(2010年6月)

 ・ 6月27日
 ・ 6月20日
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 ・ 6月6日
 









 6月27日
主題: 「 知恵を求めて祈る 」    
             箴言30:1〜9  (田中殉伝道師)

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(9:10)とあるように、「箴言」は、神を神として正しく捉え認識することが知恵の始まりなのだと語ります。30章はアグルという人物の言葉ですが(30:1)、彼の知恵の言葉も神への恐れに立脚しています。

<2節>
アグルは、自分は人間の中でも最も愚かな者だと告白します。強い否定語で「自分には悟りがない」と言っていますが、ただ自らを低く表現したのではなく、自分には  物事を見分ける力がないということを認めた表現です。「悟り」という言葉は「見分ける」、「間」という意味とも関連しています。

<3節>
「聖」という言葉は、宗教的な感じといったような程度のことではなく、恐ろしいまでに全く別のものということです。私たちとは全く別の存在、それが聖書の言う「聖」であり、「聖なる方」とはこの世界を造られた神様に他なりません。神様は創造主であり、私たちはみな被造物です。神様は私たちとは全く違うお方なのです。

<4節>
神様が創造されたものが四つ並べられ、創造主なる神が「聖なる方」であることを示します。「天」とは神がおられる場所、復活して召天されたイエス様が、父なる神の右の座について世界をすべ治めておられる場所です(ヘブル1:3、Tペテロ3:22等)。神は天と地を創造し、大空を天と名付けられました(創世記1:1,8)。イエス様は、弟子たちの見ている前で空に向けて天に上って行かれ(使徒1:9-11)、そこには、神への信仰をもって先に眠った人々がキリストと共にいるのです(Tテサロニケ4:14)。しかし、いくら上空高く上ってみても、私たちには天は見えません。神様が造られた世界のうちで、見ることができず、近寄る事が出来ない。天とはそういう場所です。

「風」も、天と同様に目で見ることが出来ないものです。風によって木々がなびくのを見たり、時には吹き飛ばされそうになることによって風の強さを知りますが、風そのものを見ることは出来ません。ましてや、その風をたなごころ(手のひら)に収めることなど、誰にも出来ません。ところで、イエス様は聖霊なる神様の働きを風にたとえられました(ヨハネ3:8)。聖霊の働きを押し込めたり、委ねずに無視して自分でそれをなそうとすることがないか、風のたとえを機に確認したいものです。

また、神様はノアの洪水の話に明らかなように、「水」で山々をおおってしまうお方です(創世記7:20)。そして「地」のすべての限界(果て)を定めたお方なのです(1:9- 10、ヨブ38:4)。人知を遥か超えて、この世界を治めておられる方、自然を支配しておられる方がいらっしゃるということを、アグルはわきまえていました。「その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」疑問文の形にも訳せるようですが、この方の名を知らされている私たちにとっては、「確かに」知っているという確信となります。この天地を造られたのは、「わたしはある」という不思議な名前の主なる神(出エジプト3:14)。その御子はキリストです。

<5、6節>
アグルのことばは続きます。「神のことばは、すべて純粋」で混じりけがなく、神の愛以外のものは詰まっていません。神に信頼し「拠り頼む者の盾」となって私たちを守るものです。しかし、私たちは自分の利益の為に神のことばを変えてしまったエバや、それを無視したアダムのように(創世記3:2-6)、「神のことばに混ぜ物をして売る」(Uコリ2:17)ことをしてしまう存在です。「神が、あなたを責めないように」とありますが、イエス・キリストの十字架による赦しを信じている者は、神のことばにつけたしをしてしまうような者であっても、そのままで義と認められています(ガラテヤ2:16等)。この驚くべき福音、神の愛はいくら強調しても足りません。しかし、親が愛する子どもを叱ったり諭したりするように、神様は、私たちが神の子として歩んでいく上で必要な教え、諭し、時には叱責を与えられます。神のことばにつけ足しをしたり無視をするとき、聖霊はそれを見逃されず、必ずそれを示して下さいます。罪を示されたなら、その場で悔い改めるべきです。聖なるお方、この天地を造られたお方が、その一人子を十字架につけたほどに私たちを愛して下さっているのです。そのことへの恐れにも似た感謝の心を忘れてはなりません。

