められています。

 執り成しの祈祷課題というものを,週報に載せて頂くことになりました。「月曜日は家族知人のため」とか,「水曜日には日本のため」とか「土曜日は明日の礼拝のため」とかそういう形で,皆で心合わせて祈って行きたいと思います。自分たちの周辺のことだけではなくて,本当にもっと広い視野に立って,全ての人のために祈ることを神様は望んでおられます。それは,結果的には私たちが平安な一生を過ごすために大切なことなのです。

 全ての人のために祈りなさいというつながりの中で,4節以降が語られて参ります。「神は,すべての人が救われて,真理を知るようになるのを,望んでおられます」。神様は,全ての人が救われて,真理を知ることを望んでおられる方です。ここで言われている「全ての人の救い」,これが先ほどの「全ての人のために祈りなさい」ということの延長で言われています。つまり,人が救われて真理を知るようになること,それが執り成しの祈りのゴ−ルです。

 皆さんのセルのメンバーの中には,非常に大きな問題を抱えている方がいらっしゃるかも知れませんが,もちろんその問題が解決することを御本人も期待しているでしょうし,また関わっている人達も願って祈っていると思います。しかし,問題が一時的に解決することだけでなく,本当にその人が救われ,キリストの真理を深く知り,本当の意味で神様との和解を経験すること,それがなければどんなに問題が解決しても,一時的な解決に終わってしまいます。再び新たな問題が起きたら,同じ悩みの中に埋没してしまい,希望が持てなくなってしまう,その繰り返しになります。

 大切なことは,今の問題を通して主に触れて頂くこと,神様から差し出されている救いをさらにはっきりされていくために,その問題が用いられるのだと思います。その具体的な問題を通して,その人が自分の罪を神様の前にはっきりされる,そして本当にキリストの十字架にすがらなければどうしょうもない者であると,その具体的な問題を通して知らされていく,そのように罪と救いがはっきりされる出来事,これを求めて祈るのでなければ,ただ一時的に問題が解決してよかった,よかったで終わってしまっては,根本的な解決にはなりません。

 目の前の問題の解決よりも,この恵みの救いを受け取ることの方がずっと大事です。ですから,私達が全ての人のために祈りなさいと言われたこの全ての人のために祈るという時に,その執り成しの祈りのゴ−ルは,その人の救い,神様が願われているようにその人が救われて,真理を知るようになる,このことの方が比較にならない位に大切なのです。

 あるいは,もうその人がクリスチャンであったとしても,さらにその人がその具体的な問題を通して神様の臨在に触れていけるように,神様の凄い力とまた救われているということの恵みの大きさをもっともっと知ることが出来るように,私達はさらに祈り求める必要があります。神様の救いがはっきりしなければ,結局何もかも付け焼き刃で,その場しのぎで,相変わらず事態に振り回されるだけになってしまいます。

 逆に,救いがはっきりしていて,私たちの国籍は天にあることがはっきり信じられていれば,地上のことでそれほどまでに振り回されることはないと思います。また同じ悩みの中にあっても,すでに根本の救いを頂いており,天に希望を持っている者として生かされていることがはっきりされているならば,軽やかな悩みであると思います。まだ救いがはっきりしないで悩むのと,はっきりと,救いを受けとった上で悩むのとでは,悩み方が全然違います。ですから私たちが人のために執り成して祈る祈りは,この4節にあるように,その人が救われて真理を知るようになること,これを執り成しの祈りのゴ−ルとして何時も祈り続けていく必要があります。

 5節と6節では,4節でいわれている「真理」の内容が説明されています。これは内容から見れば,洗礼の時になされる信仰告白の一部が引用されているのではないかと言われています。福音の大切な内容がコンパクトにまとめられています。その内容は

