(2010年1月)

 ・ 1月31日
 ・ 1月24日
 ・ 1月17日
 ・ 1月10日
 ・ 1月3日
 








 1月31日
キリストに出会った証      久田雄治兄

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」(詩篇103篇1〜5節)

私は1944年(昭和19年)12月15日、父・文彦、母・美代子の次男として世田谷の三軒茶屋に生まれました。
兄の昭彦、姉の美紀子の三人兄弟です。
現在、介護保険証を受け取る65歳になりました。
翌1945年5月に父がフィリピンのミンダナオ島カリナン陸軍病院でマラリアのため31歳の若さで戦病死し、10月に姉が疎開先の陶器の街で知られる栃木県益子で百日咳のため2歳で亡くなりました。
その後、養子話が起こり、一度は母が子ども二人を連れて大阪の伯父の家に逃げましたが、兄は家族会議で小学校に上がる7歳の時に、父方の三軒茶屋の伯父の家に子どもができなかったので、久田家を継ぐため養子に出されました。
正月などに私たちが伺うと、兄の様子が変わるというので、出入り差し止めになるなど、どんなにか母は断腸の思いであったか、兄は哀しい想いを抱いて成長したかと思わされます。
そんな伯父夫婦がのちにクリスチャンになったことは、私にとって本当に慰めとなりました。
私は母と浦和の母方の伯父宅の離れに住み、聖公会の幼稚園に通い、クリスマスの記憶もはっきりとあります。
今にして思えば、幼稚園の先生方にキリストの救いを祈られて成長したといえます。
浦和に小学校まで住み、北浦和に転居して中学、高校と通いました。
父を戦争のために亡くし一家離散したので、戦争に対する無念の想いは募るばかりでした。
高校2年の時、60年安保闘争(今年で50周年)の6月15日の国会突入のラジオ放送を深夜まで興奮して聞いていました。
高校卒業後、2年浪人して早稲田大学東洋哲学科に入学しました。
西洋哲学にテレビタレントのタモリ、先輩に芥川賞作家の辺見庸、西洋史に女優の吉永小百合が入学して大きな話題になりました。
入学後、すぐに学費学館闘争や日韓闘争などの学生運動に参加しました。
社会主義の無神論者となりクラスのクリスチャンを迫害するようになりましたが、運動がエスカレートして、親しい友が殺されたり、想い悩んで自死したり、心を患っていく悲惨な現実を目の当たりにして、私自身、人生に絶望し、虚無感に襲われ、平和の理想に燃えていたはずの学生運動は挫折し、親鸞の卒論を残して大学を中退しました。
このため、編集者を養成するエディタースクールを卒業し、友人の引越しの手伝いで知り合った恵美子と結婚に導かれたので、親たちを安心させるため、ある出版社 編集部に勤めました。
恵美子は学生だったので、大学近くのパン屋の2階六畳一間、 共同炊事、共同トイレの部屋を借り、銭湯に通うという新婚生活が始まりました。恵美子が当時を振り返って、まるで南こうせつが歌った「神田川」の世界だったと言います。 
しかし、2年もたたないうちに、会社でベースアップのトラブルが起こり、肝臓を患ったこともあり、仕事を辞めて失業しました。
そのため、恵美子や親たちは大変に心配していました。
1971年9月、朝日新聞社出版局の経験者採用試験を受けて入社。
5年後、大阪に週刊朝日やアサヒグラフなどの記者として転勤しました。
しばらくして西宮市夙川の 社宅の隣の部屋に、朝日新聞社の大泉寮で三浦真照・富江さんと一緒だったクリスチャンの奥さんがご主人の転勤で来ました。
この奥さんの紹介で、高校時代に受洗したものの教会から離れていた恵美子が、久遠教会の奈良集会(山田泰三・生子さん宅)に導かれました。
間もなく、東京に戻ってからは、恵美子と子どもたちが久遠教会に 熱心に通い始めました。
私も「エホバの証人」など怪しげなものでは困ると教会に様子を見に行くうちに、丹羽e之牧師のメッセージ・テープを聴いたり、本を読むようになりました。
こうして、自分の存在そのものが神から離れた的外れな罪人であり、キリストの十字架の血潮で罪を赦されることを知りました。
しかしその当時、一つだけ私が信仰に踏み出せない点がありました。
それは復活の出来事です。
この悩み、苦しみ、痛み、悲しみ、疲れ、病をもつ肉体の延長で復活のことを考える限界をもっていました。
ところが、神様は「復活がわからない」という私の呟きも聞いて下さり、夢の中ではっきりと、この肉体でなく復活の体(天のかたち)で永遠のいのちを与えると教え、聖霊で満たして下さいました。
目覚めてからは、その日は一日中疲れを知らず、喜びに満ち溢れていました。
それからは、毎日のみことばが、神様からの私に対する救いの呼びかけであると確信を与えられ、キリストにある自由で解放された信仰生活を送るように、次第に聖霊とみことばによって導かれてきました。
1982年4月のイースター(復活節)の日、聖書に書かれている通り、はっきりとキリストの十字架、復活、再臨の出来事を受け取り、朝日新聞を45歳の選択定年で辞めて神学校を終えて牧師に就任していた、三浦真照牧師から受洗しました。
木下隼人さんが同期です。
また、長女の裕香は大学、長男の高裕は高校、次女の恵は小学校で 受洗し、さらに恵美子の母・山本照子は「久田さんがクリスチャンになったら、私も考える」と言っていましたが、近くに住む牧師夫人の導きで受洗し、母と同居していた松下喜久治伯父も病床洗礼に導かれ、最後に「次は、私が信じる番ね」と言っていた母も体調を崩したあと病床洗礼を受け、家族全員が救われました。
ただただ神様の憐れみと恵みに感謝するばかりです。
それからは仕事をしながら、有賀喜一先生の紹介でリバイバル聖書神学校の通信制を卒業し、教会では三省堂OBの河上武寿さんから出版社「憩のみぎわ社」の編集の仕事を受け継ぎ、ケニアにいる神戸俊平さんのNGO「アフリカと神戸俊平友の会」に仕えるように導かれました。
また、冨士土地の社長さんだった冨士野勉さんの紹介で超教派のクリスチャン実業人や専門職業人を伝道し弟子化する日本CBMC(キリスト者実業人会)、さらに多くの超教派の働きに参加するように導かれました。
私は20代半ばで肝臓を患い、30代前半で本態性高血圧症と言われ、40代で成人病のオンパレード、50歳で糖尿病を発病し、還暦前に痔ろうが癒されるものの副腎線種がわかり、62歳で大腸がんの手術を受け、最近は動脈硬化、変形性関節症と言われています。
このような私ですが、不思議と今日まで神様に生かされ、主の働きに仕えるように導かれました。
ただただ神様の憐れみと恵みに感謝するばかりです。
姉妹教会である新一教会の窓口をしていますので、いつも主にあって、「ケンチャナヨ、 アンジュゴヨ(ハングル語で大丈夫、死なないよ)」と言っています。
これからも宜しく お願いします。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一 テサロニケ5章16〜18節)
 

