1章6節〜8節


1:6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

 
  第Uテモテの2回目の学びになりますが、この第2テモテ書全体を通して信仰の継承ということが折り込まれています。5節にあるように、テモテ自身も祖母ロイス、母ユニケに続いて3代目のクリスチャンです。パウロ自身も信仰は自分たちの世代だけではなく、福音が代々引き継がれていき育っていくべきでその視点を忘れないようにと言っています。


6節〜

 テモテの任務のための按手(手を置いて祈る事)をして祈った時、いただいた神の賜物(これは7節からも聖霊の賜物と関係があるようです)を、今新しい賜物を求めるのではなく、すでに与えらている神の賜物を用いて、大いに活用するようにと私(パウロ)は願っていると言っています。

 自分に頼ろうとする力が働くと、聖霊の働きを妨げます。自分の何かではなく、聖霊の働きを活用し、その力を認めていくことは、主のみ名を讃えていくことになります。

聖霊さま働いてくださいと願っていく事が信仰生活には大切なことです。


7節〜

 その聖霊についての言及があります。「神が与えてくださった霊は臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です」この「み霊の力」 の語源はダイナマイトの爆発的な力、ダイナミックな力のことです。み霊が働いて下さる時、私達の内にはない強い力が働くのです。エペソ3:16では“内なる人を強くして下さい”と言っています。

私達の力は弱くても良いのです。冷えきった心を燃やし、強くして下さるみ霊にやっていただくのです。

 愛の霊 第1ヨハネ4:18“愛には恐れがありません”その愛(十字架の愛で)は刑罰を消して下さる愛です。うずくまってびくびくし、恐れている人がたくさんいますがそんな人のために第1ヨハネ4:9で“神の愛”を示して下さいました。

 慎みとは 自己節制のことです。これも神の賜物なのです。自己節制しよう、自分の力で慎み深くしようとしても、神の前には、慎みとして映らないのです。本来人間は高ぶるものです。だからみ霊さまにやっていただくしかないのです。

 神が私達に与えて下さった霊は、ぜったい私達(人間)からは出てきません。私の中からは出てこない力、私の中からは出てこない愛、私の中から出てこない慎み、そういうものをもっておられる神にいつも私に与え続けて下さいと願っていきましょう。


8節

 力と愛と慎みの霊を神から与えられている私達だから、“主を証しする事を恥じてはいけません”“私が主の囚人である事も恥じてはいけません”私(パウロ)は悪い事をして獄中に居るのではなく、主を証しする福音のために、主の証人として居るのです。

 8b“むしろ神の力によって、福音のために私と苦しみを共にしてください。”

クリスチャンは皆、献身者です。(献金もその告白です)。主のことを第1とし、福音を伝えていく使命があります。福音には苦しみが伴います。そんなに苦しかったら信仰を止めればいいのに、しかし止められないのです。なぜなら神の愛があまりにも素晴らしいからです。私がやるのではなく、神の力によって福音に仕え、内なる人を強めて下さるみ霊さまにやっていただくのです。

 今世界中でも、福音のために投獄されたり、苦しんでいる人がいます。そんな人達のためにも苦しみを共有して祈っていく必要があります。
また教会生活やセルグループをやっていくとき、困難にぶっかる事もあるでしょう。


解っているのに、ついつい自分でそれに立ち向かおうとしてしまいます。忘れ易いのです。

そんな時こそ、み霊さまに頼んでいく、この一年そうありたいですね。



質 問

1、与えれた神の賜物を軽んじていることはありませんか。

2、福音のために今苦しんでいることは何ですか。

3、今み霊さまに助けていただきたいことは何ですか。





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