(2010年7月)

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 7月25日
主題: 「恐れてはいけません」 
         出エジプト20:18〜26  (三浦真信牧師)


<18節>
十戒がモーセに与えられた時に、イスラエルの民たちも「雷と、いなずま、角笛の音と煙る山」を目撃しました。
神はそのような激しい音とすさまじい光景を通して、ご自身の存在を民たちに示されたのです。

<19節>
その様相に、民たちは恐れを抱きました。
神がモーセに語りかけたことを「どうか私たちに話してください」と言いつつも、「しかし神が私たちに(直接)お話しにならないように」と、どこまでもモーセに神が語りかけてくださるように頼みます。
神の臨在に触れ、その偉大さと聖さの前に、自分たちの罪汚れを感じ、神に打たれても当然の存在だと感じたのでしょう。
それは神の子キリストの力に圧倒された時に、ペテロが「私のような者から離れてください。
私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言った時の心境にも似ていたかもしれません。
神の臨在に触れ、その偉大な力を目撃する時、人は自分がいかに小さな存在であり罪にまみれた存在であるかを知らされるのです。
モーセさえも、この凄まじい光景に、恐れて震えたほどでした(ヘブル12:18〜21)。
イスラエルの民たちは、これからもモーセを通しての間接的な神との関わりが続いていきます。
神直接に触れていくことができたなら、しっかり神の御前に立って自分の罪を認め続けてへりくだる歩みができたのかもしれません。
常にモーセを通しての神との関係でしたので、どこか煮えきれず、偶像と神との関わりを行ったり来たりする 歩みになってしまったのでしょう。

<20節>
モーセは自ら恐れて震えつつも、民たちに「恐れてはいけません」と語ります。
「神が来られたのはあなたがたを試みる(「深く知らせる」「体験を与える」の意味) ため」でした。
神ご自身を深く知らせ、また体験させるために、あえて神は民たちのところに来てくださったのです。
そして、神への畏怖の念を与え、良い意味での神への畏れが生まれて具体的な罪から守るために、神は来て下さったのです。神
の臨在が、私たちを罪から守ってくださるのです。
ですから、「主を恐れることは知識の初め」であるのです(箴言1:7)。

<21節>
モーセは再び、神がおられる「暗やみ」(雲のようなところ。シナイ山で神がモーセと会われた場所)に近づいていきます。

<22節>
ここから23章33節までは「契約の書」と呼ばれています(24:7)。
この22〜26節は、
その契約の書の序文にあたります。

<23節>
契約の書の序文で、まず最初に偶像の禁止が命じられています。
イスラエルの民たちは、 神が天からモーセに話されるのを目撃しました(22節b)。
そのように唯一の神の存在を知っているのだから、神を見える形にしたり、他の偶像を造って心を寄せてはいけないのです。
唯一の神だけを崇めてその主権を認めるように、十戒同様最初に命じられているのです。

<24〜26節>
契約の書の序文で二つ目に命じられていることは、祭壇の建設です。土の祭壇を造り、「全焼のいけにえ(神への全き献身を示す)」と「和解のいけにえ(神への感謝を示す)」をそこでささげるように命じられています。
今の私たちにとっては、祈りの祭壇を築き、神への献身と感謝を表す礼拝をささげることが、祭壇を築くことです。
見える祭壇ではなく、どこにあっても祈りの祭壇を築くことで、「神が臨み、あなたを祝福して」(24)くださるのです。
私たちが置かれた場所で、神を礼拝し、神に祈りをささげることで、神はその場所に臨み、そこを祝福の場所としてくださるのです。
ここで、石の祭壇を造るために「石にのみを当てる」ことを禁じています。
それは、神への祭壇を造りながら、石にのみをあてているうちに見える偶像を造る危険があったからです。
すぐに見える偶像をつくって依存しようとする人間の弱さを神はご存知で、このような配慮ある命令をされたのです。
また古代の異邦人たちが造る祭壇には、階段がありました。
彼らはより高い祭壇を造って天に近づき、神に受け入れられようと考え、「高きところ」と呼ばれるものを造り、裸でそこに登りました。
そのような偶像崇拝をする祭壇のようにではなく、神が命じられるような方法(28:40〜43)で、神を礼拝するように26節では命じられているのです。
キリストが来られて、このような見える形での祭壇ではなく、へりくだった心で、自分自身を神にいけにえとしてささげる礼拝を今は求められています(ローマ12:1)。
神は形式よりも、どのような心で神を礼拝しているかをご覧になります。

