主題: 「 知恵を求めて祈る 」
箴言30:1〜9 (田中殉伝道師)
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(9:10)とあるように、「箴言」は、神を神として正しく捉え認識することが知恵の始まりなのだと語ります。30章はアグルという人物の言葉ですが(30:1)、彼の知恵の言葉も神への恐れに立脚しています。
<2節>
アグルは、自分は人間の中でも最も愚かな者だと告白します。強い否定語で「自分には悟りがない」と言っていますが、ただ自らを低く表現したのではなく、自分には 物事を見分ける力がないということを認めた表現です。「悟り」という言葉は「見分ける」、「間」という意味とも関連しています。
<3節>
「聖」という言葉は、宗教的な感じといったような程度のことではなく、恐ろしいまでに全く別のものということです。私たちとは全く別の存在、それが聖書の言う「聖」であり、「聖なる方」とはこの世界を造られた神様に他なりません。神様は創造主であり、私たちはみな被造物です。神様は私たちとは全く違うお方なのです。
<4節>
神様が創造されたものが四つ並べられ、創造主なる神が「聖なる方」であることを示します。「天」とは神がおられる場所、復活して召天されたイエス様が、父なる神の右の座について世界をすべ治めておられる場所です(ヘブル1:3、Tペテロ3:22等)。神は天と地を創造し、大空を天と名付けられました(創世記1:1,8)。イエス様は、弟子たちの見ている前で空に向けて天に上って行かれ(使徒1:9-11)、そこには、神への信仰をもって先に眠った人々がキリストと共にいるのです(Tテサロニケ4:14)。しかし、いくら上空高く上ってみても、私たちには天は見えません。神様が造られた世界のうちで、見ることができず、近寄る事が出来ない。天とはそういう場所です。
「風」も、天と同様に目で見ることが出来ないものです。風によって木々がなびくのを見たり、時には吹き飛ばされそうになることによって風の強さを知りますが、風そのものを見ることは出来ません。ましてや、その風をたなごころ(手のひら)に収めることなど、誰にも出来ません。ところで、イエス様は聖霊なる神様の働きを風にたとえられました(ヨハネ3:8)。聖霊の働きを押し込めたり、委ねずに無視して自分でそれをなそうとすることがないか、風のたとえを機に確認したいものです。
また、神様はノアの洪水の話に明らかなように、「水」で山々をおおってしまうお方です(創世記7:20)。そして「地」のすべての限界(果て)を定めたお方なのです(1:9-
10、ヨブ38:4)。人知を遥か超えて、この世界を治めておられる方、自然を支配しておられる方がいらっしゃるということを、アグルはわきまえていました。「その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」疑問文の形にも訳せるようですが、この方の名を知らされている私たちにとっては、「確かに」知っているという確信となります。この天地を造られたのは、「わたしはある」という不思議な名前の主なる神(出エジプト3:14)。その御子はキリストです。
<5、6節>
アグルのことばは続きます。「神のことばは、すべて純粋」で混じりけがなく、神の愛以外のものは詰まっていません。神に信頼し「拠り頼む者の盾」となって私たちを守るものです。しかし、私たちは自分の利益の為に神のことばを変えてしまったエバや、それを無視したアダムのように(創世記3:2-6)、「神のことばに混ぜ物をして売る」(Uコリ2:17)ことをしてしまう存在です。「神が、あなたを責めないように」とありますが、イエス・キリストの十字架による赦しを信じている者は、神のことばにつけたしをしてしまうような者であっても、そのままで義と認められています(ガラテヤ2:16等)。この驚くべき福音、神の愛はいくら強調しても足りません。しかし、親が愛する子どもを叱ったり諭したりするように、神様は、私たちが神の子として歩んでいく上で必要な教え、諭し、時には叱責を与えられます。神のことばにつけ足しをしたり無視をするとき、聖霊はそれを見逃されず、必ずそれを示して下さいます。罪を示されたなら、その場で悔い改めるべきです。聖なるお方、この天地を造られたお方が、その一人子を十字架につけたほどに私たちを愛して下さっているのです。そのことへの恐れにも似た感謝の心を忘れてはなりません。
<7節>
ここまでの言葉に明らかなように、アグルは主なる神を恐れる人でした。知恵とは生活の中で問われるものですが、7節以降はアグルが求めて祈る知恵のあり方について書かれています。
「死なないうちに、それをかなえてください」というのは、自分が死ぬ前に自分の生き方を変えてくださいという切実な祈りです。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」とあるように(ローマ12:2、原語では受身で「変えられなさい」)、アグルは「私の生き方を変えてください」と、心を一新させて祈っていたのでした。神を恐れるがゆえに、聖なる方を
