2章1節


2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。


要約 パウロがアジヤで伝道していた時には、パウロの元を去っていく人(1:15)もいたし、オネシポロのように逆に彼を元気付けてくれる人もいました(1:16〜18)。

 主に仕えて行く時には、反対する人も起きてくるし、励ます人も起きてきます。

でも人の態度で一喜一憂するのではなく、“キリストの恵みによって強くされるように”とパウロは若いテモテに勧めています。“強くなりなさい”の原文は“強くされなさい”と受身形になっています。

 人の評価や態度に焦点をあてていくのではなく、どこまでも“キリスト・イエスの恵み”に心を向けていくのです。主に仕えていく時に、色々な人との関わりがあり、様々な出来事が起きてきますが、私たちを根底から支え、主に支える者として立たせてくださるのは、キリストの恵みだけです。キリストに結びつく中でキリストから、力と恵みを絶えず受けていかなければ、誰も主につかえることはできないのです。

 様々な異端的な教えがはびこるエペソ教会の牧会にあたっていた若いテモテを支えるのも、ただキリストの恵みだけでした。キリストの恵みによって強くされるのですから、私たちはどんなに弱くてもよいのです。“あなたがしっかりして強くなりなさい”とここを読んでしまったら、全くパウロの主旨とは反対になってしまいます。

 キリストの恵みによって強くされるためには、むしろ私の側は弱くされる必要がありまさす。キリストの恵みは私が弱くされ罪人になりきって分るものです。“まだそこまでの罪人ではない”“まだこういう状況なら自分にも可能性がある”と言っている場所では、キリストの恵みは受け取り切れないのです。私の側でふんばっている強さが打ち砕かれたとき、キリストの圧倒的な恵みが、力が注がれるのです。

 パウロは自分の弱さを感じる度に、そこを支えて下さるキリストの力を見出しました

(Uコリント12:9)。自分が手も足も出せない悪循環の中で、キリストのすごい力を体験したからこそ、“私が弱い時にこそ私が強い”と宣言できたのです(Uコリント1210)。

 だから私が強く立派にならなくてよいのです。むしろキリストの強さが現れるため、私の側はもっとだめになってよいのです。自分の力や知恵で戦う兵士は負けます。

キリストの兵士(Uテモテ2:3)は、常にキリストの恵み、キリストの力で戦うのです。

私が弱い時こそ、自分ではどうしてよいか分らない時こそ、キリストの力が私をおおって下さるのです。ハレルヤ!


質 問

1.あなたが砕かれるべき自分の強さはなんですか。

2.あなたがキリストの恵みによって強くされたいことは何ですか。(自分の罪、弱さ、問題)



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