(2010年2月)

 ・ 2月28日
 ・ 2月21日
 ・ 2月14日
 ・ 2月7日
 







 2月28日
主題:  「御霊によって歩みなさい」  
            ガラテヤ5:13〜16 (三浦称伝道師)

パウロがガラテヤを去って間もなく、律法的なユダヤ人クリスチャンが現れ、パウロの使徒性を否定し「恵みだけでは救われない。
やはり割礼を受けなければ救われない」と教えました。
彼らは十字架を信じたために、自分も他のユダヤ人から迫害されることを恐れ、自分の体裁を守るため、自分を正当化するためにガラテヤに住む異邦人クリスチャンに割礼を強要しました(6:12〜13)。
それに対してパウロは「何故あなたがたは恵みによって自由にされたのに、また肉の満足を求めて不自由な生き方に戻ろうとするのか」と手紙で激しく戒めています。

<13節>
キリストの福音は、私たちを罪の奴隷から解放し、自由をもたらすためのものです。 
私たちが信仰をもってなお不自由を感じるとすれば、それは私たちの肉が私たちを不自由にさせているのです。
「肉の自由」と「霊の自由」は対立します(17)。
肉の自由は、自分中心の自由であり、自分の欲を満足させようとする自由で、いつも周りに「私を愛して、私に仕えて、私を評価して」と要求します。
だからかえって満足させてくれない現実に不自由になります。
霊の自由は、神中心の自由です。
神の秩序の中を生き神に喜ばれる歩みへと向かわせます。
自分の声に聞き従おうとする肉の自由と神の声に聞き従おうとする霊の自由、自分はどっちで生きていこうかと内で絶えず葛藤するのです。
パウロは霊の自由を知っている人でした。
かつてはキリスト者を迫害した厳格な律法主義者でしたが、復活のキリストに出会い、罪の奴隷から解放されたパウロの信仰の歩みは驚くほど自由な歩みでした。
それは苦しいことや不安や悩みがないということではなく、それらのものに囚われない歩みでした。
罪の奴隷から解放されたパウロは、@世(人)の評価に囚われることから解放され(ピリピ3:5〜14)、A自分の弱さに囚わることから解放され(ロマ7:15〜25、Uコリ12:7〜10)、さらにB生と死の囚われからも解放されたのです(ピリピ1:21)。
パウロは「このような自由は自分しか体得できないものだ」とは言っていません。
「兄弟たち。あなたがたも同じように自由を与えられる」ために召されたのですと言っています。
ただ「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」といいます。

<14節、15節>
霊の自由は、自分を満足させる自由ではなく、自分を与えていく自由です。
私たちの交わりが霊の自由の中にあるなら、必ず愛をもって互いに仕え合う関係が伴います。
隣人を愛すること、自分を他者に与えて仕えていくことは霊の自由がある証拠です(Uコリ3:17)。
反対に、私たちの交わりが肉の自由を求める者の集まりであるなら、自分を満足させるように互いに要求し合うので、互いにかみ合ったり、食い合ったりして、自由を奪い合う不自由な集まりになっていきます。
そのようなことをしていれば、互いに滅びることになるから、気をつけなさい。
霊の自由の中で互いに愛し合いなさいとパウロは言います。