<7節>
ここまでの言葉に明らかなように、アグルは主なる神を恐れる人でした。知恵とは生活の中で問われるものですが、7節以降はアグルが求めて祈る知恵のあり方について書かれています。

「死なないうちに、それをかなえてください」というのは、自分が死ぬ前に自分の生き方を変えてくださいという切実な祈りです。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」とあるように(ローマ12:2、原語では受身で「変えられなさい」)、アグルは「私の生き方を変えてください」と、心を一新させて祈っていたのでした。神を恐れるがゆえに、聖なる方を
(裏面に続く)
恐れるがゆえに、彼は自分の生活、自分の生き方について知恵を求めて祈ったのです。

<8節>
アグルの祈りの一つ目は、「不信実と偽りとを私から遠ざけてください」ということです。「信実」とは、客観的な事実としての真実というよりも、人格的なものを指した言葉です。原語にはむなしさという意味も含まれます。例えば十戒の第三戒に「主の御名を、  みだりに唱えてはならない」とは、神の名前にあらわされる神のご性質をむなしくあしらってはならないということです(出エジプト20:7)。ここでも神さまと私たちとの人格的な関係が問題とされています。また「不信実と偽り」というセットの表現は、エゼキエル書13:6-8等の偽預言者への警告にも出てきます(むなしさとまやかし)。アグルの祈りはただ単に道徳的な祈りではなく、自分が偽預言者とならないようにという深刻な祈りなのでした。

アグルが祈る「偽り」とは正確に訳せば「偽りの言葉」となります。神のことばを神のことばとせず、または自分の言葉を神のことばとしたり、神のことばにつけたしをすることです(6節)。ヘブル語で「言葉」をあらわす「ダーバール」には、「出来事」という意味もあります。私たちが口にする言葉だけでなく、行いもまた問題とされています。私たちはみなが、キリストにあって預言者(神の御言葉を預かって分かち合うこと)の役割をいただいているのですから、私たち一人一人にとっても重要な祈りです。

彼が祈る二つ目のこと、それは「貧しさでも富でもなく、ただ、自分に定められた分のもので私を養ってください」というものでした。神様に与えられたものを管理していくことは、謙遜さと深く関係しています。謙遜さとは自己卑下をすることではなく、神様が与えて下さった賜物を理解し、把握し、それにふさわしく用いていくことです。例えばイエス様は、父なる神様のご計画をわきまえ、自分が何をなすべきか理解してその通りに従われました(マルコ14:36、ピリピ2:8)。神様が与えて下さったご計画に対して、それ以上でもそれ以下でもなく従うこと、それが謙遜です。

神様から与えられたものを賜物と言い、それは本来、得意不得意という能力の話ではありません。私たちが置かれている状態や立場は神様からの賜物なのです。神様はそれぞれにちょうど良く賜物を与えて下さっており、それを用いて神の栄光を表すことを期待しておられます。また、教会にとっては一人一人の存在が賜物です(エペソ4:16)。神様がこの教会に与えてくださった大切な一人一人です。その一人一人には、「力量にふさわしく働く力」が与えられています。箴言の言葉で言えば「定められた分の食物」があるということです。アダムとエバ以来、私たちは賜物としての自分自身を愛せずに隠してきましたが(創世記3:8)、誰かと自分を比較して、自分には賜物がないなどと言う必要はありません。できる、できないではなくて、まずあなたの存在がこの教会にとって賜物なのです。そして私たちには、定められた分のちょうど良い立ち位置があります。頑張って貧しさを我慢したり、もっともっとと富を求める必要はありません。

<9節>
富んで食べ飽きると、神様を否んでしまいます。出エジプトをして約束の地カナンに到着したイスラエルの民は、そこで食べて満ち足り、まことの神を捨てて偶像礼拝に走りました(申命記31:20、士師記2:11,12)。「定められた分」以上の豊かさは、神を否定させ、私たちに「主とは誰だ、私に何の関係があるか」と言わせるのです。反対に、貧しくて必要な分がないと盗みをしてしまうのだとも言います。神様の側では私たちに本当に様々な賜物を下さっているのですが(Tペテロ4:10)、私たちの側でそうと思わず、自分には賜物がないとするなら、盗みをしてしまうでしょう。しかし、すでに与えられている賜物の豊かさにこそ、目を留めようではありませんか。それは私たちが自分自身でいられる分の、ちょうど良い賜物なのです。