モーセは、神の臨在に触れて恐れる民たちに、「恐れてはいけません」と語りました。
聖書の中で「恐れるな」と神が語りかける時、その多くは将来に対して恐れないようにと言われていますが(イザヤ43:1・5、ヨハネ14:27)、ここは神ご自身への恐怖心に対して言われています。
神の聖さに触れるなら、恐怖を抱くのは当然かもしれません。
それほどに人は罪まみれなのです。
神の子キリストは、この神への恐怖心を取り除くために、この世に来てくださいました。
キリストの十字架は、信じる者たちの罪を完全に取り除くことができるのです。
キリストが私たちの罪を、十字架の死と復活によりきよめてくださったので、私たちは今大胆に神のみもとに近づくことができるのです。
それどころかキリストは、私たちのことを「友だち」と呼んでくださるのです(ヨハネ15:14〜15)。
友だからこそ、神のみこころを私たちに知らせてくださったのです。
しもべ(奴隷)は、ただ主人のいいつけを守ればいいだけで、主人の考えやすることの意味など教えられません。
しかしキリストは私たちを友としてくださったので、神のみこころで知るべきことはすべて教えてくださったのです。
地上の肉体をもつ間は罪の残骸がありますが、キリストの十字架の血潮によって存在そのものが聖められているから、私たちは神のものとして恐れることなく神に近づくことができるのです。
モーセが民たちに語った「恐れてはいけません」は、キリストの贖いにより、完全に実現したのです。




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 7月18日
主題: 「消え去る栄光と永続する栄光」  
                 Uコリント3:7〜11  (三浦真信牧師)


<7〜8節>
石の板に刻まれた律法は、人間に有罪判決を下し、死を宣告するものでした。
しかしそれは、やがて来られる本体であるキリストの恵みを知らせる影のような存在であるのです。
そのやがては消え去る一時的な務めにあたったモーセの顔は、律法を与えられて山を降りた時に神の栄光で光り輝いていました(出エジプト34:29〜30)。
しかし律法の栄光は、キリストが来られる時までのものでした(ローマ10:4)。と言っても、今は律法の必要がなくなったわけではありません。
新しい契約に生かされている者 こそ、律法の真の意味を教えられているので、むしろ律法を通して神の恵みを知ることができるのです。
律法を通して、罪をいよいよ知らされることが、同時に救われた恵みの大きさを知ることにつながるのです(ローマ5:20)。
罪が分からなければ恵みも分かりません。
ですから罪が分からないなら律法をはじめ旧約聖書を良く読むとよいでしょう。
どれほどキリストの恵みを必要としている罪人かが良く分かるでしょう。
古い契約に用いられたモーセでさえも一時的な栄光があったのなら、「御霊の務め」にあたる私たちには、どれほどの栄光があることでしょう。
新しい契約に生きる私たちにとっては、神の恵みを証し、福音を伝える時が神の栄光で輝く時です。
モーセが律法を与えられて民の元に来た時に光り輝いていたように、福音を分かち合っている時が、クリスチャンにとって一番神の輝きを放っている時と言えるでしょう。
万人祭司の視点に立つなら、全てのキリスト者はこの栄光ある務めに与っているのです。
その務めに生きている時が、何よりもの喜びを感じる時でしょう。

<9節>
「罪に定める務め」とは、律法の行いを土台とする古い契約に仕える務めのことです。
その代表でもあるモーセも、シナイ山から降りた時に一時的に神の栄光で輝いていました。
まして罪人を「義とする務め」である、福音に仕える務めには、なおさら栄光があふれているのです。


<10〜11節>
律法を土台とする古い契約も、キリストが来られる前に「かつて栄光を受けた」ものでした。
しかし新しい契約に比べるなら、「さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないもの」となるのです。
律法の栄光は一時的ですが、キリストの福音は永続的なものです。
キリストが本体であって、キリストによる救いの恵みを知らせるために、神は律法を与えられたのです。
11節を直訳すると、「もし消え去るべきものが栄光とともに(with glory)輝いていたのなら、永続するものはなおさら栄光のうちに(in glory)輝いているはずです」となっていて、違う前置詞が使われています。
律法が授与された時には、それに「伴った」栄光でしたが、新しい契約では、それ自体が栄光そのものなのです。
古い契約には栄光が伴いましたが、キリストの恵みによる福音は、それ自体が栄光なのです。

