(2010年4月)

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 ・ 4月4日
 







 4月25日
主題:「人のものを欲しがってはならない−十戒(9)−」 
                 出エジプト20:17 (三浦真信牧師)


自分に与えられているもので満足できず、他の人がもっているものを欲しがる心が問題とされています。
貪り(むさぼり)とも言いますが、この心が高じると姦淫したり盗んだり殺したりという具体的な罪の行為に発展していきます。
「隣人の家を欲しがってはならない」とありますように、遠くにいる人よりも身近にいる人の持ち物が気になるものです。
たとえ豊かに持っていたとしても、人は満足できずにもっと欲しいと求めてしまうものです。
人間の欲望にはキリがありません。
人のものを欲しがり、手に入らないと妬んだりひがんだりする貪りは厄介なもので、自分自身を苦しめ、周囲との人間関係を破壊し、ひいては社会をも混乱させていく曲者です。
今も所有物を巡って、世界中で争いが絶えません。
隣人の持ち物には、妻も入っています。
人の配偶者を欲しいと思うこともむさぼりなのです。
旧約聖書で、自分の部下の妻を奪うために、間接的にその夫を殺害したダビデ王のことが記録されています(Uサムエル11〜12章)。
イスラエルの王であり、あらゆるものを所有していたダビデも、むさぼりの心により与えられているもので満足できませんでした(預言者ナタンにその罪を指摘され深い悔い改めに導かれますが)。
豊かであってもさらに欲しいと思う心、隣人がもっていて自分にないものを妬む心は、どんな状況の人にも起こりうるのです。
人の配偶者、財産、地位や名誉を妬み欲しがる心は、みな偶像礼拝に結びつきます(コロサイ3:3)。
心が欲しいものにとらわれ、偶像のようになっていくのです。
ですから、決してむさぼりの心を温存していていることは幸せなことではありません。
それで偶像礼拝の罪として「殺してしまいなさい」とパウロは命じているのです。
しかしそう言われても、実際にはその思いは心に次々に出てくるのです。
パウロ自身も自分の内側から出てくるこのむさぼりに悩み呻いていたのです(ローマ7:7、15〜25)。
人のものを欲しがってはならない、貪ってはならないという神の戒めの前に、私たちはいかに人のものを欲しがり貪るものであるかを知らされるばかりです。
その貪りが偶像のようになって、神との交わりを希薄なものにし、人間関係をこじらせ、自分自身のうめきとなるのです。
この思いは、地上の肉体をもつ限り、たえず心の中から出てくるのです。
伝道者パウロをも悶々とさせ続けたのです。
しかしそれがあるからこそ、パウロはたえずキリストの十字架に向かわずにはいられませんでした。
自分の罪にうめきつつも、このむさぼるしかない私という存在に代わってキリストが十字架で死んでくださったことを思うと、感謝が湧き上がってくるのです。
キリストの内にある者は罪に定められない(ローマ 8:1)という恵みを、うめきつつも感謝するパウロは、ひたすらこのキリストご自身を伝え続けたのです。
さてパウロをもうめかせたこのむさぼりに対して、私たちはどうしていったらよいのでしょうか?完全には消えないまでも、それが偶像礼拝につながるものであるなら、少しでも解放されたいと願い求めることでしょう。
パウロは、まず満ち足りる心を身につけるようにと勧めています(Tテモテ6:6〜10)。
もともと何一つこの世に持たずに生まれ、また何一つ持って出ることはないのだから、地上にあっては衣食があれば満足すべきです。
しかしそれ以上にお金を 代表とする地上の持ち物を追い求めると、信仰から迷いだし、破滅の道を辿ると警告しています。
どんな境遇でも、満ち足りることを学んでいくことが大切です(ピリピ4:11)。
栄光の富をもって必要を満たしてくださる神が(ピリピ4:19)、「決して見放さないから今もっているもので満足しなさい」(ヘブル13:5)とおっしゃるのです。
主イエスは、「受ける生き方よりも与える生き方をする方が幸せです」(使徒20:35)とおっしゃいました。
自分が受けて豊かになっていくことだけを追い求める生き方は、決して幸せではないのです。
また旧約聖書で「むさぼる、欲しがる」というヘブル語言語は「ハーマド」ですが、同じことばが積極的意味として詩篇19:10の「好ましい」と訳されている言葉に用いられています。
「金や純金をむさぼるよりも、神のことばをむさぼるように慕い求めよう」というニュアンスがあります。
お金や持ち物を追い求めても、どこまでも満足できませんが、蜜よりも甘いみことばを慕い求めていくなら、心が満ち足りるのです。
そして何よりも神は私たちの心を満足させる最高のプレゼントとして、ひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです(ヨハネ3:16)。
完全にはむさぼりを止められない、また神の戒めを守りきることができない罪ある私たちに代わって十字架で死んでくださったキリストを、私たちに神は与えてくださったのです。
心の内からは悪いものしか出てこない自分に目を留めるなら、「ほんとうにみじめな人間です、だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょう」とパウロのように叫ぶしかない私のために、その身に私の罪をすべて背負って十字架で死なれたキリストを遣わしてくださったのです。
ひとり子をお与えになるほどに、神は私たちを愛してくださったのです。
そのことを知り続けていくことで、私たちの心は満たされていくのです。
このキリスト以外のものをいくら求めても、結局満足することはできないのです。
私たちのために、ご自身をささげてくださったキリストは、今もその栄光の富をもって私たちの必要を満たしてくださる方です。
そのようなすばらしいキリストが満ち満ちているのが、キリストのからだなる教会です(エペソ1:23)。
「人のものを欲しがってはならない、むさぼってはならない」という神の戒めの前に、いよいよむさぼる者であることを知らされ、罪ある存在であることを認め、その私に代わって十字架で死んで3日目によみがえられたキリストが与えられていることを喜び感謝していきましょう。
この世の何にも代えがたいすばらしい宝が、すでに与えられているのです。




