証:長島良暢兄
群馬県の生まれで18歳になるまでそこにいました。
親が言うには小さい時は元気一杯だったとのことでしたが、次第におとなしくて内向きの性格になったようです。
親の言う事もよく聞き、まじめな性格と見られ、小学生の時から知的好奇心が強くいろいろな本を読み、物知りと言われました。
大学ではヨーロッパ文明を専攻し、キリスト教についての知識が加わりました。
1990年5月にある人との出会いを通して、ある教会に導かれました。
元気で若者の多く楽しい雰囲気の教会でしたが、私には馴染めなかったので、そこを離れました。
他の団体を覗いたりしましたが、1995年に同じ人に再会して、再びその教会に行くようになり、イエス・キリストを信じました。
でもこの教会では、行いが伴わないといけない、他の人を救わないとダメというハードルの高いところがありました。
そのことに違和感を覚えていたところ、2000年の恵比寿のスーパーミッションに参加したときに、イエス様の救いを受け入れました。
2003年1月にはじめて久遠キリスト教会に来たところ、主の臨在を感じたので、続けて来るようになりました。
主は生きておられることを実感し、その時以来、御言葉が迫って来ました。
丹羽お母様がさまざまな経験を語ってくださったので、信仰の生証人と思い、感激しました。
その年の復活祭に洗礼を受けるように勧められたので、準備を進めていました。
丹羽e之牧師の「行くところを知らずして」「福音と律法」などを読んで、聖霊に触れられましたが、とても私には洗礼を受ける資格がないと思われ、そのイースターには洗礼を受けることができなくなってしまいました。
そのあと、聖霊の迫りによって体が震えたり、祈りが変えられました。
みことばが心のうちに入ってくる−生ける水が湧き出るように感じ(ヨハネ7:38)、うれしくて喜びがあふれました。
そして洗礼の準備祈祷会に参加して、ペンテコステの時に洗礼を受けることができました。
「私の体は私のものではなく、キリストのもの。」
主の言葉がストンと入って来ました。
その喜びの中で洗礼を受けられたことが、とても感謝でした。
「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)ということを実感しました。
主がともにおられる事実はすばらしいことです。
そのあとの歩みでは落ち込む事もありますが、受洗の時のことを思い起こすと感謝になります。
これからもキリストの者とされた人生を歩んでいきたいです。
メッセージ要約 主題: 「キリストとともに十字架に」
ガラテヤ2:20(田中殉伝道師)
<十字架とは>
「キリストとともに十字架につけられました」ということの意味を知るためには、まず十字架とは何かを知る必要があります。それは「最も悲惨な」「最も忌むべき」処刑の方法でした。釘で両手を固定され、最後は自らの体重で肺が潰れて呼吸困難で亡くなるのだそうです。ユダヤ人にとって十字架とは宗教的には呪いの象徴であり(申命記21:23)、政治的にも支配者ローマ帝国への憎しみが重なるという、それはとにかく忌みきらうべきものなのでした(ローマ帝国は歯向かう者を見せしめのために十字架につけた)。
<なぜキリストは十字架に>
神の子であるイエス・キリストが、なぜわざわざ人の姿で生まれ、そのような十字架にかかったのか。それは、神が私たちを愛し、私たちとの関係を回復させるためでした。イザヤ書53章4節から6節には、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かっていった」とあります。「わたしたちはみな」、羊飼いを無視して自分勝手な道に進む羊のように、神さまとの本来あるべき関係になかったのです。
<神との正しい関係とは>
モーセがシナイ山で与えられた律法とは、人が神さまとの正しい関係にあると認められるためのものでした。律法の中で何が一番大切かと言われて、イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を[無条件に]愛せよ」ということと、「あなたの隣人をあなた自身のように[無条件に]愛せよ」ということを挙げられました(
マタイ22:36〜40)。このように生きることが出来れば、人は神さまとの正しい関係にあると認められるのです。
しかし、律法を守りきれる人はいませんでした。私たちには無条件の愛はなく、状況や環境、条件に規定された愛しか私たちのうちにはありません。すべての人が律法を通しては神の前に義と認められない、律法を通しては神との正しい関係に入れないのでした。
そのままでは私たちは神さまとの関係を生きることは出来なかったのですが、しかし、神さまの方で無条件に私たちを愛してくださいました。罪を裁かれる神さまの正しさと、私たちを愛する神さまの愛が両立する究極の形がイエス様の十字架なのです。私たちを愛するが故に、キリストを十字架につけて裁いてくださったのです。私たちは、この方を方を信じるということを通して神さまとの正しい関係(義)に入ります。義と認められるのです。 (裏面に続く)
<パウロの例>