<ガラテヤ2:20>
パウロが恵みの自由の中を突き進むことができたのは、「私はキリストと共に死に、復活のキリストと共によみがえり新しいいのちで生きるものにされた。」(ガラテヤ2:20)という十字架信仰がはっきりしていたからでしょう。
パウロのいう救いとは、キリストが私の罪の身代りに十字架で死んでくださり、罪を赦して下さっただけでなく、私自身もあの十字架でキリストと共に死んだ。キリストの十字架の死と復活にこの私が一つとされた。
十字架の力はそこまで及ぶのだと言います。「十字架につけられました」は完了形の受身です。
完了形は、過去の出来事が現在にいたるまで効果が継続していることを意味します(新共同訳「私はキリストと共に十字架につけられています」)。
ですから昨日も、今日も、明日も、私はキリストの十字架の死と復活に継ぎ合わされて一つにされている。
毎日私たちはキリストと共に死んだものとされ、新しいいのちで生かされているのです。
それは私たちがキリストによって与えられたいのちによって新しい歩みをするためです(ロマ6:4)。
また受身ですから、私たちの側の不信仰ゆえに、キリストと一つにされている事実を実感できない時でさえも、キリストの側で私たちをとらえ、ご自身と一つにして下さっているのです。
その事実を私たちは毎日認めて行けばいいのです(ロマ6:11「思いなさい(認め続けなさい)」)。
私たちはこのキリストと一つにされたという事実をどこまで信仰をもって受け取っているでしょうか。
私たちが信仰をもった後も不自由を感じるとすれば、それはキリストと自分が一つにされた恵みがまだぼんやりしていて、自分の内をまだ肉が支配し、私で生きているからです。
結局自分に囚われているから不自由なのです。
しかしパウロの十字架信仰は、自分自身に対する囚われから解放させるものでした。
自分はもうキリストと共に死んだので、囚われるものがなくなってしまったというのです。
代わりにキリストが私をとらえているのだといいます。
自分に対する囚われから解放され、自分から自由にされる時、私たちは本当の意味でありのままの自分を愛せるようになるのです。
自分を愛せないことからも解放されるのです。
この自由をもたらすのは御霊(聖霊)の働きです。

<16節>
御霊によって歩むとは、罪人の私がキリストの十字架の死と復活に一つにされた事実をはっきりさせられる歩みです。
「キリストが十字架で死なれた時、自分も十字架で共に死んだのだ」という事実が自分の体験として御霊によってはっきりされる時、はじめて古いものに対する囚われから解放され、キリストが私たちにもたらして下さっているとてつもない自由に気づかされていくのです。
これは洗礼を受けたらすぐにわかることではなく、長年信仰生活をしたら悟るというものでもなく、御霊によって歩む信仰生活の中で毎日教えられていく真理です。
私たちが今日何も持っていなくても、私たちと一つでいて下さるキリストが全てを持っていて下さいます。
だから私たちは「あれを持たなければ、もっと聖くもっと愛の人にならなければ」と力む必要はありません。
このままで持っていないなら持っていないで、必要なものはキリストが豊かに持っていて下さる。
だから私たちはこのままで信仰をもって「これが今の私です」と神に向かい、人に向かって行くことができるのです。
御霊によって歩む時、そのような自由が与えられます。
そうすれば「決して肉の欲望を満足させる(完成させる)ことはありません」とパウロは言います。
これまでは肉の欲望に従って歩んでいたけど、聖霊によって歩むなら、聖霊がそうはさせない。
自分を満足させようとするほどむなしい思いにされる。
不自由にされる。御霊によって歩む時、肉で歩むことが不自由になります。
御霊は私を不自由にさせている肉が何かを教えてくれます。
その不自由にさせている肉の自分はキリストと共に十字架で一緒に死んだという事実を見て、認めて、前進していきましょう。



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 2月21日
主題:  「 慰めの神 」  
            Uコリント1:3〜7 (三浦真信牧師)

<3節>
パウロは、この手紙の最初で神をほめたたえています。
ほめたたえられるべき神がどのような方かというと、「慈愛の父」「慰めの神」です。
「慈愛」は、原語では複数形が使われています。
神様のご愛、あわれみは、ワンパターンではなく、様々な形で現されているのです。
人間の「慈愛」という言葉では、表しきれない豊かな内容です。
「慰め(パラクレーシス)」という言葉は、「聖霊(助け主、パラクレートス)」と同じ語源です。
弱り果てて倒れそうになっている者をも、その慰めによって、強め支え、助けてくださる神なのです。