このような知恵を求めることが出来たのは、アグルが天地の造り主である聖なる方を恐れ、盾になってくださるという神様を信頼していたからです。彼はその中で、自分には知恵がないこと、悟りがないことを自覚していました。御言葉につけ足しをしてしまう自分を発見したでしょう。自分の不信実さに気づき、与えられている賜物に満足できない自分を知ったのです。ソロモン曰く、それが知恵の始まりです。聖霊なる神は、徐々に徐々にでも、確実に神様は私たちを造りかえてくださいます。アグルのように知恵を求めて、「私が死なないうちに、それをかなえてください」と、「心の一新によって自分を変えて」いただこうではありませんか。



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 6月20日
主題: 「キリストのかおり」  
            Uコリント2:12〜17 (三浦真信牧師)


<12〜13節>
パウロは、エペソからコリントへ行き、そしてマケドニヤに行く予定でしたが(1:16)、コリント教会への訪問を見合わせることにしたため、トロアスに向かいます。
それはキリストの福音を伝えるためでもありました。
そして事実主は福音を伝えるための門を開いてくださったのです。
しかしそこで会えることを期待していたテトスには会うことができませんでした。
ここは原文では「私の兄弟テトス」となっています。
テトスは、コリント教会の兄弟姉妹に深い愛をもって接し、よく面倒を見た人でした(7:14〜15、8:16)。
のちにテトスはクレテ島へ行って伝道しますが、パウロは彼に「真実のわが子テトス」(テトス1:4)とまで呼んでいます。
そのように信頼していたテトスに、パウロはコリント教会への重要な手紙(後に「涙の手紙」と呼ばれる)を託していたのです。
パウロは、その手紙をコリント教会の人たちが読んだ後に、どのようであったかが気になっていました。
すぐにもテトスに会って、その後のコリント教会の様子を聞きたかったのです。
しかし実際にはなかなか会うことができず、パウロの心には安らぎがありませんでした。
そこでトロアスにはあまり長期滞在せず、そこからマケドニヤに向かいます。
それほどに、コリント教会が、福音とは異なった教えを伝える人たちに食い尽くされてしまうことを心配していたのです。
マケドニヤに着いても、テトスに会って話しを聞くまでは、安らぎがなかったとパウロは告白しています(7:5〜6)。

<14節>
しかしマケドニヤについて少ししてから、ようやくテトスに再会することができました。
しかも、テトスが届けたパウロの手紙を読んだ後に、コリント教会に悔い改めが起きたことや、神のみこころを熱心に求める思いが起きたことをテトスから聞くことができたのです。
パウロの不安は、「しかし、神に感謝します!」と、一気に感謝へと変えられたのです。
そしてパウロは、ローマでよく目にした戦いの後に行われた勝利の凱旋パレードを思い起こして、自分たちのことを例えています。
その行列の先頭に将軍が進み、敵の戦利品や鎖につながれた捕虜たちがそのうしろに続きます。
パウロは、まず自分たち(使徒たち)をその捕虜たちに例えているのです。
クリスチャンは皆そうですが、キリストに捕らえられ、キリストに引き連れられていく、ある意味でキリストの捕虜です。
でもそれは屈辱ではなく、感謝であり光栄なことなのです。
ローマ軍の凱旋パレードに引き連れられている捕虜の存在が、その勝利のすばらしさをローマの群集に現すように、使徒たち、またクリスチャンは、キリストの恵みによる勝利を現す捕虜として、キリストのすばらしさ、キリストの勝利を、人々に現す存在なのです。
キリストの捕虜となって初めて、私たちはキリストのすばらしさを現すことができるのです。
そしてローマの凱旋パレードの例えがもう一つ記されています。
パレードの時には、道の所々に香がたかれ良い香りが立ち上っていきました。
同じように、神は自分たちを通して、「至る所でキリストを知る知識のかおりを放ってくださいます」というのです。
キリストを体験的に知ることが、福音の中心です。
キリストに出会い、キリストの生きた力を体験した者たちを通して、神はキリストのかおりを放ってくださるのです。
自分では、罪の悪臭しか放たないように思えても、キリストを日々体験している人を通して、神が勝利のパレードでたかれた香のように、キリストのよい香りを放ってくださるとおっしゃるのです。