1 ほかに神がいるのではなくて,神は唯一です。 天地万物を造られて,その力強い御手で今も生きて具体的に私たちを助けて下さる神はただ一人です。                   

2 神と人との仲介者も唯一です。 これは私達にとっては,当然のことに思われますが,当時ユダヤ主義者等はこの仲介者がモ−セであるとか,大祭司であるとか,そういう人が神と人間の間を仲介すると言い続けていました。この当時広まり続づけていた異端であるグノ−シス主義的教えでは,神と人との仲介者は御使いであると言う人もいました。このように色々に言う人がいました。でも神と私たち罪人を仲介して下さる方,本当の意味で神様との和解を実現して下さった方は,罪なき神の子イエス・キリストただ一人です。

3 キリストこそ神でありながら,人としてこの地上に来られて,私達の罪の全借金を肩代わりして神様に払って下さった方です。  御自身をあの呪いの十字架に捧げて下さって,私達を罪の支配から買い取って下さった方,自分の力では清めることの出来ない自分の罪に対して絶望するしかない,絶対解決出来ないこの罪を神の子キリストが全部負って下さって,神の罰を全部肩代わりして受けて下さいました。イエス・キリストが御自身を与えつくして,十字架の死にまで捧げて下さったからこそ,私達はもう罪に悩まなくてよい,罪の恐怖に縛られなくてもよくされました。ですから,この救いは,キリストの恵みだけによるものです。

 このような3つの真理が,5節と6節にコンパクトにまとめられています。そのような真理を,全ての人が知ることが出来るように,クリスチャンになっても,ここが本当にア−メンだと言えない人がいるかも知れません。しかし,信じると言っても色々な段階があって,なんとなく頭では信じているけれども,まだそれが本当に心からア−メンだという所まで信じていないこともあります。そういう意味においては,クリスチャンであるといっても,どこまで本当のクリスチャンであるかは眉唾もので,私たちも本当に信じるまでに,いよいよお互いに祈りあう必要がありますし,色々な問題を通していよいよ信仰がはっきりさせられることを求める必要があります。

7節には,キリストが全ての人の贖いの代価として,御自身をお与えになったことを証しさせるために,パウロを宣教者,使徒,異邦人に教える教師とされたことが書かれています。パウロは,特に異邦人伝道に召された方ですから,信仰とキリストの救いの真理を,異邦人に伝えるために召されたことが繰り返し述べられています。

 御婦人の方でまだ御主人が救われていない場合には,日曜日に教会に来ずらいので,どうやって自分の家族に伝道したらよいかという話を耳にしますが,伝道の原点は,やはりこの執り成しの祈りにあります。まずその人の心が開かれるように,また最善の時に自然に福音が伝えられるようにと祈っていると,神様は必ず十年二十年かかるかも知れませんが,そういう時を備えて下さると思います。本当の福音を伝えるためには,私達がまずその人のために祈り始めるのが伝道の基本であり,スタ−トです。         

 ですから,全ての人が真理を知るようになるために,まずその人のために祈りなさいとパウロは2章で強調しています。もちろん,神様は生きて働かれる方ですから,色々な具体的問題にも関わって下さいます。ですから,ある時には人の力ではどうにも出来ないことを神様が鮮やかに解決して下さることがあります。道が行き詰まってどうしょうもなかったのに,神様はある時,一気に道を切り開いて下さり,「ああ,本当に主がやって下さった」と心から感謝出来ることを起こして下さいます。しかし,それが最終的に救いに,また神様御自身を知ることにつながっていかなければ,「ああ,解決してよかった,よかった」で終わってしまいます。神様が私達に与えたいのは信仰です。また信仰による救いです。ただ問題が解決して「ああ,よかった」で終わってほしくはないのです。本当に信仰をはっきりして欲しいし,信仰を受けとって欲しいのです。                     

 ですから,どうか執り成しの祈りをする時に,ただ問題解決だけで終わるのではなく,もう一歩踏み込んで本当にその人が救いに至るように,生きたキリストの素晴らしさや恵みに深く触れることが出来るように,そこまでグル−プの人のために,全ての人のために執り成し祈って行きたいと思います。

 お祈りします。





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