(2010年3月)

 ・ 3月28日
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 ・ 3月7日
 







 3月28日
主題: 「完了した救い」 
         ヨハネ福音書19:1〜30 (三浦真信牧師)

受難週を覚えて、キリストが十字架に架けられたことの意味を考え、与えられた救いの恵みを感謝するとともに、私たちが救われるためにどれほどの苦難をキリストが受けてくださったかを心に留めましょう。

@ 無罪で十字架刑を受けられたイエス・キリスト(1〜6節)
総督ピラトは、捕らえられてきたイエスをむち打ちにしました。
通常むちには金属が付いていたので、繰り返し打たれることは相当の痛みが伴います。
キリストは神の子ですが、私たちと同じ肉体をもって歩まれたので、人が感じるのと同じ痛みを感じられたのです。
ユダヤ人の王であると、兵士たちはからかうように、いばらで作ったとげだらけの冠をイエスの頭にかぶらせ、王家を象徴する紫の着物を着せました。
ピラトは、その哀れな格好をさせられても無抵抗でいるイエスを人々の前にさらし者にすることで、訴える人たちの気持ちを満足させようとしたのです。
「もうこれで十分だろう」と言わんばかりに、「さあ、この人です」(5節)と、イエスを人々の前に連れ出しました。
ピラトとしては、大騒ぎになって民衆が暴動を起こしては困ると思いましたが、イエスに何の罪も見当たらないのに処刑にするわけにはいかないとも思っていました。
繰り返しイエスに 罪を認められないことを言いながらも、群集の「十字架につけろ」という叫びに負け、イエスは十字架に架けられることになるのです。
歴史上稀に見るひどい冤罪ですが、それさえも神のご計画だったのです。罪を全く知らないキリストが、すべての人のすべての罪を負って十字架で死なれたのです。
そしてこの方を信じる者が、恵みによって神の義とされ救われることをみ心とされたのです(Uコリント5:21)。
私たちが少し人から悪者扱いされたり、責められただけで腹を立てたり、逆に人を非難したりするのとは全く正反対なのです。
原罪さえももたれない、罪の一点もない方が、すべての 罪を負って身代わりに死んでくださり、それによって信じる者に永遠のいのちを与えてくだ さったのです。

A 人間の権威をしのぐ神の権威(10〜11節)
ピラトは、イエスが自分のことを語り釈明すれば、釈放もできると考えていました。
しかし 「上(神)からの権威でなければピラトさえ何の権威もない」とイエスは言われたのです。
実際ピラトはイエスを釈放しようと努力しました(12節)。
本当に権威があるなら、イエスを釈放できたはずなのです。
しかしできずに、キリストを十字架刑にしてしまいます。それが神のご計画だったからです。
神の権威には、この地上のどんな権威者も勝つことはできないのです。
また人の思いや計画さえも、神の権威ある計画の前には、尽く破れていくのです。
神のみ心を実現するために、神はこの世の権威を用いることもあります。
しかし人間の思いや欲を実現するためのこの世の権威は、神が打ち砕かれます。
神の権威は、地上のあらゆる権威に勝るものです。

B 完了した贖い(28〜30節)
イエスは十字架上で、神に対する激しい渇きをもちました。
「私の魂は、神を、生ける神を求めて渇いています」(詩篇42:2)と歌った詩篇の作者の気持ちにも似ているかもしれません。
しかしそばにいた兵士たちは、のどが渇いているものと思い、酸いぶどう酒を含んだ海綿を「ヒソプの枝」につけてイエスの口元に差し出しました。
ヒソプは、ユダヤ人がきよめの儀式に使うものです(詩篇51:7)。
過ぎ越しの儀式にも使われました(出エジプト12:22)。
キリストが民たちを罪から救うために、罪のいけにえとして十字架にささげられるこの時に、ローマの 兵士たちがヒソプを用いたのは不思議なことです。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「完了した」と言って霊をお渡しになりました。
それは、旧約聖書の預言がすべて成就し、贖いのわざが完成したという勝利の叫びでもありました。
イエスがこの地上に来られた目的が、ここで完了したのです。
神の遣わされたキリストの任務は終了したのです。
神に受けいれられる全人類に対するなだめの供え物が、神にささげられたのです。
この私の罪のために十字架で死なれたキリストを信じるなら、救われるのです。
永遠に尽きることのない火の中で苦しむのか、永遠に神がおられる御国に行くのか、死んだ後にはその二つの道しかないのです。
滅びか、いのちか、その選択を神は人に委ねられました。
永遠のいのちを得たいなら、ただ信じるだけでいいように、神の子がすでに完全な道備えをしてくださっているのです。
キリストは救いのために必要なことを実現して、すでに完了してくださいました。
私たちは、「この罪人を救ってください」と祈り、キリストがすでに完了してくださった十字架の贖いを受け取るだけで、罪の滅びから救われるのです。




