主題: 「御霊によって歩みなさい」
ガラテヤ5:13〜16 (三浦称伝道師)
パウロがガラテヤを去って間もなく、律法的なユダヤ人クリスチャンが現れ、パウロの使徒性を否定し「恵みだけでは救われない。
やはり割礼を受けなければ救われない」と教えました。
彼らは十字架を信じたために、自分も他のユダヤ人から迫害されることを恐れ、自分の体裁を守るため、自分を正当化するためにガラテヤに住む異邦人クリスチャンに割礼を強要しました(6:12〜13)。
それに対してパウロは「何故あなたがたは恵みによって自由にされたのに、また肉の満足を求めて不自由な生き方に戻ろうとするのか」と手紙で激しく戒めています。
<13節>
キリストの福音は、私たちを罪の奴隷から解放し、自由をもたらすためのものです。
私たちが信仰をもってなお不自由を感じるとすれば、それは私たちの肉が私たちを不自由にさせているのです。
「肉の自由」と「霊の自由」は対立します(17)。
肉の自由は、自分中心の自由であり、自分の欲を満足させようとする自由で、いつも周りに「私を愛して、私に仕えて、私を評価して」と要求します。
だからかえって満足させてくれない現実に不自由になります。
霊の自由は、神中心の自由です。
神の秩序の中を生き神に喜ばれる歩みへと向かわせます。
自分の声に聞き従おうとする肉の自由と神の声に聞き従おうとする霊の自由、自分はどっちで生きていこうかと内で絶えず葛藤するのです。
パウロは霊の自由を知っている人でした。
かつてはキリスト者を迫害した厳格な律法主義者でしたが、復活のキリストに出会い、罪の奴隷から解放されたパウロの信仰の歩みは驚くほど自由な歩みでした。
それは苦しいことや不安や悩みがないということではなく、それらのものに囚われない歩みでした。
罪の奴隷から解放されたパウロは、@世(人)の評価に囚われることから解放され(ピリピ3:5〜14)、A自分の弱さに囚わることから解放され(ロマ7:15〜25、Uコリ12:7〜10)、さらにB生と死の囚われからも解放されたのです(ピリピ1:21)。
パウロは「このような自由は自分しか体得できないものだ」とは言っていません。
「兄弟たち。あなたがたも同じように自由を与えられる」ために召されたのですと言っています。
ただ「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」といいます。
<14節、15節>
霊の自由は、自分を満足させる自由ではなく、自分を与えていく自由です。
私たちの交わりが霊の自由の中にあるなら、必ず愛をもって互いに仕え合う関係が伴います。
隣人を愛すること、自分を他者に与えて仕えていくことは霊の自由がある証拠です(Uコリ3:17)。
反対に、私たちの交わりが肉の自由を求める者の集まりであるなら、自分を満足させるように互いに要求し合うので、互いにかみ合ったり、食い合ったりして、自由を奪い合う不自由な集まりになっていきます。
そのようなことをしていれば、互いに滅びることになるから、気をつけなさい。
霊の自由の中で互いに愛し合いなさいとパウロは言います。
<ガラテヤ2:20>
パウロが恵みの自由の中を突き進むことができたのは、「私はキリストと共に死に、復活のキリストと共によみがえり新しいいのちで生きるものにされた。」(ガラテヤ2:20)という十字架信仰がはっきりしていたからでしょう。
パウロのいう救いとは、キリストが私の罪の身代りに十字架で死んでくださり、罪を赦して下さっただけでなく、私自身もあの十字架でキリストと共に死んだ。キリストの十字架の死と復活にこの私が一つとされた。
十字架の力はそこまで及ぶのだと言います。「十字架につけられました」は完了形の受身です。
完了形は、過去の出来事が現在にいたるまで効果が継続していることを意味します(新共同訳「私はキリストと共に十字架につけられています」)。
ですから昨日も、今日も、明日も、私はキリストの十字架の死と復活に継ぎ合わされて一つにされている。
毎日私たちはキリストと共に死んだものとされ、新しいいのちで生かされているのです。
それは私たちがキリストによって与えられたいのちによって新しい歩みをするためです(ロマ6:4)。
また受身ですから、私たちの側の不信仰ゆえに、キリストと一つにされている事実を実感できない時でさえも、キリストの側で私たちをとらえ、ご自身と一つにして下さっているのです。
その事実を私たちは毎日認めて行けばいいのです(ロマ6:11「思いなさい(認め続けなさい)」)。
私たちはこのキリストと一つにされたという事実をどこまで信仰をもって受け取っているでしょうか。
私たちが信仰をもった後も不自由を感じるとすれば、それはキリストと自分が一つにされた恵みがまだぼんやりしていて、自分の内をまだ肉が支配し、私で生きているからです。
結局自分に囚われているから不自由なのです。
しかしパウロの十字架信仰は、自分自身に対する囚われから解放させるものでした。
自分はもうキリストと共に死んだので、囚われるものがなくなってしまったというのです。
代わりにキリストが私をとらえているのだといいます。
自分に対する囚われから解放され、自分から自由にされる時、私たちは本当の意味でありのままの自分を愛せるようになるのです。
自分を愛せないことからも解放されるのです。
この自由をもたらすのは御霊(聖霊)の働きです。
<16節>
御霊によって歩むとは、罪人の私がキリストの十字架の死と復活に一つにされた事実をはっきりさせられる歩みです。
「キリストが十字架で死なれた時、自分も十字架で共に死んだのだ」という事実が自分の体験として御霊によってはっきりされる時、はじめて古いものに対する囚われから解放され、キリストが私たちにもたらして下さっているとてつもない自由に気づかされていくのです。
これは洗礼を受けたらすぐにわかることではなく、長年信仰生活をしたら悟るというものでもなく、御霊によって歩む信仰生活の中で毎日教えられていく真理です。
私たちが今日何も持っていなくても、私たちと一つでいて下さるキリストが全てを持っていて下さいます。
だから私たちは「あれを持たなければ、もっと聖くもっと愛の人にならなければ」と力む必要はありません。
このままで持っていないなら持っていないで、必要なものはキリストが豊かに持っていて下さる。
だから私たちはこのままで信仰をもって「これが今の私です」と神に向かい、人に向かって行くことができるのです。
御霊によって歩む時、そのような自由が与えられます。
そうすれば「決して肉の欲望を満足させる(完成させる)ことはありません」とパウロは言います。
これまでは肉の欲望に従って歩んでいたけど、聖霊によって歩むなら、聖霊がそうはさせない。
自分を満足させようとするほどむなしい思いにされる。
不自由にされる。御霊によって歩む時、肉で歩むことが不自由になります。
御霊は私を不自由にさせている肉が何かを教えてくれます。
その不自由にさせている肉の自分はキリストと共に十字架で一緒に死んだという事実を見て、認めて、前進していきましょう。
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