メッセージ要約 「主に感謝せよ!」  
             詩篇136篇 (三浦真信牧師)


<1〜3節>
礼拝者全員参加による信仰告白の歌としても用いられたこの136篇は、「主に感謝せよ」で始まります。
私たちが感謝をささげる主なる神は、「まことにいつくしみ深い方」です。
そして繰り返し言われているように、「その恵みはとこしえまで」続きます。
「恵み」は、神の特性であり、また聖書に繰り返し出てくる重要な言葉でもあります。
それは、受けるに価しない者に一方的にただで与えられる贈り物です。
神はご自分に頼る民に、永遠に恵みを与えてくださる方です。
イスラエルの民たちは、民族あげて歴史の中に働かれる神の力を目の当たりにしてきたのです。
その恵みが尽きることのない神に感謝をささげるのです。

<4〜9節>
神は「ただひとり、大いなる不思議を行われる方」です。
人と同じことしかできない神なら、神ではありません。
人間の力を超えたこと、人の目には「不思議」と思える出来事をも行われる方です。
その一つである、天地創造がここでうたわれています。
神は宇宙を、そして私たちをも目的をもって造られました。
この地上のもので、何一つ、また誰一人、偶然に存在するものはないのです。
そして神はただ造られただけでなく、世界の歴史に関わっておられるのです。


<10〜15節>
特にイスラエルの歴史で、出エジプトの出来事がまず回想されています。
エジプトで奴隷として長年苦しんできた、イスラエルの民たちの嘆き叫びを神は聞かれ、力強い御手をもって民たちを救い出されました。

<16〜22節>
エジプト脱出の後、約束の地カナンに向かって進んでいく荒野の旅も、困難がありながらも神は守ってくださいました。
様々な未知の敵に遭遇しながらも、むしろ神の偉大な力と慈しみ深さを荒野で経験しながら、神は民たちを守ってくださったのです。