パウロがここで、あえてこのように律法と福音を比較している理由は、コリント教会に混乱をもたらした律法主義者たちのことを意識しているからでしょう。
彼らは、古い契約にどこまでもしがみつき、人間の行いで救いを成し遂げようとしました。
しかしキリストが来られた今は、キリストを信頼することだけが唯一の神が求めるわざなのです(ヨハネ福音書6:29)。
それを頑なに拒み、今までのやり方を押し通して逆に神のみこころを損なっている人たちにも、何とか目を覚まして欲しいとパウロは願っていたのでしょう。
神は私たちに、今キリストを信じ、キリストにより頼んで生きるように求めておられます。
神が私たちに求めておられる唯一のわざは、キリストを信じて生きることだけです。
新しい契約に生きていくときに、御霊が私たちの心の板にみことばを刻みつけてくださいます。
御霊に仕え、キリストの恵みを証しする時にこそ、神はそのご栄光で私たちを包み、喜びに満たして下さるのです。
行いによってではなく、ただキリストの恵みを信じキリストにより頼むことによって救われている私たち一人一人であることを、感謝しましょう(ローマ9:30〜32)。




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 7月11日
主題: 「新しい契約に仕える者」  
             Uコリント3:5〜6  (三浦真信牧師)


<5節>
パウロは、自分のうちに使徒としてふさわしいものは一切ないことを認めています。
ただ神がパウロを一方的にとらえ、使徒としての務めを神がパウロに与え、そして今もその力を神ご自身が与えてくださっているのです。
そこに何か良い実を結んだとしても、それは神がパウロたちを用いて成った実であり、称賛されるべき方は神だけなのです。
神からくる資格以外に、パウロを使徒、伝道者とするものは何もないのです。
ただ神の恵みが、パウロを使徒とし、また使徒としての務めをさせ、実を成らせたのです(Tコリント15:9〜10)。

<6節>
そして神がパウロに与えた資格は、古い契約にではなく「新しい契約に仕える者となる資格」でした。
この「新しい(カイノス)」は、質的に新しいことを意味することばです。
時間的な新しさではありません。
古い契約とは質的に全く違う契約なのです。
モーセと神との間に結ばれたシナイ契約は、人が神の命令を実行するなら、神もその人を祝福するという協定のようなものでした。
それはどこまでも人間の行いにかかっていました。
しかしもともと罪をもっている人間は不完全であるため、義を生み出すことはできません。
不義な人間が、どんなに頑張っても義(正しさ、聖さ)を生み出すことはできないのです。
しかし新しい契約は、契約の質が全く違います。
古い契約のように交換条件のようなものではなく、どこまでも神のみこころが先行しています。
不安定な人間ではなく、神の確かさにのみ立っている契約です。
神がご計画し、キリストを遣わして実行してくださった救いに対して、人は応答する立場にあるのです。
ただ感謝して受け取ればよいだけなのです。
古い契約のように、「律法をしっかり守ったら神も祝福します」という協定ではないのです。
神はご自身の恵みにより、キリストの贖いによって、一方的に人を祝福すると約束してくださったのです。
すべて神から発し、神が救いの代価となるキリストを送ってくださり、救いのみわざを神の側で成し遂げてくださったのです。
ただ私たちはその事実を信じて受け取るだけでよいのです。
新しい契約では、救いはどこまでも神からのプレゼントなのです。
そのプレゼントを受け取る時に、そのプレゼント(救いの恵み)が私たちを喜ばせ、安心させ、希望を与え、天国にまで導くのです。
パウロたちは、この新しい契約に仕える資格を、神から受けたのです。   