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 3月21日
主題:  「 神の恵みによる行動 」 
                 Uコリント1:12〜14 (三浦真信牧師)


<12節>
パウロは11節にあるように、コリント教会と祈りの協力関係を築きたいと願っていました。
しかしコリント教会の中でパウロに不信感をもっていた人たちがいたこともあり、難しい状況にもありました。
コリント教会の人々が、パウロに対して疑念を抱くように仕向ける人たちがコリント教会に入り込んできたようです。
彼らは、自分たちのことを「大使徒」と呼んでいました(11:4〜5)。
大使徒たちは、自らの能力や資質を誇り(5:12)、そしてパウロの使徒としての資質を批判し、そのうえパウロに金銭疑惑までかけて(12:16)、コリント教会の人たちの心をパウロから引き離そうとしました。
彼らは他教会からの推薦状を携えてきたので(3:1、12:11)、ある程度信頼も得られたのでしょう。
大使徒(自称)の悪意ある噂により、少数ではありますがそれを鵜呑みにしてパウロに疑念をもち、パウロの勧めに耳を傾けられなくなっている人たちがいることは、決して福音宣教のためにもプラスではないと思い、パウロは繰り返し弁明しています。
パウロ個人が批判されるだけで済むなら、パウロもそれほど気に留めなかったかもしれません。
しかしコリント教会の人々が、パウロの語る福音や忠告をストレートに受け入れられなくなるということは、彼らの魂の問題にも関わり、ひいては神ご自身の働きを妨げることにもなりますので、パウロは黙って見過ごすわけにはいかなかったのです。
パウロはここで、「特にあなたがた(コリント人たち)に対して、聖さと神から来る誠実さとをもって」関わろうとしていることを強調しています。
パウロ自身が過ちを犯さないとか、完全無欠な人間であるというわけではありませんが、少なくともコリントの人たちに対して誠実に関わりたいと願っていることは確かだというのです。
「人間的知恵によらず、神の恵みによって行動している」パウロは、決してコリント教会を自分の思い通りに操ろうとか、悪意ある策を練って行動しているわけではなく、どこまでも神の恵みによって行動していることを断言しているのです。
逆に大使徒たちは、「人間的知恵(肉の知恵)」で行動していました。
彼らは自分たちの資質をどこまでも誇りとし、神の主権に逆らい、人間の悪知恵によって、自分たちの思い通りにことを運ぼうとしました。
しかしパウロは、もともと神の恵みによって一方的に救われ、今の働きに神から直接召されて始まったのだから(Tコリント15:10)、今も神の恵みによって行動しているのです。
人間的な知恵によって生きる生き方とは決別し、神の恵みによって運ばれる生き方に切り替えられたのです。
もしまた人間的知恵、肉の知恵によって行動するなら、それはかつての空しい暗闇の生き方に逆戻りすることになってしまうのです。
「神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです」と、決して自分の良心が痛むような行動をコリント教会に対してとっていないと言い切ることができたのです(ヘブル13:18)。
またパウロが悪意や支配欲に駆られて牧会伝道しているのではなく、神の恵みによってすべてさせられていることは、他の多くのパウロを知るクリスチャンたちも証ししていることでした(Tテロニケ2:10)。
恵みによって行動していることは、主にあっての誇りであるのです。
それはどこまでも恵みによってさせられていることなので、結果的には主にあっての、主に対する誇りになるのです(Tコリント1:31、15:10)。