<23〜26節>
神は常に私たちを御心に留めていてくださいますが、特に卑しめられるような弱い状況にある時に、そのことを私たちはいっそう実感することができます。
そして様々な敵から守り、飢えそうな時にも必要な食物を与えて、確かに神はご自身に頼る民を見放さず最後まで守ってくださったのです。
そのあわれみ深い「神に感謝せよ」と、 最後に再度うたっています。

イスラエルの民が、奴隷であったエジプトから脱出し、荒野を通って約束の地に導かれる出来事は、クリスチャンの人生の縮図のようです。
造り主なる神から離れてしまった人間は皆、罪の奴隷であると聖書は宣言します。
本来造り主が目的をもって造られた人間は、その神に従って生きることが自然であり、また安心なのです。
神のもとから迷いだし、自分の欲のままに生きることで、かえって罪の奴隷となってしまったのです。
しかし神はモーセという指導者を遣わしてイスラエルの民を奴隷から解放したように、罪の奴隷から解放するために、神の子キリストを世に遣わしてくださったのです。
造り主から離れている状態は、決して自由ではなく罪に束縛され、霊的に死んだ状態です(エペソ2:1〜9)。
神の怒りを身に負いながら生きる、重苦しい人生です。
しかしあわれみ豊かな神は、私たちが罪の奴隷のままでいることをよしとはされず、救いの道をキリストによって開いてくださったのです。
罪過の中に死んでいた私たちを、ただ恵みにより、信仰によって一方的に救おうとしてくださったのです(エペソ:2:4〜5)。
立派な行いや修行、努力に一切よらず、ただ神を信じる信仰により、救ってくださったのです。
ですから、私たちの側には何の誇りもありません。ただ神のあわれみによって救われたのですから、神に感謝をささげるだけです。
ただキリストの恵みによって、罪から救い出してくださり、地上の肉体とは全く異なる天上の新しい復活のからだを死んだ後に与えてくださる神に、私たちは感謝をささげることが自然なことなのです。
私たちを罪から救い出し、約束の天の都まで導いてくださる神は、地上の教会をも守り、あらゆる困難の中をも導き続けてくださる方です。
この主なる神に、感謝をささげましょう。





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 1月24日
主題: 「偽ってはならない〜十戒(8)〜」   
                出エジプト20:16 (三浦真信牧師)


神が「偽ってはならない」と命じられる理由は、ご自身が真実で偽りのない方(テトス1:2、民数記23:19)であり、神ご自身が偽りを憎まれる方(箴言6:16〜19、ヨハネ黙示録21:27、22:15)だからです。
そのように、真実そのものである神だからこそ、私たちは神の約束を安心して信じることができるのです。
特に第9戒では「偽りの証言をしてはならない」と、直接は法廷での偽証を禁じています。
偽りの証言によって、犯罪を犯していない人が死刑になるということがあったようです。
ですから、証言には二人、三人の証言が必要でした(申命記17:6)。

法廷や公の場所で「偽りの証言をしてはならない」という戒めも、日頃から嘘をつくことが身についてしまっている人には、実行が難しいかもしれません。
真実を語ることが大切だという認識を日頃からもっていることが、いざという時にも影響を与えるでしょう。
しかし日常生活の中では、真実を語ることが逆に人に害を及ぼしかねないこともあります。
たとえば、ヨシュア記に記されている遊女ラハブは、明らかに事実ではないことを言って、エリコに偵察に来たイスラエル人二人を助けています(ヨシュア記2章)。
そのラハブは、「信仰の人」として、新約聖書では取り上げられています(ヘブル11:31)。
信仰によって、ヨシュアが遣わした二人を受け入れたことが評価されているのです。
事実どおりに言ったか、言わなかったかという杓子定規な考え方ではなく、その行動が「信仰によるか」否かが問われています。
少なくともラハブの場合は、誰かをおとし貶めようという悪意からではなく、人からよく思われようという自尊心からでもなく、ただ二人を助けたいという愛を土台としていました。
律法の根本精神は、「神を愛し、人を愛しなさい」(ルカ10:26〜28)ですから、ただ表面だけ守ることを優先すると、律法学者たちのように形だけ守って、その精神をおろそ疎かにすることになってしまいます(マタイ  23:23〜28)。

