主題: 「完了した救い」
ヨハネ福音書19:1〜30 (三浦真信牧師)
受難週を覚えて、キリストが十字架に架けられたことの意味を考え、与えられた救いの恵みを感謝するとともに、私たちが救われるためにどれほどの苦難をキリストが受けてくださったかを心に留めましょう。
@ 無罪で十字架刑を受けられたイエス・キリスト(1〜6節)
総督ピラトは、捕らえられてきたイエスをむち打ちにしました。
通常むちには金属が付いていたので、繰り返し打たれることは相当の痛みが伴います。
キリストは神の子ですが、私たちと同じ肉体をもって歩まれたので、人が感じるのと同じ痛みを感じられたのです。
ユダヤ人の王であると、兵士たちはからかうように、いばらで作ったとげだらけの冠をイエスの頭にかぶらせ、王家を象徴する紫の着物を着せました。
ピラトは、その哀れな格好をさせられても無抵抗でいるイエスを人々の前にさらし者にすることで、訴える人たちの気持ちを満足させようとしたのです。
「もうこれで十分だろう」と言わんばかりに、「さあ、この人です」(5節)と、イエスを人々の前に連れ出しました。
ピラトとしては、大騒ぎになって民衆が暴動を起こしては困ると思いましたが、イエスに何の罪も見当たらないのに処刑にするわけにはいかないとも思っていました。
繰り返しイエスに 罪を認められないことを言いながらも、群集の「十字架につけろ」という叫びに負け、イエスは十字架に架けられることになるのです。
歴史上稀に見るひどい冤罪ですが、それさえも神のご計画だったのです。罪を全く知らないキリストが、すべての人のすべての罪を負って十字架で死なれたのです。
そしてこの方を信じる者が、恵みによって神の義とされ救われることをみ心とされたのです(Uコリント5:21)。
私たちが少し人から悪者扱いされたり、責められただけで腹を立てたり、逆に人を非難したりするのとは全く正反対なのです。
原罪さえももたれない、罪の一点もない方が、すべての
罪を負って身代わりに死んでくださり、それによって信じる者に永遠のいのちを与えてくだ
さったのです。
A 人間の権威をしのぐ神の権威(10〜11節)
ピラトは、イエスが自分のことを語り釈明すれば、釈放もできると考えていました。
しかし 「上(神)からの権威でなければピラトさえ何の権威もない」とイエスは言われたのです。
実際ピラトはイエスを釈放しようと努力しました(12節)。
本当に権威があるなら、イエスを釈放できたはずなのです。
しかしできずに、キリストを十字架刑にしてしまいます。それが神のご計画だったからです。
神の権威には、この地上のどんな権威者も勝つことはできないのです。
また人の思いや計画さえも、神の権威ある計画の前には、尽く破れていくのです。
神のみ心を実現するために、神はこの世の権威を用いることもあります。
しかし人間の思いや欲を実現するためのこの世の権威は、神が打ち砕かれます。
神の権威は、地上のあらゆる権威に勝るものです。
B 完了した贖い(28〜30節)
イエスは十字架上で、神に対する激しい渇きをもちました。
「私の魂は、神を、生ける神を求めて渇いています」(詩篇42:2)と歌った詩篇の作者の気持ちにも似ているかもしれません。
しかしそばにいた兵士たちは、のどが渇いているものと思い、酸いぶどう酒を含んだ海綿を「ヒソプの枝」につけてイエスの口元に差し出しました。
ヒソプは、ユダヤ人がきよめの儀式に使うものです(詩篇51:7)。
過ぎ越しの儀式にも使われました(出エジプト12:22)。
キリストが民たちを罪から救うために、罪のいけにえとして十字架にささげられるこの時に、ローマの
兵士たちがヒソプを用いたのは不思議なことです。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「完了した」と言って霊をお渡しになりました。
それは、旧約聖書の預言がすべて成就し、贖いのわざが完成したという勝利の叫びでもありました。
イエスがこの地上に来られた目的が、ここで完了したのです。
神の遣わされたキリストの任務は終了したのです。
神に受けいれられる全人類に対するなだめの供え物が、神にささげられたのです。
この私の罪のために十字架で死なれたキリストを信じるなら、救われるのです。
永遠に尽きることのない火の中で苦しむのか、永遠に神がおられる御国に行くのか、死んだ後にはその二つの道しかないのです。
滅びか、いのちか、その選択を神は人に委ねられました。
永遠のいのちを得たいなら、ただ信じるだけでいいように、神の子がすでに完全な道備えをしてくださっているのです。
キリストは救いのために必要なことを実現して、すでに完了してくださいました。
私たちは、「この罪人を救ってください」と祈り、キリストがすでに完了してくださった十字架の贖いを受け取るだけで、罪の滅びから救われるのです。
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