<15〜16節>
しかし使徒たち、またクリスチャンたちが放つキリストのかおりは、救いと同時に滅びを宣告するかおりでもあるのです。
パウロがキリストを伝える時に、キリストを受け入れていのちを得る者と、どこまでも拒否して死にいたる者とが出てきます。
もちろん、誰も語らなければすべての人が滅びに至ってしまいますが、キリストのかおりはいのちと死の両方があることを伝えることになるのです。
そういう意味では、使徒たちはとても重い務めに召されているのです。
パウロの使徒職を疑う人たちの中には、使徒であることが特別な権威があって良い思いをするかのように勘違いしている人たちもいたのでしょう。いのちと死に関わり、永遠の魂の問題に関わる務めは、とても重たいものです。
ですから、主から召されて迫られてでなければ、使徒(あるいは伝道者)にはなれないし、また続けることもできないのです。
「このような務めにふさわしい者はいったいだれでしょう」というパウロの問いの答えは、「この務めにふさわしいのは、ただ神が召された人だけです」となるでしょう。
人間的なふさわしさでは、永遠の魂に関わる重たい荷は負えないのです。
かつてキリストを迫害していたパウロは、神をけがし暴力をふるう者でした(Tテモテ1:13)。
しかしそんな人間的には全くふさわしくないパウロを、神のあわれみと寛容の大きさを示すために、あえて神ご自身が選ばれたのです(Tテモテ1:16)。
だから、神が選ばれたゆえにパウロは使徒としてふさわしいのであって、それ以外にふさわしい理由はないのです。

(裏面に続く)
<17節>
神のことばに混ぜ物をして売り歩く人たちが多くいました。
恐らくパウロがコリントを去った後に入り込んできた、福音ととても似ながら福音とは全く異なる教えを持ち込んだ人たちのことでしょう。
彼らがパウロのあらゆることを批判し、人々がパウロの使徒職に疑いをもつように仕向けたようです。
彼らは、神のことばに自分たちの肉の思いを混ぜて売り歩きました(「売る」の原語は「行商する、小売する」の意味です)。
自分たちが名声を得ること、人々の心が自分たちの教えに向くように人々の心を奪うこと、ひいてはそれによって何らかの利益を自分たちが得ることだけが彼らの関心事でした。
しかしパウロはじめ使徒たちは、そのような神のことばに混ぜ物をして行商するようなことはせず、「真心から」純粋に神のことばを伝え、1人でもこのすばらしい救いを受け取ってほしいと願っているのです。
また「神によって」、どこまでも神から召されてしているのだから、神のみ心を求め、神に頼りながら、「神の御前でキリストにあって語る」のです。
神が私たちの心や動機をもご存知で、その神が自分たちの語ることも聞いておられることをしっかり受け留めつつ、その心にやましい肉の思いを混ぜて語っていないことを神の御前にたえず吟味しながら、語っているのです。

キリストに捕らえられ、キリストの捕虜であることを喜び、キリストの勝利の行列に加えられた者たちは、同時にキリストのかおりを放つものとして神は世に遣わしてくださっています。
自分ではとてもそんなことはないと思えても、神がそのような存在にしてくださっているのです。
人間的にはふさわしくなくても、弱さや足りなさがあっても、神はかえってそのような者たちを通して、キリストのかおりを放ってくださるのです。
そしてそのキリストのかおりは、いのちの道と滅びの道があることを世に示すものです。
いよいよ神の御前に砕かれてキリストの捕虜になりきり、キリストの十字架のご愛が土の器である私たちから人々に流れていくことを祈り求めていきましょう。




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 6月13日
主題: 「サタンの策略 〜赦しによる勝利〜」  
                   Uコリント2:5〜11 (三浦真信牧師)