<13節>
ここでパウロは、コリント人たちに手紙で伝えたことは、ストレートにそのまま読んで理解してほしいと願っています。
裏表があったり、騙そうとしているわけではないということを伝えています。
「理解する」(エピギノースコー)は、「真意を正しく理解する」という意味があります。
大使徒たちからの悪意ある表現に惑わされず、うがった読み方をしないで、そのままの真意を正しく受け取ってほしいと切に願っていたのです。
人を悪く言ったり批判的にいう人の言葉を聞いたときは、「本当にそうだろうか?」と全部を鵜呑みにしない聞き方が必要です。
神に対しては「鳩のようにすなおである」べきですが、人の言葉に対しては「蛇のようにさとく」もあるべきなのです(マタイ10:16)。
聞いたことも、客観的な他の違った意見も聞いた上で少しでも正しく理解していかないと、無意味な色眼鏡をかけることになり、正しく判断できなくなってしまいます。
推薦状をもって入り込んできた大使徒たちですから、彼らの話すパウロへの批判的言葉をそのまま鵜呑みにした人たちは、パウロの伝える福音をストレートに受け入れられなくなり、大使徒たちが語る福音に非常によく似た福音もどきの教えに支配されていってしまいました。
それはパウロにとっても、非常に残念で仕方がなかったのです。
かつては純粋にキリストを愛し、キリストの恵みだけで生きていたのに、大使徒たちの巧妙な罠にかかってしまったために恵みから離れ、肉の知恵に支配されてしまった人たちも、何とかパウロの伝える真意を理解してくれることをパウロは願っていたのです。

<14節>
実際には、コリントの多くの人たちはパウロのことを理解していたのです。
またこの手紙を書く前(第一コリントの手紙の後)にパウロが書いた手紙を読んで、コリント教会に深い悔い改めが起きたことをテトスからパウロは聞いていましたので、少しずつ理解を得られている感触もあったのでしょう。
でもまだまだ十分には理解されていませんでした。
しかしパウロは、究極的には「私たちの主イエスの日」に望みを置いています。
主イエスが再びこの地上に来られる再臨の日には、すべてのことが明らかになるのです。
仮に地上では十分理解し合えないまま終わったとしても、すべてのことが明らかにされる主イエスの日には、パウロたちが心からコリント人たちを大切に思っているのと同じ思いが、コリント人たちにも与えられ、互いのことを主にあって誇りとし愛し合う関係になるということは、理解していてほしいと願っています。
すべてが明らかになる主イエスの日に、パウロたちが誠実にコリントの人たちに関わろうとしたことが証明されると言えるほどに、ただ神の恵みによって今も行動していると、パウロは言うことができたのです。
また最終的にはそのような和解の時が必ずあるという余裕をもって、強引にではなく、それでもあきらめることなく、自分の思いを伝え続けていきました。

パウロは、恵みによって救われ、恵みによって今の働きに召されました。ですから、今も神の恵みと導きの中で行動しているのです。
パウロに肉の思いが出てきても、御霊はそれを打ち砕き、取り扱ってくださいます。
私たちも、神の恵みによって行動しているのか、単なる自分の肉欲で行動しているかが日々問われます。
御霊は私たちの行動の根っこにある動機に光を照らします。
人間的知恵、肉の知恵によって行動しようとすれば、「それは違う」と御霊が内からささやきかけ、また具体的な障害を用いて、ストップをかけてくださいます。
それが御霊の働きなのです。肉の思いが出てくることは問題ではありません。
パウロも常に内から出てくる肉の思いと生涯闘い続けました(ガラテヤ5:16〜17、25)。
むしろ肉が出てきた時に、御霊が気づかせてくださる自分の肉を認め、方向転換していくのです。
毎日、御霊が気づかせてくださる自分の肉の姿を認めて、また「御霊によって歩ませてください」と方向転換していくのです。
「神の恵みによって行動する」とは、「御霊によって歩むこと」と一つです。
御霊が始めてくださった救い(Tコリント12:3)、また恵みによって与えられた救い(エペソ2:5)ですから、救われた後も、御霊により恵みにより歩み行動していくのです。
肉の思いは たえず御霊に逆らうので、持ち続けると苦しくなります。
それは御霊の思いが内にある証拠です。
御霊の思いと肉の思いは対立するので、肉の思いを生かそうとすると苦しくなって何もできなくなるのです。
そこで「御霊によって生きよう、御霊に導かれて進もう」と願っていく時に、肉が打ち砕かれて平安を得ることができるのです。
恵みによって私たちは新しくキリストの者とされたのですから、恵みにより御霊によって行動することを祈り求めていきましょう。





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 3月14日
主題:  「互いに祈り合う交わり 」 
               Uコリント1:10〜11 (三浦真信牧師)