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 4月18日
主題: 「約束を果たす神」 
          Uコリント1:15〜20 (三浦真信牧師)


<15節>
「この確信をもって」と、コリント教会でパウロに疑念を持つ人が若干いても、ある程度パウロの真意が理解されたことと確信して、パウロは2度コリントを訪問する計画を立てました。
2度コリントの人たちに会うことが、「恵み(喜び)を2度受けられる」とパウロは言います。
自分が行くことで、恵みをもたらすという前向きな考え方はどこからくるのでしょうか?それは、パウロの内におられるキリストがすばらしいから言えることでした。
パウロは自分がどこまでも弱くもろい土の器であることを認めていました(4:7)。
しかしキリストというすばらしい宝が内におられるのです。
決してパウロという人間がすばらしいのではなく、内におられるキリストがすばらしいので、キリストを内にもつパウロがキリストと共に、また福音を携えてコリント人のもとにいくから、彼らも恵みを受けることができるのです。
キリストという宝をもっていなければ、パウロも土の器であるだけで、何の良きものも分かち合うことができなかったことでしょう。
私たちも、神が遣わしてくださるときは、自分に引っ掛けてはいけないのです。
「こんな私が行っても何の役にも立たないだろう。
他の人が行ったほうが喜ばれるだろう」という思いが出てきても、キリストが内におられることを信じて出て行くのです。
自分の状態が最悪であっても、宝であるキリストは変わることがないので(ヘブル13:8)、大丈夫です。
むしろ土の器であることを忘れて、意気揚々と自分が何かできるような高ぶった思いで行くなら、かえって神様からペチャンコにされるでしょう。
自分がどのような者であっても、調子が悪い時であっても、内におられるキリストがすばらしいことは変わらないので、キリストの恵みを携えて遣わされた場所に出て行くのです。
内におられるキリストが、恵みをもたらしてくださるのであって、遣わされる私たちはどこまでも土の器に過ぎないのです。

<16節>
パウロが最初に立てていた計画は、滞在していたエペソからコリントを訪問し、それからマケドニヤ地方に宣教に行くことでした。
その後また引き返してコリントに戻り、そこからコリントの人々に見送られてユダヤに行こうとしていたのです。

<17節>
しかしこのパウロの計画は実現しませんでした。
パウロはエペソからトロアスまで行き、そこでコリント教会の様子を聞くためにテトスに会う予定でしたが、事情があって会うことができませんでした。そこでコリントには寄らずに、テトスに会うためにマケドニヤに行ったのです。
計画を変更したパウロに対して、「パウロは軽率で気まぐれだ」と批判する人たちがいたのでしょう。
確かにパウロは計画を変更しましたが、それには正当な理由があり、決して悪意があって変更したわけではありませんでした。
「しかり(はい)」と言いながら、「否(いいえ)」と言うような、裏表があったわけではありません。
純粋にコリント人たちに会って、恵みを分かち合いたいと願っていたのです。
人間的な計画、また策略があったわけでもありません。
ただ事前に計画を立てても、神の許しがなければ実現しないことは、すでに伝えていたことでした(Tコリント16:7)。
これまでの伝道旅行でも、当初計画していたことを御霊が禁じて、別の場所に導かれてすばらしい主のわざにあずかったことも幾たびもあったのです(使徒16:6〜10など)。
パウロとしては、最初の計画に固執せず、どこまでも御霊の導きに従いたいと思って計画を変更したのだって、最初から裏の計画をもっていたわけではありませんでした。
神の導きに従って、あえて計画を変更したことに対して、「パウロは軽率だ」と言われることは、心外だったのでしょう。