私たち人間は、完全に偽りのない生き方などできません。たえず外の顔、内の顔をもち、状況や人によって、違う自分を見せてしまいます。
自分の思いを成し遂げるために、嘘をつかないまでも、無意識に事実以上に大げさに伝えて無理やり説得しようとしたりすることもあるかもしれません。
人から伝え聞いたことも、尾ひれをつけて事実とは微妙に違うことを伝えてしまうこともありえます。
人に見せるために善行をするという偽善も犯していることがあるかもしれません(マタイ6:1〜4)。
神とは正反対に、私たちは存在そのものが偽りの存在なのです。
真実でいることができないし、たえず真実ではない自分を人にも発信してしまうのです。
いくつもの顔を持ち、どれが本当の自分か分からなくなって、心が壊れてしまうこともあるのです。
偽ることは、結局自分を苦しめ、人との関係にも壁を作っていきます。
そうだと分かっていても、真実だけで生きられない人間のどうしようもない罪性があるのです。
悲しいことに、どこまでいっても人は真実100パーセントでは生きられないのです。
だからこそ、イエス様の十字架の血潮によりきよめ続けていただくしかありません。
少なくとも、神の前には真実でありたいものです。
私たちの真実を、いつでも誰にでも見せていたら、人の場合は 傷ついたり距離をとられたりするかもしれません。
しかし神は、私たちがどんな真実な姿を見せても、本心を祈っても、傷つかないし、驚きもしません。
なぜなら、神の前にはすでに全てがあらわ露になっているからです(ヘブル4:13)。
自分でも気づかない真実の自分の姿をも、神はご存知なのです。
むしろ神は、私たちが真実を神に打ち明けることを待っておられます。

神に対する明らかな偽りは、「私には罪はありません」と言い張ることです(Tヨハネ1:8〜9)。
神の前には、すべての人が罪ある存在です。
「あの人もこの人も悪い、だけど自分には罪は無い」と言うなら、それこそ自分を欺く罪なのです。
人はどこまでいっても、欺く存在であり、偽る存在なのです。
そのことを認めて、御子イエスの十字架の血を仰ぐなら、神はすべての罪から私たちをきよめてくださるのです(Tヨハネ1:7)。
「偽ってはならない」とは、大切にすべき戒めです。
その戒めの前に、何と自分が偽りに満ちた者なのかに気づかされるでしょう。
そのたびに、私たちはイエス様の十字架の血潮により罪きよめられ、罪赦され続けていくのです。
その赦しをしっかり 受け取っていくなら、罪を認めることで卑屈になることはなく、むしろ神への感謝が 溢れていくのです。
偽った自分の姿に気づかされたなら、たえず主の十字架を仰ぎましょう。
また真実を誰かに語るべきことを主から迫られたなら、祈りつつ語っていきましょう。




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 1月17日
主題: 「無力さを認めて始まる新しいこと」   
               詩篇107:23〜43 (三浦真信牧師)


<23〜32節>
バビロン捕囚から、帰還するまでの過程を、船乗りに例えています。
主は命じて嵐を起こすことのできる方です(25節)。
宇宙を、自然を揺り動かすことのできる主なのです。
自然の脅威を通して、いかに人間が無力で小さな存在であるかを知らされると同時に、そのような中にも主の守りとあわれみがあることも知らされるのです。
イスラエルの民たちは、バビロン捕囚という激しい嵐の中に放り出されたのです。
それは、主が命じた嵐でもあったのです。
激しい風と波により、上下に左右に揺り動かされるしかなく、たましいは溶け去り(26節)、酔った人のようによろめき、船乗りとしての技術も役に立たない状態です。
その苦しみのときに、彼らは主に叫び続けたのです(28節)。
そして時至って、主は嵐を静めてくださり(29節)、彼らを望む港に導かれました(30節)。
主は命じて嵐を起こすことも、静めることもできる方です。
この苦しみから救い出してくださった主に感謝をささげるように繰り返し命じられています(31節)。
また主を「民の集会で」あがめ讃美するようにも命じられています(32節)。
1人の場所で神を崇め讃美することも大事ですが、あえて集会の中で、会衆と共に神を讃美することが、また特別な意味をもっているのです。神の民が一同集まって、共に神を礼拝し、神を讃美する中で経験する神の力強い臨在の力があるのです(詩篇22:22、25)。

<33〜38節>
嵐を起こすことも、静めることもできる主は、同じように川の流れる土地を荒野に変えることも、荒野に川を設けることもできる方です。
荒野も、主が祝福して命じられると、豊かな川が流れる土地に変えられるのです。
主は無意味に荒野を造られません。
荒野を通して、イスラエルの民たちが心低くされ、偶像からまことの神に立ち返り、最終的には本当の喜びを受けて感謝を主にささげるようにされたのです。
荒野のゴールは、喜びと感謝です。
その過程では、苦悩し失望しそうになることもありますが、神が最終的に私たちに与えたいのは、苦しみではなく喜びと感謝なのです。