<10節>
神は、パウロをアジヤでの苦しみから救い出してくださいました。
命にも関わる絶体絶命の危機から、確かに神が救い出してくださったという経験は、パウロに大きな望みを与えたのです。
あの死の苦しみから救い出してくださった神は、同じように今直面している苦しみからも、そして将来に起きる艱難からも救い出してくださるという望みを、神に置くように切り替えられていったのです。
どこに望みを置くかが重要です。目に見えるものに望みを置くと、必ず幻滅する時がきます。
なぜなら、目に見えるものは一時的であり(4:18)、限界があるからです。
しかし、永遠に生きておられ、死者をもよみがえらせる神(1:9)に望みを置くなら、どのような状況の中でも、完全に望みを失ってしまうことはないのです。
一時的には、落ち込んだり失望感に襲われることがあっても、神は再び立ち上がらせてくださいます。 
苦しみの中にある時、自分の思い通りにならなかったり、大きな挫折を経験した時に、改めて自分が何に望みを置いているかが問われます。
パウロは、アジヤでの大きな 苦しみを通して、自分や見えるものに望みを置くことを止め、一切の望みを神に置くと決めたのです。
神に望みを置いていくなら、状況に振り回されることなく、希望を持ち続けることができるのです(そのためには常に礼拝や交わりが必要です)。

<11節>
パウロは、苦しみの中にあるコリントの人たちのことを思い遣っていますが、それにもかかわらず「あなたがたのために祈りますよ」とここでは言わず、「あなたがたも祈りによって私たちを助けて協力してくださるでしょう」と、祈りの協力を要請しています。
苦しみの中にある時は、自分の苦しみに心が向かって余計苦しくなることがあります。
むしろ他の苦しみの中にある人たちのためにとりなし祈ることで、自分自身も心が神に向けられていくことがあるのです。
また他の人のために祈りとりなすことで、神のみわざをより客観的に見ることができ、かえって励まされることがあります。
同じ主が、また自分の苦しみにも必ずいつか解決を与えてくださるという希望にもつながっていくのです(自分のために祈ることも必要ですが)。

パウロ自身は、誰よりもコリント教会のために痛みをもって祈っていました。
でも 「私=祈る人、あなた=祈られる人」という関係ではなく、コリント教会とも相互に祈り 合う関係を築こうとしたのです。
祈りの力を知っていただけに、また自分の働きのためにもとりなしの祈りを切に求めていました。宣教の働きにおいては、サタンも激しく攻撃してきます。だからこそ、特別に祈りの城壁が必要なのです。
その戦いは、血肉(見える人)ではなく、見えない悪魔との戦いです(エペソ6:12)。
パウロは、神の力を知ると同時に、悪魔の力も知っていました。霊的な戦いであり、敵が目に見えないだけに、見えるものとの戦いにはない 精神的苦痛が伴うのです。
祈りのバリヤがしっかり張られていなければ、たちまち負かされてしまいます。
だからこそ、「祈ってください」と、繰り返し祈りの協力をどんな小さな者にも求めたのです(エペソ6:18〜20)。
とりなしの祈りは、祈り手も大きな恵みを受けるのです。
とりなしの祈りをすることで、「多くの人々が感謝をささげるようになる」のです。
人のために祈って損をすることなど、決してないのです。
とりなしの祈りを通して自分自身が受ける恵みは、測り知れないのです。

パウロが求めた祈り合う関係は、交わりの原点です。優しい言葉をかけたり、具体的な助け合いも交わりの大切な要素ですが、最も大切なことは「死者をもよみがえらせてくださる神」に共に祈ることです。
神はあらゆる人を用いて、主の民を助けてくださいます。
しかし人はあくまで神に用いられているだけであって、その背後で働いておられる神に常に注目していかなければなりません。
人間の情による関係だけでしたら、いつかは崩れたり、何かあると憎しみや妬みに変わるでしょう。
助けてくれた人に感謝を伝えることは大事ですが、それ以上にその人を用いて万全の助けを与えてくださる神に感謝をささげていきましょう。
そのことを忘れると、常に見える人に心を奪われる 人間中心の交際になってしまいます。
神に望みを置いていく祈りの協力は、神への 感謝を生み出していきます。
心合わせて祈る時に、神は大いなることをしてくださいます(マタイ18:19〜20)。
常に共に集まることができればよいのですが、パウロとコリントの人たちのように、場所が離れていてほとんど一緒には祈れない場合もあります。 
それでも、離れた場所で互いの苦しみを覚えて「地上で心を一つにして祈るなら」、 天の父はそれをかなえてくださるのです。
相互に祈り合うことが、交わりの基本です。
互いに祈り合う交わりが、また神への感謝を生み出していくのです。
祈りの交わりを 大切にしていきましょう。