(5節)
「ある人(単数)」というのが誰かは分かりませんが、コリント教会の人たちが聞けばすぐ分かる人であったようです。
Tコリント5:1〜5に出てくる「異邦人の中にもないほどの不品行」をしていた人のことか、あるいは集会を混乱させていた中心人物のことかもしれません。
パウロは、その人に対してのコリント教会の態度を、「あなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかった」(Tコリント5:2)と指摘しています。
パウロは、その「ある人」が、痛みを通し悔い改めて神に立ち返り、「主の日に救われる」(Tコリント5:5)ことをどこまでも願って、そのような厳しい態度をコリント教会に求めました。
その人がサタンの虜になっている状態は、パウロを悲しませ、コリント教会全体をも悲しませることになったのです。
(6〜7節)
コリント教会は、教会全体を揺るがし、恐らく教会外にまで不信を抱かせている「ある人」に対して、何らかの厳しい処罰を断行しました。
その問題を通して、コリント教会の人々は大きな悲しみを経験しましたが、それはどこまでも神のみこころを求める中での悲しみでした(7:11〜12)。
そしてその悲しみ痛みを通して、人々の眠っていた霊の目が覚まされ、神のみこころを知りそれに従いたいという熱心を逆に起こさせたのです。問題が起きたことで、教会あげて神のみこころを真剣に求めるようにされたのです。
そして痛みを感じつつ、悪を行った人に対して厳しい処罰を断行しました。
パウロは、コリント訪問を断念した後にそのことをテトスから聞いたのでしょう。
そしてその痛みを通して、問題を起こしていた人も悔い改めに導かれ、悔い改めの実を結んでいることを聞き、もうそれで十分であることをここでは伝えています。
いつまでも責めていると、今度はその人が深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれないので、むしろ赦し慰めることを勧めています。
(8節)
またいたずらに厳しい態度をとったのではなく、「その人に対する愛」ゆえであることを確認するようにも勧めています。
その人の人格を否定することや、仲間はずれにすることが目的ではなく、どこまでも主の日に救われるように神に立ち返って欲しいことが動機であったことを、言葉で伝えるように求めているのです。

(9〜10節)
パウロが、「涙の手紙」を書いたのは、コリント教会の人たちが、神に「従順であるかどうかを試すため」でした。
罪の中にある人を、ただ追い出したり悲しみに陥れることが目的ではなく、神のみこころに従いたいという熱い思いがコリント教会に与えられることを願ってのことでした。
そして罪を犯した人も、罪を悔い改めてその実が見られるなら、「キリストの御前で」赦しましょうとパウロは宣言します。
(11節)
赦すべき人を赦すのは、「サタンに欺かれないため」でした。
サタン(悪魔)は、欺くことが仕事です。私たちの心の中に、思い込みやもっともらしい考えを吹き込んで騙すのが、サタンのやり方です。
神が命じておられることに従わなくてもいいかのように欺いて、私たちを神から引き離そうとするのです。
エデンの園で、人が罪に引き込まれていく様子が克明に記されています(創世記2:16〜17、3:1〜6)。
神はエデンの園で、人が自由に思いのままに木からとって食べて良いようにしてくださいました。
唯一善悪の知識の木からはとって食べてはいけないと命じられました。
それは、唯一の神の主権を現す命令でした。
サタンは、「園のどんな木からも食べてはならないと神は本当に言われたのですか」と、あたかも神が不自由を強いる方かのように思わせるような質問を女にしてきます。
サタンは、あたかも神が私たちを束縛して不自由にするかのように思い込ませます。
しかし決してそうではありません。エデンの園も、神の権威を示す一つの命令以外は、何をしてもよい自由がありました。
神のもとにいる時に、安心して暮らすことができたのです。
また神が遣わされたキリストも、私たちを解放して自由を与えるためにきてくださった方です(ガラテヤ5:1)。
ですから、キリストを信じて神の元に帰ることは、一番自由な生き方なのです。
それを不自由だと思い込ませるのが、サタンの欺きなのです。
その質問の影響を受けて、女は「取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」(2:17)と神が言われたにもかかわらず、「食べて死ぬといけないから」という弱い言葉に変えてしまいます。
そこをついて、「あなたがたは決して死にません」(4節)と、サタンは神のことばを全く違う内容に変えて迫ってくるのです。
そして、善悪の知識の木の実を食べるととてもよいことが起きると誘惑し、また女もそのように聞くと、今までは当然食べてはいけないと言われていたので近づきもしなかった木の実が、とても好ましく見えて、ついに女は食べてしまいます。
サタンは同じように私たちを欺いて神から引き離そうとしてきます。
神のことばを、軽いことばに変えたり、神の言葉に対して鈍くなるように、サタンは誘惑してきます。
コリント教会全体を悲しませた「ある人」も、サタンの欺きにより、じわじわと罪の中に陥っていったのでしょう。
しかしサタンは、私たちがそのような罪に陥らないとなると、今度はとても分かりにくい形で、私たちを罪に誘います。
それは「罪を犯した人は永遠に赦さなくてもよい」という欺きです。
もともと人が人を赦すということも、神からご覧になればおかしなことです。
すべての人は、神の赦しを求めるべき存在だからです。
ですから、「キリストが赦しを宣告しておられるからこそ、同じ思いで私たちも赦す」ということがあるだけなのです。
パウロが「キリストの御前で赦した」(10節)というように、キリスト抜きに、人が人を裁くことも赦すことも、本来はできないはずなのです。
それでも、何らかの痛みや傷を誰かに与えた人に忠告したり、社会的違反をした人に対しては処罰が与えられることがあります。
ただその人が本当に悔い改め、またその実を結んでいても、「永遠にこのようなことをした人は赦さなくてもよい」と裁き続けるなら、自分自身が高いところに留まることになり、それはサタンの喜ぶことになるのです。
「赦さなくてもいいんだ、お前はそのまま高いところに留まって、そこから裁いていればいいんだ」と欺き、私たちを高慢の罪に陥れるのです。
それが「サタンの策略」です。サタンは、「神が高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコブ4:6〜7)ことをよく知っているのです。高い場所に私たちを置いて、神の恵みを受けられないように誘い込むのです。
サタンはこのように様々な方法で、私たちを欺きの罪に誘い込み、神の恵みを受けとらないように仕向けていきます。
そのサタンの究極的目的は、羊を滅ぼすことです(ヨハネ福音書10:10〜11)。
だからといって必要以上にサタンを恐れることはありません。
良い牧者なるイエス様が私たちを守ってくださるので、この方のもとにいれば大丈夫です。
羊飼いの声(聖書のことば)をいつも聞いていれば、サタンが近づいてきても、「これは違う」と分かるようにしてくださいます。