生粋のユダヤ人で超エリートの律法学者であったパウロは、律法を守ることに関しては誰にも負けない自負心を持っていました。しかし、その彼も結局、「むさぼってはならない」という律法の前に降参せざるを得ませんでした。ガラテヤ2:16には「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」とありますが、律法を守るですとか、何か徳を積むというようなことでは誰も救われないのです。しかし、律法を守れない私たちのために、罪のない神の子が十字架にかかってくださったと信じることによって、神さまとの関係が回復します。「律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められる」のです。
<キリストとともに十字架に>
Uコリント5:21には、キリストは私たちの身代わりに死なれたということ以上のことが書いてあります。イエス様は私たちの罪そのものとして死なれたということです。私たちの罪はあそこで処分されたのです。私たちは相変わらずの罪人ですが、その罪はもう処分済みだということなのです。私たちは自分の罪ゆえに、人を憎みもするし、自分を飾り立てようとするものです。しかし、イエス様の十字架を信じるなら、自分の罪はあそこに釘付けにされているのです。自分の手元にあるのはその残骸であって、その罪を握り締め、すがりついて離れない生き方はしなくてもいいのです。「赦されている者」として、解放されて生きていくことが出来ます。神との正しい関係に入った者として、軽やかに生きていくことが出来るのです。
これが、「私はキリストとともに十字架につけられました」ということの意味です。罪しかない、罪でしかない私は、キリストの十字架に一緒についているのです。私の罪はすべてあそこにあります。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」とは、律法を守ることによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるという福音(良き知らせ)に立って生きるということであり、それはよみがえられたイエス様と共に生きるということです。十字架にかかって三日目に確かによみがえられ、今も生きておられるキリストが、私たちの内に住んでくださるのです。
本来、十字架とは恥と呪いの象徴であり、普通なら受け入れられることではありません。しかし十字架にかけられたイエス・キリストを救い主と信じ、それどころか「私も共にそこにつきました」というのが聖書が伝える信仰です。罪でしかない自分が、イエス様の十字架で共に死んだということを信じ、「今私が肉にあって生きているのは」、つまり今このいのちをもって地上を生きているのは、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっている」のだということを信じます。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」との告白は、キリストの愛にとらえられたゆえのものです(ローマ8:39)。
このような生き方をするようになると、自分の罪に振り回される必要がなくなります。自分の弱さにこだわって卑屈になることもなくなりますし、人に対して意地を張って謝れないということもなくなります。正確に言うと、なくなる訳ではなく、自分の罪の残骸は依然として残りますし、その残骸につけ込んで「お前はまだ救われていないじゃないか」とサタンが囁いて来ます。それでも、こんな私をも神さまは愛してくださり、この私の罪を赦し、この私が神さまとの関係を回復するためにイエス様が十字架にかかったのだと信じる決心をするのです。勇気を持って、聖書に書いてあることを信じてみようかなと少しでも思ったなら、それは立派な信仰です。その先には、神さまとの関係が回復された生き方、神さまとの関係が回復された生涯が待っています(エレミヤ29:11)。
最後に、「私はキリストとともに十字架につけられました」と受身になっていることに注目したいと思います。信仰は、少しの勇気を持って踏み出すことだと言いましたが、しかし、後になって振り返ってみれば神さまが全部の責任をとって守って下さっていたことが分かると思います。その意味では、信仰は自分で獲得するものではなく、神様から与えられるものです。一見矛盾しているようですが、実は矛盾ではありません。神さまが全ての責任を取ってくださるから、安心してイエス様を信じてみて大丈夫なのです。その時、自分で神さまを選んだのではなく、神さまが自分を愛してくださり、選んでくださったのだということが分かると思います。
この方を信じ、この方に従っていく生き方は、自分自身から解放された軽やかなものです。自分が十字架についてしまうのですから。聖書の時代、十字架という言葉に人々は耳を疑いました、私たちも耳を疑うか、それともこの方とともに十字架に、という生き方を願うのか。それは私たちの選択に任されています。あなたは、どうなさいますか。
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