<39〜42節>
バビロン捕囚で、実際に捕囚として連れて行かれたのは、君主達でした(U列王記24:10〜15)。
貧しい民衆たちはエルサレムに残されて、国の有力な者たち、技術者たちが連行されたのです。
捕囚として連れて行かれた高官たちも、知らない国で束縛され荒野のような生活を強いられ、エルサレムに残された民たちも無政府状態の荒れ果てたエルサレムで、さまよう生活を送りました。
しかしどちらも神が悩みの中から引き上げてくださったのです。

<43節>
知恵のある者とは、主の恵みを悟る者です。博学であることでも、世渡り上手であることでもなく、神が知恵ある者と呼ばれる人は、主のあわれみに心を留めて、主の恵みをしっかり悟る人なのです。
嵐の中で、また荒野の中で、私たちが身につけてきた能力や役職は全く役に立たなくなることがあります。
多くの人は、自分の力で頑張って生きようとします。
何かある時にも、自分の力を信じて頑張っていくのです。
しかし思わぬ逆風にあった時に、自分で頑張って身につけてきたものが全く役に立たない状況に直面することがあるのです。
自分の限界を知ったときに、次に何をどう頑張ったらよいか分からなくて途方にくれてしまうのです。
その時に、これまで努力して身につけてきたものも一度手放して、無力を認めてみると、新しい世界が広がってくるのです。
シモン・ペテロが、そのような経験をしました(ルカ5:4〜11)。
漁師として働いていたシモンは、ある日夜通し働いても一匹も魚をとることができませんでした。
その状況が続けば、生活をも脅かす出来事でした。
しかし漁師としてのこれまでの経験や技術が役に立たない状況の中で、イエス様がおっしゃることばに従ってみた時に、自分の力では全くない、神の力によって網が破れるほどの魚がとれるという新しい経験をしたのです。
そしてこのシモン・ペテロが、やがてイエス様を裏切り、とことん自分の弱さを知り、頼るものがなくなった時に、聖霊が与えられ、自分の頑張りや熱意ではなく、聖霊の風に運ばれていく生き方へと変えられていきます。
自分の力で生きたいなら、とことん自力で歩んでみればいいのです。
でも必ず破れる時がくるでしょう。その時に、無力な自分に代わって、私を運んでくださる聖霊なる神がいてくださるのです。
全く無力になって手も足も出せないでいる私を、フワ〜っと風に乗せられたように運んでくださる助け主、聖霊がいてくださるのです。
それを体験すると、何でも聖霊に助けていただきながら生きる、新しい道が開かれてくるのです。
荒野の中で、私たちはとことん自分の無力さを知らされます。
それを認めきって、神のことばにより頼み、聖霊に全面的に頼っていく時に、荒野に川がドーっと流れてくるのです。
自分の限界を知ることは、とても良いことなのです。
自分の力ではお手上げのことがあればあるほど、それを強気で覆うのでなく、また適当にごまかすのでもなく、「聖霊様、私のできないことを、あなたがやってください、あなたは助け主です!」と叫んでいけばよいのです。
わが身一つ、自分の思い通りにはできない私たちには、聖霊の助けが必要なのです。




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 1月10日
主題: 「荒地に川を設ける神の力」     
               詩篇107:1−22    (三浦真信牧師)


主が私たちの荒野のような場所に、どのように道を設けてくださるのか、詩篇107篇を通して教えていただきましょう。
この詩篇107篇では、イスラエルの民たちがバビロンに捕囚として連行され、その後帰国した時、主が様々な危機に際して助けてくださった例を挙げながら、主に感謝をささげるように呼びかけています。

<1〜3節>
まずバビロンから解放され、祖国に帰れた喜びと感謝を主にささげます。
イスラエルの民たちは、バビロンという巨大な国に捕虜として連れて行かれ、2度と自国に帰ることができないかもしれないと思いつつ、慣れない土地で不自由でみじめな生活を余儀なくされました。
しかしいつくしみ深い神は、預言者を通して約束したとおりに、彼らを囚われの身から解放してくださいました。
主がバビロンからイスラエルの民たちを買い戻してくださり、敵の手から救い出してくださいました。
戦争でバラバラになり、辛い荒野のような時を過ごしたけれど、また一つに集めてくださった主に感謝をささげるようにと命じられています。
事あるごとに、主に感謝をささげていくことが、私たちの信仰の前進につながっていくのです。

