1章9節


1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

 

前回は8節まで学びましたが、今回の9節はその内容説明へとつながりますので、8節を思い起こしながら学んでいきましょう。  


 パウロは8節「神の力によって、福音のために私と苦しみを共にして下さい」と言っています。この書簡は牢獄にて記している関係もあって、こう言っているのですが、主を証しする事は、内外からの戦いも多々あります。「力と愛と慎みの霊を与えていて下さるから、主を証しする事を恥じてはいけない」と言っています。

キリストの体である教会のために、またセルグループのなかで、いやな事を言われたりすることがあるかも知れません。しかしそのいやな思い以上に、有り余る恵みを体験するから、主を証していけるのですね。今の時代でもこの福音のために命をかけて惜しみないとしている人たちがたくさんいます。この福音とは何か。自分が受けていなければ、それを人に語れません。そのためにも福音とは何かをしっかり抑えておきたいですね。パウロは次の9節から福音とは何かを語っています。

[神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるものです。…9a

 9節では「神の計画と救い」を言っています。

この救いは神が一方的に与えて下さった無償の救いであり…神が招いて下さったゆえに与えられたもので…神のご計画なのです。

 神の子が十字架にかかって、私たち人間を罪から救って下さった…このことは世界誕生の前からの神のご計画であり、永遠への救いがなされていたのです。エペソ1章4節「世界の基の置かれる前から、キリストの内に選び…」とあります。

 罪のない 100%聖い方が、罪だらけの私たちを聖くするために、招いて下さっているのです。これを聖なる招きと言います。今はまだ、罪にまみれ、黒くてボロボロだけど、神様を信じるなら聖いとみて下さるのです。

 そのためには「私をあわれんでください。」とこの気持ちが持てるかどうかが「鍵」です

 自分の罪を100%認められたときには、神のあわれみにすがるしかありません。

この自分が誰よりも罪に汚れた人間であるとわかって、神のあわれみでいただいた愛を知った時、大胆にその恵みを証しすることが出来るのです。

 神の前には誰一人偉い人はいないのです。牧師であろうと、リーダーであろうと、皆神のあわれみが必要な罪人で、教会には偉い人はいないのです。

私は、神の聖なる招きによって救われた者、神の一方的な恵みによって救われたのです。

(私の何かを買われて、救われたのでは決してない)


 ぜひこのことを見失わないように、間違わないようにしたいです。

セルでどんなまじわりをしているか、神様のすごさを話し、証するセルになっていますか?自分の確かさが前に出ていませんか。私の基(土台)はキリストになっていますか。もう一度点検してみて下さい。


質 問

1.あなたは神のあわれみを必要とするほどの罪人ですか。
  特にそのことを痛感すること、(時は、)どういうこと(時)ですか。

2.私という存在が偉くなって、メンバーを萎縮させたり、傷つけたりしていませんか。

3.各グループで人間の善さや働きではなく、神のあわれみが充分わかちあわれていますか。もしそうなっていなければ、なぜですか。



ページの先頭に戻る