ここで「文字」と「御霊」が対照的に用いられています。墨で書かれた推薦状をもって、ユダヤ人律法主義の教えをコリント教会に持ち込んだ人たちは、パウロにも使徒としての推薦状を要求しました。
しかしそれに対してパウロは、「文字で書かれた推薦状はないけど、それよりももっと確かで公にもなっているコリント教会のあなたがたこそ私たちの伝えた福音の真実を証明する推薦状です」(2節)と答えました。
そして古い契約においては、石の板に律法が文字で書かれましたが、新しい契約においては、御霊が人の心の板に直に福音を書き記すのです(3節)。
文字として石の板に書かれた律法は、聖なるものでよいものですが(ローマ7:10〜13)、その教えを守らない者(すべての人のこと)には、有罪判決を下し、死刑を宣告するものなのです。
律法を通しては、自分がいかに神の命令からはずれた罪ある存在であるかを知るばかりなのです(ローマ3:20)。
律法を自分の力では実行できないことを誰もが認めざるを得ないのです。そのように「文字は殺し」ます。
しかし「御霊は生かす」のです。
律法が命じることを実行できずに、その結果である死と呪いに恐れおののくしかない者をも、御霊は新しく造りかえてくださるのです。
新しい契約においては、キリストを信じることだけが神のみこころを全うするのです。
御霊は、私たちが行いによっては救われない不義な者であることを認めさせ、キリストの十字架の贖いによってのみ罪から救われ、永遠のいのちが与えられることを信じる柔らかい心を与えてくださるのです。
石の板に文字として刻まれた律法は、人の無力を教え、神の前にどんなにはずれた存在であるかを明らかにします。
そしてそのままでは、死を宣告され滅びるしかない存在であることを明らかにします。
しかし御霊によって私たちの心の板に直に刻まれる福音(新しい契約)は、そのような死に価する者がいのちに移されるというとてつもない恵みを明らかにするのです。
死ぬべき私に代わってキリストが十字架で死んでくださり、罪の呪いを全てキリストが受けてくださり、罪の刑罰である永遠の死をもう恐れなくてよいようにしてくださったのです。
御霊は、律法によって死刑判決を下された霊的死体に、新しいいのちを吹き込んでくださったのです。
キリストのうちにある者は、この新しい契約によって生かされているのです。
遣わされた場所で、御霊が日々私たちを新しく造りかえ、神のみことばを心に書き記し、みことばに歩めるように造りかえ続けていてくださいます。
御霊は日々私たちに力を注いで、キリストを信じて救われる喜びに満たしてくださるのです。




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 7月4日
主題: 「 キリストの推薦状」  Uコリント3:1〜4  (三浦真信牧師)

<1節>
「またもや」とありますが、パウロが以前自己推薦したという意味ではなく、「パウロは自分で自分を使徒として推薦している」と非難され続けていることに対して、「またもやそのように言われなければならないのでしょうか?」という問いかけです。
パウロとしては、自分を使徒として自己推薦するメリットなど何もありませんでした。
もともとクリスチャンを迫害していたところで、一方的に復活のキリストに出会い、一方的にキリストを伝える伝道者に召されたのであって、パウロとしては「とんでもないことになってしまった!」という出来事だったのです。
しかし確かにキリストは生きておられ、その恵みとあわれみの大きさに圧倒され、「生きることはキリスト」(ピリピ1:20〜21)になったのです。
またキリストのすばらしさゆえに、今まで大切にしてきた生き方がちりあくたに思えるほどになりました(ピリピ3:6〜9)。
パウロとしては、自ら計画して使徒になったわけではないので、自己推薦する必要もありませんでした。
神様から召されたからその導きに従っただけなのです。
そしてその導きについていった結果、実際に使徒として選ばれ、またそこに主にある実が成っていったのです。
どこまでも神が始められたことであって、神が辞めなさいと言われない限りは使徒としての務めを降りるわけにはいかないのです。
ですから、「何が何でも使徒であり続けるぞ」と使徒職にしがみつく必要もなく、すべては神様次第だったのです。
パウロとしては、自己推薦しているという批判はあまりにも的外れでしたが、それでもなお誤解している人たちや、誤った教えを持ち込んで分派をつくっている人たちに引きずられて迷っている人たちに配慮して、丁寧に説明をしています。
ここで「推薦状」について、繰り返し言及しています。
事実誰かが大切な役割を教会で果たすために遣わされる時に、しばしば手紙による推薦状が当時用いられました(Tコリント16:10〜11、ローマ16:1〜2)。
特にパウロがここで「ある人々」と言っているのは、恐らく2:17の「神のことばに混ぜ物をして売る」人たちのことを指しているようです。
彼らはエルサレム教会かどこかの推薦状を何らかの方法で入手し、それをもってコリント教会に忍び込んできたようです。
そしてその推薦状をちらつかせながら、使徒パウロにも推薦状を要求するようにコリントの人々に投げかけたのでしょう。