<18節>
それ以上に、「軽率なパウロが語る福音や助言も信じられない」と言われたとしたら、もっと不本意なことでした。
パウロ個人が批判されるだけならまだしも、パウロが語った福音まで軽んじられることは耐えられないことでした。
ですから、「神の真実にかけて」パウロたちが語った福音のことばは、真実であることを強調しているのです。
キリストの福音も、またパウロがコリントに宛てた手紙による様々な助言も、コリントの人たちをコントロールしようとか、悪意があるものではないこと、そのままストレートに受けて欲しいことをパウロは願っていたのです。

<19節>
シルワノ(シラス)とテモテは、パウロのコリント伝道を助けた人たちです(使徒18:5)。
この2人がマケドニヤからコリントに応援に来たことで、パウロはみことばを教えることに専念できるようになったのです。
この2人のことはコリントの人たちもよく知っていました。
パウロを含め、3人が宣べ伝えた神の子キリストは、「しかり」と「否」が同時にある方ではなく、「しかり」だけがある方なのです。
言葉では「はい」と言いながら、心では「いいえ」ということは、キリストの神には不可能なのです。
なぜなら神は存在が真実そのものだからです。
私たち人間は、存在が不真実そのものです。
積極的に嘘をつかなくても、真実をすべて語らなかったり、偽りの自分を人に見せていたりします。
どこまでも存在が不真実なのです。
でもキリストは真実100パーセントの方です。
ご自身を否んだり、偽ったりできない方なのです。
その真実な神が、私たちを強め守り(Uテサロニケ3:3)、その真実にかけて信じる者の罪を赦し悪からきよめてくださるのです(Tヨハネ1:9)。
この方には、「しかり」だけがあるのです。

<20節>
神の約束も、真実なキリストにおいて実現しました。神が遣わされたキリストを信じることで、罪から救うという約束を、神はキリストにおいて「しかり」としてくださったのです。
ですから、私たちはキリストの名によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
「アーメン」とは、「その通りです」という意味もありますが、同時に「神は真実です」という意味もあります。
真実な神が約束してくださったことは、必ず成るのです。
神のことばは、必ず実現するのです。そのことを信じて、「アーメン」と叫ぶ時に、それは神に栄光を帰することになるのです。
神が聖書を通して私たちに約束してくださったことは、ことごとく実現するのです。
まだ実際には見ていないことも、語られた神の真実を信じて「アーメン、神は真実です。
神の約束は必ず実現します」と叫びながら真実の神に栄光をささげましょう。





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 4月11日
主題: 「キリストの友として」 
           ヨハネ福21:15〜17 (田中殉伝道師)


よみがえられたイエス様は、ペテロに個別に声をかけられました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」

<アガペーの愛について>
ここで主イエスが言っておられるのは「アガペー」という言葉で表される愛です。アガペーとは、情愛や友愛、肉親の愛のように「?だから愛する」というものではなく、「?にも関わらず愛する」という無条件の愛です。それは、私たちが神を愛するというよりもまず、神さまが私たちを愛してくださったその愛でした(ヨハネ3:16)。アガペーの愛は無条件の愛、神の愛です。

ところが、主イエスはここで、ご自分に対するアガペーの愛をペテロに求めておられます。十字架にかかる前夜にアガペーについての「新しい戒め」を話しておられたことを考えると(13:34-35)、ここでイエス様が話されたのは「無条件にわたしを愛しなさい」としてペテロに忠誠心を問われたというよりも、「互いに愛し合う」という新しい生き方への招きであったと思われます。だからこそ、他の人にも心を配るようにと、「わたしの小羊を飼いなさい」と繰り返されます。キリストを愛するということと、互いに愛し合うということは表裏一体のことなのです(マタイ25:40)。キリストの愛を受けた者は、その愛をもって互いに愛し合う、それがイエス様の教えです(その愛は、本来私たちの内にはないものです。だからこそ、イエス様は「新しい戒め」に続けて、聖霊の約束をして くださいました。ヨハネの福音書14章から16章)。

<ペテロの心中は>
しかし、ペテロにとっては、イエス様への忠誠心が試されているようにしか聞こえ  なかったようです。「新しい戒め」については聞いていたはずですが、自分の身を守るために三度も主を知らないと言ってしまったこと(18:15-27)に対する後悔と自責の念で心がいっぱいになっていたからでしょう。そこにあった炭火(21:9)を見て、その時のことを思い出していたと思われます(18:18)。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と、回りくどい答え方をしてしまいます。