<4〜9節>
自分たちを旅人に例えています。出エジプト後の荒野の生活も、またバビロン捕囚時代の荒野のような生活も、常にさまよっているような状態でした。
腰を落ち着けて住む場所もない不安定な生活でした。
飢えと渇きにより、魂も衰え果てるような状態でした(5節)。
神は何故このような状況を許されるのか、神の民であるはずの自分たちがこんなに苦しんでいるのに、何故神は助けてくださらないのか、そんな思いが一層彼らの魂を衰えさせたかもしれません。
しかし荒野での苦しみの時に、彼らは主に向かって叫びました(6節)。
それは神を信頼しているとはとても言えない叫びであったかもしれません。
神への訴えに近かったでしょう。
それでも彼らは主に向かって叫びました。
叫ぶしか他に術がなかったのです。
すると、主はその苦悩から救い出されたのです。
この6節の「叫ぶ」と「救い出された」の間には、長い時間の経過があったのです。
彼らはその間、苦しみの中で主に向かって叫び続けたのです。
何度も主に叫ぶ中で、神との人格的交流が深められていったのです。
神が私たちの「荒野に道を設ける」と今年みことばを与えてくださいました(イザヤ43:19)。
その新しい道は、主に 向かって叫び続けるところから実現していきます。
主に向かって叫ぶ祈りから、もうすでに新しいことが始まっているのです。
衰え果てていたイスラエルの民たちの魂を、主は良いもので満ち足らせてくださったからこそ、「主に感謝せよ」と叫ばれているのです。

<10〜16節>
牢獄に捕らえられている囚人に例えています。
バビロン捕囚は、民たちが神のことばに逆らい、神を侮った結果であることが指摘されています(11節)。
神が意地悪だから起きた出来事ではないのです。
神は常に正しい方です。神のことばを無視し、神を侮って傲慢になったイスラエルを、神は苦役をもって低くされたのです(12節)。 
苦しみはしばしば人の心を低く貧しくします。
自分の思い通りに歩めると思っていた傲慢が打ち砕かれ、塵から造られた者に過ぎない小さな存在であることを認めさせます。
しかし逆に苦しみを通して傲慢になることもあります。
十字架上でイエス様の隣にいた片方の強盗は、「キリストなら自分と私たちを救え」とののしりました(ルカ23:39〜43)。
もう1人の強盗は、謙虚に自分の罪を認め、救いをイエス様に求めました。 
必ずしも苦しんだから、皆が心低くなるわけではありません。
それでも神は傲慢なイスラエルを低くして神のもとに立ち返るようにと、あえてバビロン捕囚という屈辱を通らせたのです。
捕囚の最中で、彼らを助ける者は誰もいませんでした(12節b)。
互いに苦難の中にあり、自分のことで精一杯であったかもしれません。
また実際助けようにも、誰にもどうすることもできないことがあります。
しかし自分も人もどうすることもできない状況の中でも、彼らは「主に向かって叫んだ」のです(13節)。
人の助けは不完全ですが、主の助けは完全です。
投獄生活は、やみと死の陰に包まれていました(14節)。
でも神は彼らのかせ(囚人の首や手足につけて自由を奪う道具)を打ち砕き、牢のとびらを打ち砕き、扉をふさぐ鉄のかんぬきを粉々に砕いて、彼らを助け出されました。
罪の奴隷であった私たちも、イエス様に出会って、罪の鎖をとかれ、かせがはずされて自由の身となったのです。
この恵みは、神様に感謝をささげてもささげきれないほどのものなのです。

<17〜20節>
霊的病の状態に自分たちを例えています。
「愚か者」(17節)とは、神の知恵と訓戒を軽んじる者です(箴言1:7)。
神を侮った結果、その咎のために自分自身が悩み苦しむことになるのです。
自分の罪のために悩み、心がなえて食べることを忌み嫌うほど(18節)心が渇いてしまったのです(詩篇102:4)。
自分たちの罪の結果、心もからだもボロボロになり、その極限状態の中から、「主に向かって叫んだ」(19節)のです。 
そして、主は時間を経て、その苦悩から彼らを救われました。
どのように彼らを助け癒したかというと、「みことばを送ることによって」でした(20節)。
みことばを送って、主は彼らの霊的病気を癒されたのです。
実際には、神はみことばを民たちに送り続けておられたのです。
彼らの傲慢が、そのみことばを跳ね返していたのです。
しかし魂が衰え果てる苦しみの中で、民たちの多くは心低くされ、柔らかい心とされ、その時に主が送り続けておられたみことばが、彼らを癒したのです。
主のことばを低いところで聞いて受け入れていった時に、彼らは癒され滅びの穴から助け出されたのです。
神は私たちの荒野に、みことばによって道を設けてくださるのです。
みことばが 送られる時に、荒地に水は流れるのです(詩篇147:18)。
聖霊がみことばによって、私たちの衰え果てた魂に川を流れさせ、主の新しいみわざを見せてくださるのです。
みことばを読むときも、「聖霊様、わたしに語りかけてください。みことばの扉を開いてください」と聖霊の助けを祈りながら読むのです。
霊の目が聖霊によって開かれなければ、聖書を神のことばとして読むことはできないのです。
しかし聖霊が私たちの心の目を開いてくださる時、正に今神が私に語りかけてくださっている言葉として、みことばが川のようにザーッと内側に流れてくるのです。