(裏面に続く)
恐れるがゆえに、彼は自分の生活、自分の生き方について知恵を求めて祈ったのです。
<8節>
アグルの祈りの一つ目は、「不信実と偽りとを私から遠ざけてください」ということです。「信実」とは、客観的な事実としての真実というよりも、人格的なものを指した言葉です。原語にはむなしさという意味も含まれます。例えば十戒の第三戒に「主の御名を、 みだりに唱えてはならない」とは、神の名前にあらわされる神のご性質をむなしくあしらってはならないということです(出エジプト20:7)。ここでも神さまと私たちとの人格的な関係が問題とされています。また「不信実と偽り」というセットの表現は、エゼキエル書13:6-8等の偽預言者への警告にも出てきます(むなしさとまやかし)。アグルの祈りはただ単に道徳的な祈りではなく、自分が偽預言者とならないようにという深刻な祈りなのでした。
アグルが祈る「偽り」とは正確に訳せば「偽りの言葉」となります。神のことばを神のことばとせず、または自分の言葉を神のことばとしたり、神のことばにつけたしをすることです(6節)。ヘブル語で「言葉」をあらわす「ダーバール」には、「出来事」という意味もあります。私たちが口にする言葉だけでなく、行いもまた問題とされています。私たちはみなが、キリストにあって預言者(神の御言葉を預かって分かち合うこと)の役割をいただいているのですから、私たち一人一人にとっても重要な祈りです。
彼が祈る二つ目のこと、それは「貧しさでも富でもなく、ただ、自分に定められた分のもので私を養ってください」というものでした。神様に与えられたものを管理していくことは、謙遜さと深く関係しています。謙遜さとは自己卑下をすることではなく、神様が与えて下さった賜物を理解し、把握し、それにふさわしく用いていくことです。例えばイエス様は、父なる神様のご計画をわきまえ、自分が何をなすべきか理解してその通りに従われました(マルコ14:36、ピリピ2:8)。神様が与えて下さったご計画に対して、それ以上でもそれ以下でもなく従うこと、それが謙遜です。
神様から与えられたものを賜物と言い、それは本来、得意不得意という能力の話ではありません。私たちが置かれている状態や立場は神様からの賜物なのです。神様はそれぞれにちょうど良く賜物を与えて下さっており、それを用いて神の栄光を表すことを期待しておられます。また、教会にとっては一人一人の存在が賜物です(エペソ4:16)。神様がこの教会に与えてくださった大切な一人一人です。その一人一人には、「力量にふさわしく働く力」が与えられています。箴言の言葉で言えば「定められた分の食物」があるということです。アダムとエバ以来、私たちは賜物としての自分自身を愛せずに隠してきましたが(創世記3:8)、誰かと自分を比較して、自分には賜物がないなどと言う必要はありません。できる、できないではなくて、まずあなたの存在がこの教会にとって賜物なのです。そして私たちには、定められた分のちょうど良い立ち位置があります。頑張って貧しさを我慢したり、もっともっとと富を求める必要はありません。
<9節>
富んで食べ飽きると、神様を否んでしまいます。出エジプトをして約束の地カナンに到着したイスラエルの民は、そこで食べて満ち足り、まことの神を捨てて偶像礼拝に走りました(申命記31:20、士師記2:11,12)。「定められた分」以上の豊かさは、神を否定させ、私たちに「主とは誰だ、私に何の関係があるか」と言わせるのです。反対に、貧しくて必要な分がないと盗みをしてしまうのだとも言います。神様の側では私たちに本当に様々な賜物を下さっているのですが(Tペテロ4:10)、私たちの側でそうと思わず、自分には賜物がないとするなら、盗みをしてしまうでしょう。しかし、すでに与えられている賜物の豊かさにこそ、目を留めようではありませんか。それは私たちが自分自身でいられる分の、ちょうど良い賜物なのです。
このような知恵を求めることが出来たのは、アグルが天地の造り主である聖なる方を恐れ、盾になってくださるという神様を信頼していたからです。彼はその中で、自分には知恵がないこと、悟りがないことを自覚していました。御言葉につけ足しをしてしまう自分を発見したでしょう。自分の不信実さに気づき、与えられている賜物に満足できない自分を知ったのです。ソロモン曰く、それが知恵の始まりです。聖霊なる神は、徐々に徐々にでも、確実に神様は私たちを造りかえてくださいます。アグルのように知恵を求めて、「私が死なないうちに、それをかなえてください」と、「心の一新によって自分を変えて」いただこうではありませんか。
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