<4節>
3〜7節で、10回「慰め」という言葉が出てきます。
パウロ自身が、この手紙を書いている時にも、特別深い神の慰めを経験していたのかもしれません。
あるいは、コリント教会が、今神の慰めを必要としていると感じていたのかもしれません。
パウロは、自分自身の経験として、はっきりと確信をもって「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」と言うことができました。
パウロがどのような苦しみにあったかは、この手紙の11:23〜31にも具体的に記されています。
並々ならない苦しみを受け、パウロは弱くされましたが、その中で神の慰めを受けていきました。
神の慰め、助けは、苦しみの中でより具体的に体験することができるのです(詩篇46:1〜3)。
また「自分自身が神から受ける慰めによって」、他の苦しみの中にいる人にも、神の慰めを伝えることができるのです。
苦しみの内容は、人それぞれ異なります。
しかし苦しみの中で、神の慰めを確かに受けたという経験は、そのまま苦しんでいる人の助けになるのです。
ですから、苦しんだという経験は賜物なのです。
ただ、人の助けには限界があります。
苦しんでいる人に寄り添って、共に祈ることはできますが、完全な解決を与えることは人にはできません。
だからこそ、苦しみを共有して共に慰めの神に祈ることが大切です。
神様に向かうことなしには、ただの傷の舐めあいになってしまいます。
真の慰めと助けは神からくることを信じて、祈りを共にすることが交わりです。
神の慰めを経験した者たち一人一人に、また慰めの神を伝えるべき人がいるのです。

<5節>
苦しみも、慰めも、キリストに結びついています。苦しみの中で、パウロはキリストの十字架の死と復活を経験しました(ピリピ3:10〜12)。苦難の中で、なおキリストについていく時に、今も生きておられるキリストの慰めと力が注がれるのです。
特にキリストの御名のために苦しむ時には、格別な御霊の慰めと喜びが与えられるのです(Tペテロ4:12〜14)。

<6節>
苦しみの中で受ける神の慰めは、神と自分との関係だけでは終わらず、人との関係にも大きな影響を与えていきます。
パウロは、ここでキリストのからだなる教会のことを意識していたのでしょう。
一つの部分が苦しむ時には、からだ全体が苦しみます(Tコリント12:26)。
一つのからだでは、苦しみも喜びも、全体が共有することになるのです。
パウロが、キリストのために迫害されたり、苦しみの中で神の慰めを経験したことが、コリントだけでなく、世界中に福音が届けられていくために用いられたのです。
また神の慰めは、「苦難に耐え抜く力を与える」ものです。
ここの「力を与える(エネルグーメネス)」という原語は、「エネルゲオー(英語のエネルギー)」で、「超自然的な力」を意味する時に使われる中動態が使われています。
つまり、この「苦難に耐え抜く力」は、超自然的な神の力によって与えられる奇跡なのです。
神が信じる者たちに与える奇跡の一つに、このように「苦難に耐え抜く力」があるのです。
自分の力では、決して耐えることができないはずの苦しみの時にも、神の慰めによって耐え抜く力が与えられるのです。
そして、この超自然的な力である神の慰めは、私だけではなく、「あなたがたにも与えられる」とパウロは伝えています。

<7節>
「私たちがあなたがたについて抱いている望み」とは、問題だらけのコリント教会をも必ず主が守り導いてくださること、また一人一人の救いを神が完成してくださるという望みでしょう(ピリピ1:6)。
コリント教会の様々な難しい事情を耳にしても、パウロのその確信は動くことがありませんでした。
その望みに立って、パウロはあきらめることなく、コリント教会のために祈りとりなし続けることができたのです。
コリント教会の人たちもパウロ同様に、苦しみの中で神の慰めを受けていたのです。
場所は離れていても、同じ神の慰めを共にしていたのです。

この手紙とコリント人への手紙第一の手紙の間にパウロが書いた「涙の手紙」により、コリント教会に悔い改めが与えられていきました。
パウロは、悔い改めの中でまだ自分の罪に痛み苦しんでいる人がいるかもしれないと思ったかもしれません。
また異教社会のコリントにあって、主の御名のための苦しみを多くの人が経験していることを思い遣っていたのかもしれません。
この手紙の最初で、神の慰めがどれほどすばらしいかを懇々と記しています。
苦しみの中でこそ受けられる神の慰めがあります。
受けた神の慰めは、また他の苦しみの中にある人にも及んでいきます。
神の慰めを受けながら歩む民を、神は主のもとに行く時まで責任をもって守ってくださるのです。
その望みは、試練や苦しみによって動かされたり消されてしまうものではありません。
どんな苦しみの時にも、神に祈り、神の慰めを受けていきましょう。
また他の苦しみの中にある人々と共に、慰めの神を慕い求めていきましょう。



