4章1節〜8節


4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
4:5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

1節(丸囲みで)
キリストが再び来られる日(「その現われ」)、全ての人がキリストの前でさばかれます。
その日を思って厳粛に、しかし御国の希望をもちつつ、パウロは遺言のような勧めをこれからします。

2節
みことばは、学ぶだけではなく「宣べ伝える」ものでもあります。特にキリストの福音を中心として、みことばを状況に左右されず伝えるように勧められています。「しっかりやりなさい」という言葉の原語は「近くにいなさい」という意味です。必要な時にいつでも間に合うようにみことばと証を用意しておく必要があります。
みことばを宣べ伝えるためには、「寛容」な心で相手をまず受け入れる必要があります。信頼関係なしに、一方的に伝えてもなかなか受け入れられません。時間と忍耐が必要です。また「絶えず」繰り返し教える必要があります。悔い改めてキリストの者となるため、どんな反対者も回復する可能性があることを信じて(2:25〜26)、「責め、戒め、勧め」
ていくのです。

3節〜4節
みことばによって自分の生き方が正されることを嫌って、自分に都合の良いことを言ってくれる教師を寄せ集める時代がきます。キリスト中心ではなく、自分中心であるから、その人は砕かれることなく真理から離れていきます。

5節
「慎む」(ネーフォー)は、「酒を飲まず自制する」というのがもともとの意味です。酔っ払った状態ではなく、ちゃんと霊的に目覚めてしらふでいることです。
「困難に耐え」あきらめず、困難があればあるほどキリストに向かうことで、信仰が成長していきます。
「伝道者として」立場を示す言葉ではなく、福音を伝える万人祭司として
「自分の努めを十分に果たしなさい」与えられた使命に最後まで忠実でいなさい。投げ捨てたり気を緩めたりせず。

6節〜8節
パウロは殉教の日が近いことを意識しています。
「私は勇敢に戦い」パウロには常に戦いがありました。皆生きている限り戦いがあります。でもその戦いは、神から引き離そうとするサタンとの戦いです。不信仰、人の情、自己中心、自我、欲…様々な肉を用いて、サタンは私たちを神から引き離そうと攻撃してきます。でも肉は絶えず働きますが、その現場で神を呼び求めていくなら、サタンを恐れる必要はありません。
「信仰を守り通す」ことが大事です。若い時熱心でも、最後まで信仰を守り通さなければ意味がないのです。そのために、互いに責め、戒め、勧める交わりが必要です。
「義の栄冠」が、走り終えたゴールには待っています。ガラテヤ5:5
永遠に完全な義が、信仰を守り通したものには用意されているのです。

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