<21〜22節>
罪の病から癒された者たち、また肉体の病から癒された者たちも、この主の恵みに感謝をささげ続けるように命じられています。
私たちが神の溢れるばかりの恵みに対して何をすればよいか…それは「感謝のいけにえをささげる」だけです。
ヘブル13:15では「讃美のいけにえ」とも言われています。
私たちが、自分の罪のために 目に見える何かをささげても、罪はきれいになりません。
神の小羊イエス・キリストが私の罪のいけにえとして十字架でささげられて、初めて私の罪は贖われたのです。
ですから、今私たちが神にささげられるいけにえは、このキリストを通して与えられた救いを感謝し、讃美をささげることなのです。
献金や奉仕も、その感謝の現われであって、唯一神にささげられるいけにえは、感謝のいけにえであり神を讃える讃美のいけにえなのです。
主のみわざに対して、感謝をささげることはいくらしても尽きないのです。
感謝を主にささげればささげるほど、主は喜んでくださるから、その喜びが私たちに返ってくるのです。
主に感謝のいけにえをささげ、主のみわざを語っていく時に(22節)、主はまた新しいみわざを私たちに惜しみなく見せてくださるのです。


苦しみの時には、荒野の真只中で主に向かって叫んでいきましょう。
自分の力にも、人の力にも限界があります。
神の無限の力を知るためには、人間の限界を知ることがとても大切です。
人の力ではどうにもならない時にも、主に向かって叫ぶなら、誰にも理解できない苦悩をも受け留めてくださる主がおられます。
主はみことばを 送ってくださいます。
そのみことばが、聖霊とともに働いて私たちを癒し続け、解放を与えてくださるのです。
その主に私たちがささげられる唯一のいけにえは、感謝の いけにえです。
神に何度でも感謝をささげ、讃美をささげ、主のみわざを証していけばいいのです。
神に向かって叫び祈り、みことばを聖霊の助けによってしっかり受け取り、感謝と讃美のいけにえをささげていく中で、主は荒野に道を設けてくださるのです。
今年主が私たちの荒野に、どのようにして川を流れさせてくださるのか見させていただきましょう。
そして、主のみわざに感謝をささげていきましょう。



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 1月3日
主題: 「向きを変えて出発せよ 」
            
申命記1章      (三浦真信牧師)

今年イザヤ書43章19節のみことばが与えられました。
「新しい主のみわざに期待する年」として、主がしてくださることを見せていただきたいと思います。
以下3つの今年の目標を掲げました。

@ 主がなさる新しいことに期待しよう。
A 主から示されていることにチャレンジしていこう。
B 荒野に主が道を設けてくださることを信じて、祈り続けよう。

イスラエルの民が、ホレブに1年留まって後、新しい地に向かって出発したときのことが申命記1章に記されています。
ここから3つの信仰の態度を学びましょう。

(1)日々向きを変えて出発しよう
十戒が与えられ、シナイ契約が神とイスラエルの民との間に結ばれたホレブで、主は「向きを変えて出発せよ」(7節)と民たちに命じました。「出発せよ」とは、「杭を抜きなさい」という意味です。
テント生活を続けたイスラエルの民たちは、移動するたびにテントの杭を抜いて出発したのです。
出エジプトから約束の地に至る彼らの歩みは、クリスチャンの人生の縮図のようです。
奴隷であったエジプトからイスラエルの民たちが脱出したように、私たちはキリストに出会って罪の奴隷から解放されました。
そして約束の天の故郷を目指して、旅人として地上の歩みを続けていくのがクリスチャンです(ヘブル11:13〜16)。
たえず移動するのに不要なものを捨てながら、軽やかに移動していくのです。
たとえ同じ土地に住み続けても、私たちは古い自分という殻を破って、向きを変えながら神が示される方向に、杭を抜き杭を抜きながら、日々新しく出発していくのです。
信仰生活は、私たちの心を神の約束から逸らせて罪の奴隷に戻ろうとする思いや、神より自分の思いを成し遂げようとする肉の思いに気づかされて、神のことばに向きを変え続けていくものです。

