主題:「人のものを欲しがってはならない−十戒(9)−」
出エジプト20:17 (三浦真信牧師)
自分に与えられているもので満足できず、他の人がもっているものを欲しがる心が問題とされています。
貪り(むさぼり)とも言いますが、この心が高じると姦淫したり盗んだり殺したりという具体的な罪の行為に発展していきます。
「隣人の家を欲しがってはならない」とありますように、遠くにいる人よりも身近にいる人の持ち物が気になるものです。
たとえ豊かに持っていたとしても、人は満足できずにもっと欲しいと求めてしまうものです。
人間の欲望にはキリがありません。
人のものを欲しがり、手に入らないと妬んだりひがんだりする貪りは厄介なもので、自分自身を苦しめ、周囲との人間関係を破壊し、ひいては社会をも混乱させていく曲者です。
今も所有物を巡って、世界中で争いが絶えません。
隣人の持ち物には、妻も入っています。
人の配偶者を欲しいと思うこともむさぼりなのです。
旧約聖書で、自分の部下の妻を奪うために、間接的にその夫を殺害したダビデ王のことが記録されています(Uサムエル11〜12章)。
イスラエルの王であり、あらゆるものを所有していたダビデも、むさぼりの心により与えられているもので満足できませんでした(預言者ナタンにその罪を指摘され深い悔い改めに導かれますが)。
豊かであってもさらに欲しいと思う心、隣人がもっていて自分にないものを妬む心は、どんな状況の人にも起こりうるのです。
人の配偶者、財産、地位や名誉を妬み欲しがる心は、みな偶像礼拝に結びつきます(コロサイ3:3)。
心が欲しいものにとらわれ、偶像のようになっていくのです。
ですから、決してむさぼりの心を温存していていることは幸せなことではありません。
それで偶像礼拝の罪として「殺してしまいなさい」とパウロは命じているのです。
しかしそう言われても、実際にはその思いは心に次々に出てくるのです。
パウロ自身も自分の内側から出てくるこのむさぼりに悩み呻いていたのです(ローマ7:7、15〜25)。
人のものを欲しがってはならない、貪ってはならないという神の戒めの前に、私たちはいかに人のものを欲しがり貪るものであるかを知らされるばかりです。
その貪りが偶像のようになって、神との交わりを希薄なものにし、人間関係をこじらせ、自分自身のうめきとなるのです。
この思いは、地上の肉体をもつ限り、たえず心の中から出てくるのです。
伝道者パウロをも悶々とさせ続けたのです。
しかしそれがあるからこそ、パウロはたえずキリストの十字架に向かわずにはいられませんでした。
自分の罪にうめきつつも、このむさぼるしかない私という存在に代わってキリストが十字架で死んでくださったことを思うと、感謝が湧き上がってくるのです。
キリストの内にある者は罪に定められない(ローマ 8:1)という恵みを、うめきつつも感謝するパウロは、ひたすらこのキリストご自身を伝え続けたのです。
さてパウロをもうめかせたこのむさぼりに対して、私たちはどうしていったらよいのでしょうか?完全には消えないまでも、それが偶像礼拝につながるものであるなら、少しでも解放されたいと願い求めることでしょう。
パウロは、まず満ち足りる心を身につけるようにと勧めています(Tテモテ6:6〜10)。
もともと何一つこの世に持たずに生まれ、また何一つ持って出ることはないのだから、地上にあっては衣食があれば満足すべきです。
しかしそれ以上にお金を 代表とする地上の持ち物を追い求めると、信仰から迷いだし、破滅の道を辿ると警告しています。
どんな境遇でも、満ち足りることを学んでいくことが大切です(ピリピ4:11)。
栄光の富をもって必要を満たしてくださる神が(ピリピ4:19)、「決して見放さないから今もっているもので満足しなさい」(ヘブル13:5)とおっしゃるのです。
主イエスは、「受ける生き方よりも与える生き方をする方が幸せです」(使徒20:35)とおっしゃいました。
自分が受けて豊かになっていくことだけを追い求める生き方は、決して幸せではないのです。
また旧約聖書で「むさぼる、欲しがる」というヘブル語言語は「ハーマド」ですが、同じことばが積極的意味として詩篇19:10の「好ましい」と訳されている言葉に用いられています。
「金や純金をむさぼるよりも、神のことばをむさぼるように慕い求めよう」というニュアンスがあります。
お金や持ち物を追い求めても、どこまでも満足できませんが、蜜よりも甘いみことばを慕い求めていくなら、心が満ち足りるのです。
そして何よりも神は私たちの心を満足させる最高のプレゼントとして、ひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです(ヨハネ3:16)。
完全にはむさぼりを止められない、また神の戒めを守りきることができない罪ある私たちに代わって十字架で死んでくださったキリストを、私たちに神は与えてくださったのです。
心の内からは悪いものしか出てこない自分に目を留めるなら、「ほんとうにみじめな人間です、だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょう」とパウロのように叫ぶしかない私のために、その身に私の罪をすべて背負って十字架で死なれたキリストを遣わしてくださったのです。
ひとり子をお与えになるほどに、神は私たちを愛してくださったのです。
そのことを知り続けていくことで、私たちの心は満たされていくのです。
このキリスト以外のものをいくら求めても、結局満足することはできないのです。
私たちのために、ご自身をささげてくださったキリストは、今もその栄光の富をもって私たちの必要を満たしてくださる方です。
そのようなすばらしいキリストが満ち満ちているのが、キリストのからだなる教会です(エペソ1:23)。
「人のものを欲しがってはならない、むさぼってはならない」という神の戒めの前に、いよいよむさぼる者であることを知らされ、罪ある存在であることを認め、その私に代わって十字架で死んで3日目によみがえられたキリストが与えられていることを喜び感謝していきましょう。
この世の何にも代えがたいすばらしい宝が、すでに与えられているのです。
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