キリストが赦された人を、私たちが赦さなくてよいはずがありません。
「キリストが赦しても、私は赦さない」という高ぶりは、サタンの策略に用いられてしまいます。
主にあって、ある時は互いに忠告し合うことは大切な交わりの要素ですが、責められっぱなしでは、人は深い悲しみに押しつぶされてしまいます。
キリストが赦しておられることを受け取ったなら、また私たちも赦し、自分自身もキリストのあわれみだけで罪赦
された罪人に過ぎないことを感謝していきましょう。
そこに主の恵みは豊かに注がれる
のです。
赦すことで、サタンの策略に勝利してきましょう。サタンの強い誘惑を感じているなら、助け主なる聖霊に守っていただきましょう。
仮にサタンの欺きに騙されてしまうことがあっても、気がついたらまた神に立ち返っていきましょう。
主は私たちが弱い者であり、失敗する者であることもご存知です。
ですから何度でも立ち返るなら、その度に放蕩息子の父親のように、喜んで迎えてくださいます。
でも騙されないですむなら騙されない方がよいのです。
騙されて、「楽しかった、良い時を過ごした」と思う人はいないでしょう。
そのために、日頃から神の武具をしっかり身にまといましょう(エペソ6:11〜18)。
そしてサタンの策略から守られますように、互いに祈り励ましあっていきましょう。




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 6月6日
主題: 「神の国を受け入れる者」  
               ルカ18:9〜17 (三浦真信牧師)


人の中では、真実の自分以上に自分を良く見せようとする気持ちが、どこかで働くものでしょう。
しかし常に違う自分を演じていると、誰しも疲れ果ててしまいます。
人に対しては、多少見栄を張ったり肩肘張って生きていたとしても、神様に対しては決して自分を装う必要がないことを、イエス様がここで教えてくださっています。

まず2人の対照的な祈りが紹介されています。
一人はパリサイ人です。宗教的指導者であり、社会的にも影響のある人でした。
そしてもう1人は取税人です。
ユダヤを統治していたローマ帝国にユダヤ人から税を徴収する人です。
ローマの手先としてユダヤ人からは嫌われ、また不正な取立てをすることも多く、人々から軽蔑されていました。
パリサイ人の祈りは、隣にいる取税人を意識しながら祈っています(11〜12節)。
自分は彼のような悪いことはしておらず、正しく立派に神様からも良い評価を得られる生き方をしていることを、祈りという形でアピールしています。
一方の取税人は、パリサイ人のように堂々とした祈りではなく、目を天に向けようともせず胸を打ちたたいて、「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」と一言祈るだけでした(13節)。
そこには、自分のした良い働きや業績の報告など一言もありませんでした。
イエス様はここで、神から正しいと認められたのは、パリサイ人ではなく取税人の方であるとおっしゃいました(14節)。
神は、「結果がすべてだ」とはおっしゃらず、表面的にきちっとしていればそれでよいともおっしゃいません。
むしろその心をご覧になります。
取税人が神に義と認められた理由は、「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」からだとおっしゃいました。