(2)主から命じられたら一歩踏み出していこう
主の命令を受けて、民たちはホレブを出発します。
カデシュ・バルネアまで来た時、神はモーセを通して、エモリ人の山地に上っていくように命じます。
モーセは、主がおっしゃっているのだから、「恐れてはならない。
おののいてはならない」(21節)と勧めます。民の中から12人がその地を偵察にいきます。
しかし彼らの報告を受けて、人々は尻込みしてしまい、その命令に従いませんでした(26〜28節)。
並行記事が民数記13:17〜33にあります。
偵察に行った人たちが、事実以上に城壁の堅固さや、巨大なアナク人の存在を伝えて民たちの心をくじきます。
彼らは、主の命令よりも、見える敵の偉大さに圧倒されてしまいました。
私たちの日常生活でも、同じようなことがしばしば起きます。主の約束よりも、予想される困難の大きさ、敵の巨大さが見えてしまって、一歩が踏み出せずに退いてしまうのです。
神はアナク人よりもはるかに強い方です。
堅固な城壁をも打ち破る力のある方です(Uコリント10:4)。
見えるアナク人をとるのか、主のことばをとるのか、毎日その選択を迫られているのです。
全宇宙を造られ支配しておられる神を信じ、祈りの武器によって一歩踏み出していくのか、立ちはだかる巨大な敵を見て退いていくのかが問われています。
ただ、この後に民たちは反省して、今度は主が命じておられないのに、同じところに上ろうとしてエモリ人に敗退しています(40〜46節)。
今度は違う方向に向かいなさいと命じられたにもかかわらず、それにも従わず勝手に上ってしまい、どこまでも神のことばとかみ合わない行動をとってしまうのです。
一歩踏み出すのも、主の命令がなければ意味がないのです。
主が命じておられないことにまでチャレンジする必要はないのです。
主から命じられたら、信仰をもって一歩踏み出し、主が留まれとおっしゃったら、自分の思いがどうであっても上らないで留まっていくのです。

(3)主の戦いを見ていこう
アナク人や堅固な城壁を見て恐れおののく民たちに、モーセは出エジプトからどのように主がしてくださったかを思い起こさせます。
「あなた方の目の前で、主ご自身が戦って助けてくださった」(30節)、「荒野では、子供を抱くようにあなたがたを抱かれた」(31節)、「道中夜は火のうち、昼は雲のうちにあって進んでいく道を示された」(33節)のに、なぜ今主の力を信じて上らないのかと、モーセは民たちに問いかけます。
新しい未知の世界に踏み出そうとするとき、私たちは不安を抱きます。
様々な困難を予想して、心がくじけそうになります。
しかし、主は今年のみことば(イザヤ43:19)のように「見よ。わたしは新しい事をする」とおっしゃいます。
「わたしがするから、あなたがたは見なさい!」とおっしゃるのです。
様々な障害と戦い、成し遂げてくださるのは主なのです。
先立って荒野に道を設けてくださるのも、主なる神なのです。
私たちは、その主を信じて、一歩踏み出し、どのように荒野に道を設けてくださるかを見ていけば(裏面に続く)
よいのです。
荒野の真只中にいてこそ、そこに道を設けてくださる主の奇跡を目の前で見ることができるのです。
主の命令によって一歩踏み出す時に、主がどのように敵と戦い、道を開いてくださるかを見せていただきましょう。
私たちの一番の敵は、自分のうちに働く肉の思いかもしれません。
「主は新しいことなどしてくださらない、荒野に道なんか設けてくださらない」と主の約束を否定する不信仰や、古い罪の生活を慕い求める思い、神の思いよりも自己主張を生かそうとする思いなどの肉の思いが一番厄介な敵かもしれません。
肉の思いは、どこまでも死であり、実を結びません(ローマ8:6)。
肉はたえず打ち砕かれて、聖霊によるいのちと平安に導いていただきましょう。自分の肉との戦いにも、主が戦って勝利してくださることを、見させていただきましょう。
日々肉の思いから主の約束に向きを変えて出発していく歩みを、御霊の助けによってしていきましょう。





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