もう一つペテロの言葉の回りくどさということでは、イエス様はアガペーの愛をあらわす「アガパオー」という言葉で問いかけられたのに対して、ペテロは友愛(フィリア)を あらわす「フィレオー」で答えています。続けて見ていくと、16節での二回目の問いも、イエス様はアガパオーで問いかけられ、ペテロはフィレオーで答えています。イエス様の問いかけで責められているように感じてしまったのですから、ある意味当然の  答え方だったかもしれません。私はあなたを無条件で愛することなど出来ませんでした。とても「アガパオー」では答えることが出来ません。しかし、せめて、あなたの友でありたい。ペテロの心中はそのようなものだったと思われます。

<イエス様の招き>
しかし、主はペテロを責めておられるのではなく、弟子としての忠誠心を試すような、意地悪な質問をされたのでもありません。イエスの新しい戒めを踏まえてのこの「アガパオー」は、イエス様への忠誠心にとどまらず、私たちが互いに愛し合うということなのです。無条件に、互いに愛し合うこと。それがイエス様の言われた「アガペー」です。「わたしの小羊/羊を、飼いなさい/牧しなさい」と言われるように、分け隔てなく、  みなを愛するように、互いに愛し合うようにと言われているのです。「私はあなたを愛します」と大声で告白出来ないそんな時にでも、主は繰り返し繰り返し、その御言葉を もって、「互いに愛し合う」新しい生き方へと、私たちを導いてくださいます。

<ペテロをあきらめないイエス様>
さて、17節に至って、イエス様の問いかけの調子が変わります。それまでは「アガパオー」で問いかけていたのに、ペテロへの問いかけが「フィレオー」に変わっています。とは言え、イエス様は、ペテロに対して「新しい教えとしてのアガペーの愛」を求める ことをあきらめたわけではありません。17節の最後でも、同じように「わたしの羊を飼い なさい」と、互いに愛し合うことを励ましておられますし、特に19節ではペテロを「神の栄光をあらわす器」として見ておられることが分かります。

まず、主はペテロに三回問いかけられました。それは、ペテロのあの失敗の回数です。イエスなど知らない、と三度も言ってしまったあの出来事にイエス様は寄り添ってくださるのでした。主はペテロが何回否定したかご存知でした(ルカ22:61、ヨハネ13:38)。主はペテロの弱さも失敗もご存知で、何回でもその失敗に付き合ってくださるのです。
そしてまた、イエス様はあえて「フィレオー」で問いかけられました。三回の否認に合わせて三回問いかけられた、その最後の締めの質問だったことを考えると、この言葉こそが、悔い改めと回復のプロセスのまとめであったことが分かります。イエス様は、 罪ゆえの弱さに落ち込む私たちを励まし、新しい教えに生きるようにと一貫して私たちを導いておられて、その意味では依然として「アガペー」を求めておられるのですが、そのまとめとして「フィレオー」、「さあ、わたしの友として生きなさい」と招いておられるのです。キリストの友として生きる、そのことが、私たち一人一人にとって、回復のプロセスのまとめなのです。

<ペテロの呻き、私たちの呻き>
「キリストの友として生きる」ことなど、ペテロだって初めから願っていたことです。だからこそ、今まで三回問いかけられて、ずっと「フィレオー」で答えて来たのです。17節に改めて「心を痛めて」と書いてあるのは、三回なら三回失敗に付き合ってくださったイエス様の愛に気づかず、主からの問いかけを責められているようにしか受け取れず、主が「わたしの友でありなさい」と言ってくださったのに、なお、心を痛めているペテロの呻きであると思われます。

私たちも、日々、イエス様を裏切ってしまう存在です。そして、そのことを悔やみます。主の方では、私たちを癒すための段階を経てくださっているのですが、そのことに気づかないでいることも多い。私たちは、自分の弱さのゆえに主イエスに従えないことにずっと心を痛めて来て、その間の主のお取り扱いにも気づくことなく、相変わらず呻いているということがないでしょうか。キリストの友としておれないことに心を痛め、こんな自分ではクリスチャンと言えるのだろうかと呻く時、獣のような心でわめく時があります。しかし主が、私たちと共にいてくださるのです(詩篇73:21-23a)。