パリサイ人たちは、表面的には良い人であり、それなりに人々からも尊敬されていました。
しかし外側を整えて人に自分を良く見せることが上手になる一方で、その心は高い心、汚い思いで満ちていることをイエス様も指摘しています(マタイ23:25〜28)。
彼らは、表面をきれいに見せ、偽った自分を見せることはドンドン得意になっていくけれど、本当の自分の姿、心の内側に関しては無頓着でした。
一方の取税人は、社会では嫌われ者で決して立派な生き方をしてきたとは言えなかったかもしれませんが、少なくとも自分の心の汚さを知っていて、罪深い存在であることを認めて神の前にへりくだっています。
彼の心の低い、偽りのない真実な祈りを、神は受けとめて義と認めてくださったのです。
そしてこのことを強調するかのような出来事が、続けて起きてきました。
イエス様のもとに連れてこられた子供たちを弟子たちが制した時に、イエス様はむしろ子どもたちを呼び寄せて、「神の国はこのような者たちのものです」とおっしゃったのです(15〜16節)。
それは子どもの価値を低く見て、「まだまだ子供だから」と蔑んでいた大人たちに、子どもたちを信仰の師として学ぶようにという勧めでもあったのです。
「子どものように神の国を受け入れる」ことの大切さを教えてくださったのです。
この子どものように神の国を受け入れる態度と、先の取税人の祈りには、共通したものがあります。
大人の心であるパリサイ人は、人の前だけでなく神の前でも、自分を偽り良く見せようとしています。
どこまでも自分の正しさで神に認められようとしました。
しかし取税人は、自分の心の様を子どものようにそのままさらけ出しています。
父なる神様から叱られても当然の罪にまみれた自分であることを認めて、それでもあわれんでくださいと助けを求めているのです。
「誰かからあわれまれるほど自分はみじめではない」と思えば、「あわれんでください」などとは、とても言えないでしょう。
でもイエス様は、この取税人のようにへりくだる罪人を招くために、世に来られた救い主です(マルコ2:17)。
パリサイ人のように、「私は自分の正しさで天国に入れるから、そのための助けは不要です」と自分の正しさを主張する人ではなく、「自分の罪を自分でどうすることもできないから助けてください」と、罪の病気であることを認めて治療して欲しいと願う人を癒すために、イエス様は来て下さったのです。
造り主なる神から遠く離れてしまったすべての人は、何を基準にして生き、何を究極的目当てにして生きたらよいか分からず、常に的外れな歩みをするようになりました。
どこかで、いるべきでないところにいるような違和感を持ちながら、それがどこからくるのかも分からずさ迷いながら生きていくようになってしまったのです。
神はその状態から、本来いるべき神のもとに帰ることができるように、ひとり子イエス・キリストを送って下さったのです。
私たちの罪を担って十字架で死なれたキリスト以外に、神からはずれてしまった存在を回復することはできないというのが聖書のメッセージです。
自分の罪の病気を認めて、罪を癒す医者なるイエス様のもとに行くなら、喜んで癒してくださるのです。
そしてキリストの十字架を通して罪のない正しい者と認めてくださり、神のもとに帰らせてくださるのです。
造り主なる神と、平和な関係に戻ることができるのです。
キリストは罪を責めるために来られたのではなく、罪を赦し、罪人を救うために来られたのです。
赦しの道がすでに用意されているからこそ、私たちは安心して大胆に自分の本当の姿を神の前にさらけ出すことができるのです。
そうすることを阻む高い心(大人の心)も、自分では変えることができません。
その高い心も認めて、「神様。この高い頑なな私をあわれんでください」と一言祈れるとよいのですが…。
天国は、子どものように神の国を受け入れる者に与えられる最高の贈り物です。
感謝なことに、キリストは罪人を招くために来てくださった方です。
「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈る取税人を正しいと認めて救ってくださる、あわれみ深い神なのです。神様に対しては、子どものように向かっていきましょう。




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