主題:「招かれた祝宴」
ルカ14:12〜24 (三浦真信牧師)
<12〜14節>
キリストは、パリサイ派指導者の家の食事に招かれた時に(1節)、天国の祝宴について話しました。
ここでパリサイ人たちが、お返しを求めて人を招こうとしている傾向を知り、むしろ見返りを求めないことの幸いについて語られます。
私たちが受けられるすばらしい報いは、義人の復活(パリサイ人たちが好んで使った表現)の時に受けるのです。
天国において、かけがえのない永遠のいのちと朽ちることのない天の財産を受け継ぐのだから、見返りを求めず、お返しのできない貧しい者たち、また社会で弱い立場にある人たちをあえて祝宴に招きなさいとおっしゃいました。
当時の宗教的社会的指導者であるパリサイ人たちは、むしろそのような人たちを軽蔑し無視していました。
それだけに、このイエスの教えは受け入れがたいものであったでしょう。
神ご自身も、天国に招くのに人に見返りを求めておられません。
何のお返しもできない者をも、神は喜んで天国の祝宴に招いてくださるのです。
<15〜24節>
恐らくパリサイ人であった客の一人は、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言いました。
パリサイ人たちは、自分たちこそ神の国に入るのにふさわしい生き方をしていると自負していました。
自分たちのように立派に正しい生き方をしている者こそ、神の国で食事をする幸せな者であると思っていたのです。
イエス様は彼のことばを受けて、一つのたとえ話をします。
当時の中東世界では、祝宴に人を招くのに2度招待する習慣がありました。
事前に招待し、当日に2度目の招待をします。
2度目の招待を受けてはじめて正式な招待を受けたことになり、また2度目の招待を断るのは、よほどの理由がない限り失礼なこととされていました。
イエス様が話された家の主人は、しもべを通してこの2度目の招待をします(17節)。
しかし恐らく1度目に出席すると言っていた人たちが、次々にキャンセルしました。
その理由として、三つ挙げられています。
@ 買った畑を見に行くため(18節)
A 買った牛をためしにいくため(19節)
B 結婚したため(20節)
どれも正式な祝宴をキャンセルするほどの理由ではありませんでした。
2度目の正式な招待を断ること自体が無礼であった上に、その理由もいい加減だったため、主人は怒って「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者やからだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい」(21節)としもべに言います。
しもべは言われた通りにしますが、なお宴席は空いていました(22節)。
そこで主人は、「この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」(23節)としもべに命じます。
ここは天国の祝宴への招待について、イエス様がたとえで話しているところです。
神の国には、このようにすべての人が招かれています。
人々からは見下されているような人たち、社会的に弱い立場にある者も招かれているのです。
正に聖書は、神からの天国への招待状のようなものです。
この招きを受け入れる者は、みな天国の祝宴に与ることができるのです。
主人の正式な招待を断らない限りは、受けられるのです。
でも多くの人たちは、18〜20節にあるような、財産、仕事、家庭を優先させて、何よりも大事な神からの招きをキャンセルしてしまうのです。すべての人が招かれているのに、一時的なことにしがみついて、永遠に関する大切な招きを自ら断ってしまうのです。
マタイ7:13〜14で、イエス様は天国の門を「狭い門」とおっしゃいました。
普通は「狭き門」とは、レベルが高く難しい時に使われます。天国にはすべての人が招かれているにもかかわらず、なぜ「狭き門」なのでしょうか?それは、あまりにも簡単に入れるので、人々があまり価値を見出さないからです。
本来は「広き門」なのですが、人は簡単に入れるところに魅力を感じないのです。
招きを受け入れてキャンセルしなければ、誰でも入れるのが神の国です。
ただ主イエスを信じるだけで与えられる救いです(使徒16:31)。聖い神の前では、すべての人が罪ある存在です(ローマ3:10)。
造り主である神を無視して、自分勝手な道を生きることが罪の根源です。
でもその罪をも神は忍耐をもって見逃して来られました(ローマ3:25〜26)。
そして神の子キリストが、罪のなだめの供え物として、十字架で死なれたのです。
この「キリストを信じる者」を義と認めて救い、神は天国を与えてくださるのです。
パリサイ人たちの多くは、自分たちは正しく立派な生き方をしているから、天国の祝宴に与かれると自負していました。
自らの力で天国に入れるという自信をもち、キリストの招きを断ってしまうのです。
しかしパリサイ人たちが軽蔑している社会的弱者、マイノリティー(少数派)の人たちの中には、自分の弱さや罪悪感で苦しむ者たちが多くいました。
彼らの多くは、キリストの招きを低い心で心から感謝して受けていくことができたのです。
神は私たちに何の見返りもお返しも求めておられません。
ただ一方的に愛するゆえに、ただでこの救いを与えたいと願っておられます。
すべての人に、天国への招待状を出しておられます。
「天国に招かれるには全くふさわしくない者ですけれど、喜んでお招きを受け取ります」と言って、その神の恵みを受けていけばよいのです
(ローマ 3:24)。
差し出された天の祝宴の招待を、受け取ってキャンセルしないこと、ただそれだけなのです。
|