私たちが、キリストの友たり得ないと落ち込む時、私たちがキリストの友でありたいと願う時、まだ見ていない、キリストの友としての自分を望む時、聖霊が私たちとともに呻いてくださいます(ローマ8:25-26)。今年の御言葉は、主が新しいことをしてくださるという、そのことを待ち望む御言葉です(イザヤ43:19)。まだ見ていないものを待ち望む、それが信仰だと励まされているわけですが、私たちはキリストの友としての自分を待ち望みたいと思います。そんな教会になることを待ち望みたいと思います。

<キリストの友としての召し>
「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です」と、ペテロは心を痛めて言いました (17節)。主は私たちの弱さを全てご存知です。どんな時にキリスト抜きで物事を考えてしまうか。どんな時にキリストを否定して自らの身を守ろうとするか。それと同時に、 主は、心の奥底で、私はあなたの友でいたい、私はクリスチャンでありたいと願うその呻きをも知っておられます。主は私たちを見放さず、私たちをキリストの友として召していてくださいます(申命記31:8)。

私たち一人一人には、キリストの友として生きる召しが与えられているのです。それは、「互いに愛し合う」という生き方です。キリストの友として、その新しい教え、互いに愛し合うアガペーの愛に生かされる者でありたいと願います。それこそが、私たちに 与えられた召しなのです。主は必ず、私たちをキリストの友として成長させてくださいます。そのことを信じ、待ち望みつつ、主があらわしてくださるその新しいことに、期待 していきましょう(Tテサロニケ5:23-24)。



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 4月4日
主題: 「信じていのちを得るため」  
         ヨハネ福音書20:24〜31 (三浦真信牧師)


<24〜25節>
イエスが弟子たちに復活の姿を現した時に、トマスだけはその場にいませんでした。
「私たちは主を見た」という他の弟子たちの証言を聞き、十字架の釘跡に指を差し入れてみなければ決して信じないとトマスは言いました。
イエスの弟子のトマスでさえ、イエスから事前にこのようなことが起きると予告されていたにもかかわらず、疑ったのです。

<26節>
しかしそのようなトマスがいる場所にも、復活のキリストは現れてくださいました。
前の週と同じように、ユダヤ人たちがイエスに続いて自分たちをも捕らえにくるかもしれないと、弟子たちは恐れて戸を閉めていました。
そこに主イエスは来て、「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいます。
不安と恐れを抱いて引きこもってしまう時にも、主は同じように語りかけて平安と力を与えて、立ち上がらせてくださるのです。

<27節>
疑いと疎外感をもっていたトマスに、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われます。
それは、信じることを励ますことばでもあります。
嵐の中で恐れ惑う弟子たちにイエスがおっしゃったことばを思い出したかもしれません(マルコ4:40)。
イエスはこのようにしてまで、トマスが復活の事実を信じられるようにしてくださったのです。
信仰は、主から与えられるものです。あらゆる出来事を通して、主は信じる者となるように私たちを訓練してくださるのです。

<28節>
トマスは、指をイエスの手や脇に入れなくても「私の主。私の神」と告白しています。それが主イエスであること、そして同時に死から確かによみがえった神であることを確信したのです。
<29節>
確かにトマスは、イエスを見たことで信じたのですが、だから信仰失格とはおっしゃらずに、「見ずに信じる」ことの大切さを、他の弟子たちも含め語っておられるのです。
最初に主を信じるために神の大きな奇跡を体験することがありますが、その後結果を見ないでも、主を信じて待ち望む信仰を主は徐々に与えてくださいます。
信仰とは、正に「見ずに信じる」ことなのです。まだ実現していないこと、目で見ていないことを、神を信じてすでに得たものとして望んでいくのが信仰です(ヘブル11:1)

<30〜31節>
福音書には書かれていませんが、まだ多くの奇跡をイエスは地上で行いました。 
しかしイエスを信じるためには、聖書に記録されているだけで十分なのです。
「イエスが神の子である」ことを私たちが信じるために、イエスは様々な奇跡を行い、そして死からもよみがえられました。
それはこの方が罪のない神の子であり、罪の結果である死に完全に勝利してくださったことを信じて、永遠のいのちを得るためなのです。
ご自身の力を誇示するためではなく、信じる者たちを罪の滅びから救い出して、天における復活のからだを与えるためなのです。
聖書を通して、神の子キリストの力を知ります。
そして知った通りのことを信じて歩む時に、その事実を今も体験することができるのです。
死からよみがえられた方は、今も生きてキリストを信じる者たちと共にいてくださいます。
24時間片時も離れることなく、内側から支えてくださっているのです。
信じる者に与えられる罪の赦し、神との和解、そして地上での肉体が死んでも、天において新しい復活のからだが用意されているという聖書の中心メッセージが、いよいよ確かなものであることを知り、さらに希望をもって生きられるように聖霊がしてくださるのです。




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