「友の会」との関わりから地域集会発足
                     (03.9月に続いて)



読者のご要望もあり、書籍「久遠基督教会五十年の歩み」よりの記事を随時掲載いたします。
これは1994年4月に刊行されたものです。

 

久遠基督教会五十年の歩み(5

1948年(昭和23)、少し世相が落ち着いてくるにつれ、私は大家族を預かる者として何か益となる知識を得たいと考えていた折り、日曜学校の生徒のお母さんを通して当時、自由学園の創立者である羽仁もと子氏が主宰する「婦人の友」の読者たちによる家事家計の学びの盛んな「友の会」の存在を知り入会し、忙しい合間を縫っては最寄会(もよりかい)、方面会へと出かけて勉強したのだが、結局ついてゆかれずにしぱらくして退会してしまった。

しかし、この事を通して主は奇しくもこの地域に伝道の道を開いて下さった。「友の会」の学びの中で、貧しい開拓教会勝手もとのエンゲル係数の異常さと、折にふれての話し合いの中から、神様のなさる御業(みわざ)に心傾けられるようになった方々によって、一度聖書の話を聞きたいとの願いが出され、四十数名の阿佐ヶ谷西方面会で初めての聖書学び会が開かれ、丹羽が招かれたのであった。

そしてさらに毎月開いてゆきたいとの要望があって、西島利子姉宅が備えられ、地域集会第一号(月曜会)が発足したのであった。この集会は西島姉召天後は石原歌子姉宅、宮内マスエ姉宅、その他に移りつつ存続した。また月曜会の十文字千鶴姉が成城へ転宅と共に、お宅での集会が開かれ、他に埼玉県片山村(現新座市)の地口美砂姉宅にも広げられて行った。成城集会は一時、辻堂の上野嘉津子姉宅に移ったが、召天後は古山敏子姉宅での馬橋集会となり、昭和35年から芹沢ナル姉宅の保谷集会となった。

月曜会発足後、当時阿佐ヶ谷に住んでおられた和気憲子姉の病床にて集会が開かれ、和気姉が世田谷に移られた後は河角修子姉宅での東阿佐ヶ谷聖書集会となり、水曜会と命名され、後に河上トシ姉宅に移されたが、この会は最も長く、集う人も多く、三十数年も続けられた。また、後には芹沢たえ姉宅などでの沼袋集会、石川千鶴姉、岩本三重子姉宅などでの練馬集会、山本文子姉宅での所沢集会、斯波ミエ姉宅の百合ヶ丘集会なども開かれた。特に百合ヶ丘ではある期間、団地集会所で聖日午後の集会も行われた。その他、和気憲子姉宅の下馬集会、真島よね姉宅の江東集会がある。夜の家庭集会は、当初錦糸町の佐藤(三浦)富江姉宅で始まったが、随時、記念会、新築感謝会等がもたれ、河角兄姉宅での壮年会をはじめ、各家庭が解放され次々と集会の輪が広がり、それぞれ十数名〜五十数名の兄姉が集われた。なかには、他教会の牧師方が聞きに来られる家庭集会もあった。

そしてこれらの地域聖書集会に連なった兄姉方の中から、次第に日曜集会に出席される方々が起こされ、1948年(昭和23)頃の集会は、日曜日三十数名、祈祷会八、九名、日曜午後、ヨハネ伝研究十名と記録されている。

日曜午前集会は一回を三室広げて行い、祈祷会や午後の集会は、二回座敷か丹羽の書斎で持たれた。クリスマスには、「我れ信ず」と大書した紙に、出席者は各自の信仰によってまわりに署名して、その信仰告白を表明したのであった。青年たちはよく聖書研究をし、謄写印刷で「励信(れいしん)」「久遠(くおん)の光」等を発行した。婦人会は毎月第四月曜午後に開かれ十数名出席、婦人会報も発行したのであった。

綾子の友人の勤務先である電気通信試験所からも数名導かれて来ており、その関係で月に一度、当時の神代村まで、丹羽は聖書を語りに出かけ、1948年(昭和23)9月には、浜田成徳氏と共に講演会も計画され、「信仰とは何か」と題して語っている。

河角姉の願いで病床の内山ちほ姉(妹さん)を毎週水曜日に訪問し、夜は月に一度、小川かつよ姉、塩山恒姉、柘植久子姉宅等で家庭集会が持たれた。また曽布川和雄兄の病床訪問集会を通して林(熊倉)茂子、(菅)孝子姉が導かれ、菅匡夫兄が導かれ、さらに亀山(渡辺)桂子姉、渡辺欣兄等、主は次第に加わる魂を与えて下さった。

                              −以下続く−



                                 

                


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