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 2月14日
主題:  「 キリストからくる平安 」  
                 Uコリント1:1〜2 (三浦真信牧師)


<1節>
神のみこころにより使徒となったパウロ、「および兄弟テモテ」が、この手紙を書きました。
テモテは第2回伝道旅行の時に、パウロが同労者として選んだ人です。
その時は20歳前後の青年で、評判のよい人でした(使徒16:1〜3)。
テモテは、パウロの代理として諸教会に派遣され、パウロの殉教後はエペソ教会の初代監督になりました。
パウロは、テモテ自身には「年が若いからといって軽く見られることなく、信者の模範になりなさい」(Tテモテ4:12)と勧告を与えます。
一方で周囲の者たちには、パウロ自身がテモテの信仰にある生き方を尊重していることを伝え、また若いテモテに配慮をもって受け入れることを要請しています(Tコリント4:17、16:10)。
テモテは、パウロの手紙の筆記者としてもパウロを助けたのです。
このコリント人への第2の手紙も、テモテが共同執筆者として名前が記されています。
コリント教会の人たちもテモテのことはよく知っていましたので、パウロとテモテの顔を思い浮かべながら、この手紙を読むことができました。
パウロは手紙の中で、テモテだけでなく様々な人の名前を記しています。
それにより、主の働きが決してパウロ一人によって進められているのではないことが分かります。
パウロ自身も、キリストのからだの中で、一つの器官の役割を果たしているに過ぎないことを発信しているのです。
さて、パウロとテモテから、「コリントにある神の教会」に、この手紙は差し出されています。
コリント人への第1の手紙でも、「コリントにある神の教会」と同じ表現が使われています。
コリント教会は、パウロにとっても手のかかる教会であり、心煩わされる教会でした。
確かに諸問題はありましたが、それでも他の教会同様に「キリストの御名を呼び求める人々」(Tコリント1:2)がいたのです。
だから「神の教会」なのです。
主の御名を呼び求める人たちがいる限り、何があってもそこは「神の教会」なのです。
必ず秩序の神が、今コリントに起きている問題をも治めてくださると信じて、パウロはこの手紙を書いています。 
生きた教会は、常に問題を抱えています。
生きている限り、すべての人が問題を持っています。
問題を抱えた人間が集まる教会も、常に問題があって当然です。
しかし、そのような問題のある荒野の場所が、逆に神が生きて働かれる場所なのです。
「荒野に道を、荒地に川を設ける」(イザヤ43:19)主です。荒野こそ、主のみわざが鮮やかに現される場所なのです。
その信仰に立って、パウロは多くの問題を抱えるコリントの教会をも 「神の教会」と呼んだのです。
「ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ」。アカヤは、コリントの町がある州です。
パウロは、コリント教会に対する熱い思いをもっていましたが、コリント教会も、公同の教会の一つに過ぎません。
決して教会は一つだけ孤立して存在するのではありません。
キリストの御名を崇める教会はみな一つです。
ですから、この手紙も直接にはコリントに送られていますが、コリント周辺のアカヤ地方の諸教会でも回覧して読むように書かれて いるのです。
神様は、世界のすべての教会に、そしてすべての聖徒たちに目を留めておられるのですから、一つの教会のことだけを考えるわけにはいかないのです。
自分が所属している教会のことを常に考え祈ることは当然ですが、同時に日本の世界の諸教会のことも祈りに覚え、必要があれば互いに協力し合うのです。
パウロも、コリント教会だけでなく、キリストの御名を呼ぶすべての教会が、全体で養われ成長していくことを願っていましたので、コリントに宛てた手紙も、周辺教会で回覧するように促していたのです。
「聖徒」(ハギオス)とは、特別な人ではなく、キリストを信じて罪きよめられた者のことです。
見えるところは、まだ罪のしみやしわがあるけど、神はキリストを信じる者を雪よりも 白くきよい者として見てくださるのです(詩篇51:7)。
キリストのゆえに、私たちは大胆に「私は聖徒です」と宣言できるのです。

