2章16節〜19節
2:16 俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、 2:17 彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。 2:18 彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。 2:19 それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」 |
16節 「俗悪なむだ話」、これはTテモテ6:20にも出てきます。前節15節の「真理のみことば」に対比して使われています。文脈からしてこの「むだ話」は、福音とは異なった教えをさしています。聖書とは違うことを言って人々の信仰を覆す人たちの俗悪なむだ話に巻き込まれないように、真理のみことばにしっかり立つことをパウロは命じています。偽教師は必ずしも資格をもっている人ではりません。次節のヒメナオはパウロによって除名されているにもかかわらず(Tテモテ1:20)、誤った教えを巡回して説き続けていたのです。彼らは自分の主張に確信をもっているので、まだ迷っている人たちや確信のない人たちが信仰を覆されてしまうのです。しかしその内容は真理のみことばとは異なるので、結果として「俗悪なむだ話」になってしまうのです。終わりの時代に向かって、聖書にはないことを確信をもって語る人がたくさん出てきます。だからお互いに吟味し、みことばと異なる発言は愛をもって忠告することも大切です。
17節 癌が悪いものでありながらも進行すると体中に広がるように、ヒメナオたちの教えも福音とは異なりながらも広がって行きました。悪いものも広がるのです。広がっているから正しいとは言えないのです。行列ができたり人気があることが、必ずしも良いものとは限らないのです。
18節 彼らが教えているむだ話の内容は、「復活がすでに起こった」というものでした。
これはグノーシス主義にも通じる内容ですが、「肉体は悪であるので、その汚れた肉体が復活するはずはなく、信じたときにすでに霊的に復活している」として、復活を否定する教えです。キリストの復活と、キリストを信じるものに与えられる復活の希望がなければ、
実質のない空しい信仰です(Tコリント15:14〜19)。しかし救いに確信がなかったり、まだ迷っている人にとっては、復活を否定する教えは理性的に受け入れやすいのです。
19節 偽教師によって信仰をくつがえされる人がいたからといって、いたずらにそのことを心配したり恐れる必要はありません。そのような現実があるにもかかわらず、「神の不動の礎は堅く置かれている」のです。不動の礎、土台は「キリスト」であり(Tコリント3:11)、「使徒と預言者(聖書のことば)」(エペソ2:20)です。
「主はご自分に属する者を知っておられる」という引用句は、恐らく民数記16:5の引用でしょう。モーセに逆らったコラとその仲間たちに対して、真に神に従う者を神は明らかにしてくださるとモーセは告げました。同じように、どんなに人々の信仰をくつがえすヒメナオたちのような偽教師がいても、主は本当にご自分に属する者がだれかを知っておられるのです。
「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ」も、民数記16:26が背景にあるのでしょう。主の名を呼び、信仰を告白する者は、その信仰にふさわしく不義にとらわれているヒメナオたちが神の教会に属する者ではないことを示し、彼らから離れるようにとパウロは勧めています。
当時はまだ新約聖書も完成していなかったので、ヒメナオたちの教えに多くの人が揺さぶられたようです。今の時代は今の時代の人たちが曖昧になりやすい弱さや罪の性質を突いて悪魔は人々の信仰を覆そうと近づいてきます。だからこそ、常に聖書を通して真理のみことばに立っていないと、いつの間にか人の言葉や周囲の態度に流されてしまいます。聖書を読んでいれば明らかに「これはおかしい」と分かることさえも、分からなくなってしまうことが起きるのです。毎日のデボーション、またみ言葉の分かち合いを続けましょう。またその時その時に与えられているみことばをしっかり心に留めていきましょう。