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 3月7日
主題:  「古い信仰からの脱却」  
         
Uコリント1:8〜9  (三浦真信牧師)

<8節>
「兄弟たちよ」と呼びかける時は、特に大切なことをパウロが伝えたい時です。
「私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください」と、パウロはあえて自分が経験した苦しみをコリントの人たちに知ってほしい(「知らないでは いてほしくない」が原語)と強調しています。
それは、特に今苦しみの中にいるコリントの人たちにとって、パウロも大きな苦しみの中を通ってきたことを伝えることが励ましになると思ってのことでしょう。
また共に苦しみを分かち合って祈り合う関係になりたいと願ってもいたのでしょう。
パウロ自身は、常に苦しみに囲まれていました。
しかしその中で神の慰めを受け、救いの喜びが消えることはなかったので、主にある喜びや平安を失うことはなかったのです。
パウロが会った「アジヤでの苦しみ」が何であったのかは、具体的には記されていません。
諸説ありますが、恐らくエペソでの銀細工人デメテリオによる騒動のこと(使徒 19:23〜41)か、エペソ周辺での迫害の一つのことでしょう。
いずれにしても、その苦しみは、命にもかかわる耐え難いものでした。

<9節>
パウロは、この死にも直面するほどの苦しみの事態を、信仰の目をもって振り返っています。
この苦しみには、大きな神の目的があったのです。
それは、パウロが「自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む」信仰に切り替えられるためでした。
パウロは、アジヤでの苦しみに会う前もキリストを信じていましたし、迫害の中でも福音を伝えていました。
しかし、実際アジヤでの苦しみを通して振り返ってみたときに、「まだあの時まではどこかで自分自身を頼みとしていた、まだ神により頼む生き方になっていなかった、まだ神が死者をもよみがえらせる方だという信仰に立っていなかった」と思えたのでしょう。
実際パウロ自身は、もともと人間的にも自分自身に頼れるものをもっていました(ピリピ4:6〜9)。
しかし死を覚悟するほどの苦しみの中では、パウロがこれまで頼みとしてきたものは何一つ役に立たなかったのです。
何と小さな ものであるかを思い知ったことでしょう。
自分というものに破れ果てて、ダメになりきった時に、死んだも同然の自分を生かしてくださる復活の神の力を体験したのです。
全く無力なパウロを、死のどん底から引き上げ、助けてくださる神の全能の力を体験したのです。
それは恐らくパウロにとっても大きな信仰体験の一つだったことでしょう。
信仰には段階があります。
神様は、段階をおって私たちに信仰の訓練を与え、成長させてくださいます。
そして地上においては、どこまでも完成したと言える状態にはならないのです。
パウロは、「さらに復活のキリストの力を知りたいと追求している」(ピリピ3:10〜14)と言っています。
地上にあっては伝道者でありながら、最後まで求道者でもあったのです。
時を経て、いよいよ神により頼む信仰に切り替えられていったのです。
私たちは生涯かけて、古い自分により頼む信仰を脱ぎ捨て、また自分で信仰と思い込んでいる信仰もどきも脱ぎ捨て、キリストご自身により頼む信仰に切り替えられていくのです。
私たちが信じ、また祈る神は「死者をもよみがえらせてくださる」神なのです。
アブラハムが、愛する子イサクをささげるよう神から命じられた時に、「神は無から有を呼び 出される方」と信じ(ローマ4:17〜18)、仮にイサクが死んでも「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」と信じて(ヘブル11:17〜19)イサクをささげようと しました。
神にささげるとは、そのように信じて実際にささげていくことなのです。
神は私たちにも、苦しみを通して、いよいよ死者をもよみがえらせる全能の神に のみより頼む信仰を与えようとしてくださっているのです。
自分の古い肉に立った考え方、生き方から脱却して、さらに死者をもよみがえらせる神により頼む信仰に切り替えていただきましょう。
信仰も聖霊により与えられるものです。
自分の信念なら破れる時が来ます。
私たちの中からは、一点の信仰も出てこないのです。
この神を信じる信仰は、どこまでも上から与えられるものなのです。




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