<2節>
キリストの恵みが、私たちに平安をもたらします。
人が罪から救われるのは、行いや 努力によらず、神の一方的な恵みによるのです。
「この罪人をあわれんでください!」と神の御前にひざまずく時に、「私があなたの罪の代わりに十字架で死んだから大丈夫だ!」とイエス様はおっしゃってくださるのです。
私たちを責めたてる罪の請求書は、すでに十字架に釘付けにされたのです(コロサイ2:13〜14)。もう借金取りに怯える必要はないのです。
イエス様が私の罪の借金を全部肩代わりしてくださったので、借金の重荷から解放されたのです。
サタンが罪をいくら責め立ててきても、「すでにイエス様が全額代わりに支払ってくださいましたよ」と、十字架に釘付けにされた債務証書を見せればいいのです。
キリストの十字架の恵みにより、私たちはもう罪に責め立てられる苦しみから解放されたので、平安を得たのです。
パウロは、この節の表現を手紙の最初にいつも書いていますが、それはすべての人が、このキリストからくる恵みと平安を持ってほしいという切なる願いからでしょう。
真の平安はキリストからきます(ヨハネ福音書14:27)。
不安や恐れに囲まれる時にも、キリストの十字架による罪の贖いを思うなら、驚くべき平安がくるのです。
そしてこのキリストの平安を内に持つ者たちを通して、神はご自身の計画を実現していかれるのです。



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 2月7日

主題:  「 神のみこころによる使徒 」  
                  Uコリント1:1 (三浦真信牧師)

コリント人への第2の手紙は、パウロが書いた書簡の中でも最もパウロの人間性がよく表れています。
パウロの怒り、悲しみ、喜び、恐れなどが他の手紙以上に記されています。
この手紙の中でパウロは、自分に悪意を抱いている人たちに対して弁明をしています。
パウロが使徒であることに疑いを抱いている人たちがコリント教会に若干いたようです。
使徒とは、復活のキリストに出会い、キリストから召されて宣教の働きに携わった人たちのことで、初代教会では重要な役割を担っていました。
自分が使徒であることを明らかにするために、あえてパウロは自分の弱さを伝えています。
普通でしたら、弁明するためには、あまり不利なことは言わず、立派な部分をアピールするものでしょう。
しかしパウロは、むしろ反対者からは揚げ足をとられかねないような自分の弱さをあえて出しているのです。
それは同情を引こうとか、自分の側に 人を取り込もうという姑息な思いではなく、むしろそのような弱さをもった自分をも、あえて使徒として選んでくださった神のあわれみの大きさを伝えようとしているのです。
この手紙は、紀元56〜7年頃にパウロにより書かれています。
パウロは55年頃に、コリント教会に起きていた問題収拾を願って第1の手紙をエペソで書きました。
しかしあまり解決には至らなかったようです。
そのためパウロ自らコリントに出向きますが、その結果もいまひとつ良くありませんでした(2:1、13:1)。
エペソに帰ったパウロは、涙ながらにコリント教会に手紙を書きます(2:4)。
そしてその手紙をテトスに託します。
エペソでの働きを終えて、次の宣教地であるトロアスにパウロは向かいますが、コリント教会の成り行きが気になって、マケドニヤに向かい(2:12〜13)、そこでコリントから帰ったテトスに会います。
テトスから、コリントの人たちに悔い改めが与えられたという嬉しいニュースを聞くことになります(7:5〜16)。
そこでマケドニヤから書いたのが、このコリント人への第2の手紙です。
第1と第2の手紙の間に、パウロのコリント訪問と涙の手紙が送られていたことを踏まえて、この第2の手紙を読んでいきましょう。