<2節>
しかしそれに対してパウロは、「私たちの推薦状はあなたがたです」と伝えます。
パウロがコリントの町で福音を伝え、そこで確かに空しい偶像から生ける神に立ち返る人々が起こされました。
今もキリストの光に照らされて、喜びと感謝を神にささげて生きているコリント教会の一人一人が、パウロが語った福音の真実を証明する推薦状なのです。
しかもその推薦状は、ペンやインクでは書かれていなくても、「私たちの心にしるされ」ていて、特定の人にではなく、「すべての人に知られ、また読まれている」のです。
コリント中の人々に、コリント教会の人々を通してキリストが証しされ、パウロたちが伝えたキリストのすばらしさが知らされているのです。
そういう意味では、コリント教会に色々問題はあっても、彼らの存在がパウロたちの推薦状なのです。
逆にパウロに推薦状を求める偽教師たちは、紙の推薦状はもっていても、コリント教会に混乱をもたらし、パウロの伝えたキリストから目を逸らすようにしむけて、神の働きを妨げていきました。

<3節>
コリント教会の人々は、「墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれたキリストの手紙」であり、推薦状であったのです。
また「石の板にではなく、人の心に書かれたもの」でした。モーセに与えられた律法は、「石の板」に書かれました(出エジプト24:12)。
しかしキリストが与えてくださった福音は、「人の心」に直に書かれるのです(エレミヤ31:33)。
聖霊によって、硬い石の心が取り除かれ、神のことばに喜んで従う肉のような柔らかい心を与えくださるのです(エゼキエル11:19〜20)。
「神に従わなければいけない」ではなく、「従いたい」という心を、キリストが与えてくださるのです。
かつては、ストレスを解消するために、人に愚痴を言ったり、快楽に酔ってスッキリしていたとしても、聖霊が来られると、それらによっては決してスッキリしなくなり、むしろ嫌悪感や空しさが残るようになるのです。
それは聖霊の働きです。
聖霊が来られると、古い自分の生き方をしようとすると、かえって苦しくなるのです。
失敗したり、古い自分に戻ろうとする誘惑もたえずありますが、でもそこに留まり続けることはできなくなります(ローマ6:1〜2)。
それは、生ける神の御霊によって、私たちの心に直接神のみことばが書き記されるからです。

<4節>
パウロは、自分自身が使徒として十分な能力があるとか、ふさわしいという確信はありませんが、少なくともキリストがこの務めに召してくださったことに関しては、神の御前で確信していたのです。
人間的な見地では、あまりにも神に逆らうことをしてきたパウロは、とても使徒としてふさわしいとは言えませんでした。
しかしそんな罪深いパウロを、神があわれみによって救い、使徒として、またキリストを伝える伝道者として召されたことだけは、否定しようのないことだったのです。
パウロが使徒であるのは、ただ「神が召された」という理由だけでした。

パウロの場合は、使徒職に関してでしたが、私たちが何かをするときも、ことさらに自己推薦をする必要はありません(Uコリント10:18)。
社会において自己アピールを求められても、冷静に神から与えられているものを伝えればよいだけで、無理やり自分を人に認めさせる必要はないのです。
主がしなさいと言われることは、主ご自身が何らかの見える実をもって推薦してくださるのです。
私たちは、主の導きに一歩一歩ついていけばよいのです。
説明を求められれば、パウロのように自己を過大評価することなく、淡々と主の導きを伝えればよいのです。
聖霊が人の心に書き記してくださるみことばの力が、周囲の人たちにも現れていくことこそ、キリストのすばらしさと福音の確かさを証する推薦状です。
それは聖霊がしてくださることなので、私たちが頑張って推薦状にならなければと力む必要はありません。
神が召されたことは、神ご自身が推薦の実を成らせてくださるのです。
私たちは、神から与えられた使命に常に焦点を合わせ、また忠実であればよいのです。





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