2章14節〜15節
2:14 これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。 2:15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。 |
「何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼす」ような論争をしないように、「神の御前で厳しく命じなさい」とパウロはテモテに伝えています(14節)。当時のエペソ教会では、「復活はすでに起こってしまった」とか、明らかに聖書からズレた教えが横行していました。純粋に福音を信じて喜んでいた人たちが、その論争の中で色々な疑惑をもったり、福音そのものに対しても不信をもつようになることが起きてきました。交わりとしてお互いの信仰の成長のために問題定義をしたり、吟味しあうことは大切ですが、聞いている人々をただつまずかせる論争はしてはいけないのです。それは、パウロが「しないように神の御前できびしく命じなさい」と言われるほど、してはいけないことなのです。からだ全体を考える時に、今この話しをすることが益であるかどうか、議論し続けることが益か無益かを考えることは大切なことです。キリストのからだに属する者は、からだ全体の益を常に心がけます。
ことばの論争ではなく、「真理のみことば」に向かっていくように、求められています(15節)。熟練した者は、@みことばに、キリストの福音に向かうようにします。A自分を神にささげるように努めます。神に自分をささげるとは、その時その時に、「今自分を神にささげるとはどうすることだろうか?」と問いかけて生きることです。キリストの弟子であるリーダーは、神にささげて生きる人です。決して偉い人ではなく、むしろ仕える人です(ルカ22:26)。この世とは逆です。教会でリーダーになりたい人は、奴隷のように、ごみ箱のようになりたい人です。だからリーダーの場は居心地が良くないのです。居心地が悪いけど、神様によってさせられていくのがリーダーです。教会が偉い人ばかりになると、はなもちならない集団になってしまいます。なぜなら教会の真のリーダーはイエス様だからです。むしろどれだけゴミ箱のようになりたいと願う人が多く起こされるかがからだの成長の鍵です。自分を神にささげるとは、抽象的なことではなく、とても具体的なことです。事あるごとに、主に聞いていくのです。すると本来の自分の中からは出てこないことを主によってさせられていくのです。それは無理してすることではなく、主がそうさせてくださるから、不思議に喜びがあるのです。主が私たち一人一人を、主の弟子として「熟練した者」と成長させてくださいますように。