<1節>
「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」
Tコリントでも、また他の書簡でも、パウロは似たような表現を最初に書いています。
Tコリントでは、「使徒として召されたパウロ」となっています。
パウロは、決して自ら立候補して使徒になったわけではありません。
むしろクリスチャンを迫害している最中に、復活のキリストが御声をかけてくださってパウロを救い、そして異邦人宣教のための 使命を一方的に与えられたのです(使徒9:1〜20)。
突然キリストにとらえられて、今度は迫害される側になってしまったのです。
復活のキリストに出会って、福音が本物であることを体験してしまったら、それを否定し続けたり、迫害し続けることはできなくなってしまうのです。
パウロは、このように自分の思いとは全く関係なく、神から一方的にキリストを宣べ 伝える使徒として召されたのです。
ですから、パウロが使徒となったことは、どこまでも 神の主権によるもので、パウロの意思や願いとは無関係なのです。
神の召命とは、どこまでも神の主権によるものです。
「神が召された」という事実があるからこそ、あらゆる艱難を乗り越えることができたのです。
神が召されて始まったことだから、安心なのです。
神の召しは、人物が立派であるとか、有能であることとは関係がありません。
パウロも、 迫害して神のみこころを邪魔している最中に救われ、召されたのです。
もちろん、それぞれに与えられた能力も主はお用いになります。
しかし主から召される人は、必ず弱さや足りない部分が恵みとして与えられているのです。
そうでなければ、全面的に主に頼ることはできません。
弱さがあるからこそ、一歩一歩主に頼らずにはいられないのです。
でも主権は主なる神ですから、それでいいのです。
パウロは、正に以前は神を汚し、迫害し、暴力をふるう者でした。
しかし、そのような者をも救って使徒として召してくださる神のあわれみと寛容を示す見本となったのです(Tテモテ1:15〜16)。
伝道者だけでなく、神はすべての神の民たちに地上での使命を与えておられます。
職業も英語で“calling”ですが、それは召命と同じ単語です。
神は一人一人を、何かしらの仕事に召しておられるのです。
職業ではなくても、誰かに仕えたり、助けたり、育てたり、その人でなければ関われない人がいるでしょう。
その人でなければできないことが与えられているのです。
「神のみこころによる」というときに、安易に「みこころが示された」という言葉を使うことは注意する必要があります。
自分の思いを強引に成し遂げようとするために、使ってしまう危険もあるからです。
神が本当に示されたことは、必ず事実が伴います。
主のみこころなら、どんなに反対されようと成るのです(でもみこころを知る上で、周囲の意見をよく聞くことも大切です)。
あるいは、砕かれるための時間を要するために、みこころがなるまでにかなり時間がかかることもあります。

神のみこころが実現する時、またみこころに従っていこうと1歩踏み出す時に、サタンも激しく攻撃してきます。
しかし悪魔はほえたけるライオンのようですが、ほえて脅すだけで、噛み付くことはできません。
主に信頼する者に、悪魔は指一本触れることは できないのです。
聖霊のバリアが張られているからです。
ほえたける獅子である悪魔には、堅く信仰に立って、毅然としていればよいのです(Tペテロ5:7〜9)。
パウロは、神のみこころにより、一方的に使徒として召されたので、苦難の時も、「神が始めてくださったことだから神が最後まで守り導いてくださる」という信仰に立つことができたのです。
私たちが救われたことも、神の主権によるものです。
私たちが努力したり、立派に なったから救われたのではなく、弱く罪深い者であることを認めた時に、ただ恵みに より救われるのです。
私たちが正しかったからでも心がまっすぐだったからでもなく、うなじのこわい民であるにも拘らず(申命記9:5〜6)、主は滅びから救い、天国人としてくださったのです。
ですから、私たちの側の何にもよらないので安心です。
こちらの状態で、救いが与えられたり取り消されたりはしないのです。
罪の残骸を内側に見たり、失敗したりしても、神が始めてくださった救いは、神が完成してくださるから大丈夫なのです。

ハレルヤ!




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