(2010年8月)


 ・ 8月29日
 ・ 8月22日
 ・ 8月15日
 ・ 8月8日
 ・ 8月1日
  








 8月29日

証:長島良暢兄

群馬県の生まれで18歳になるまでそこにいました。
親が言うには小さい時は元気一杯だったとのことでしたが、次第におとなしくて内向きの性格になったようです。
親の言う事もよく聞き、まじめな性格と見られ、小学生の時から知的好奇心が強くいろいろな本を読み、物知りと言われました。
大学ではヨーロッパ文明を専攻し、キリスト教についての知識が加わりました。
1990年5月にある人との出会いを通して、ある教会に導かれました。
元気で若者の多く楽しい雰囲気の教会でしたが、私には馴染めなかったので、そこを離れました。
他の団体を覗いたりしましたが、1995年に同じ人に再会して、再びその教会に行くようになり、イエス・キリストを信じました。
でもこの教会では、行いが伴わないといけない、他の人を救わないとダメというハードルの高いところがありました。
そのことに違和感を覚えていたところ、2000年の恵比寿のスーパーミッションに参加したときに、イエス様の救いを受け入れました。
2003年1月にはじめて久遠キリスト教会に来たところ、主の臨在を感じたので、続けて来るようになりました。
主は生きておられることを実感し、その時以来、御言葉が迫って来ました。
丹羽お母様がさまざまな経験を語ってくださったので、信仰の生証人と思い、感激しました。
その年の復活祭に洗礼を受けるように勧められたので、準備を進めていました。
丹羽e之牧師の「行くところを知らずして」「福音と律法」などを読んで、聖霊に触れられましたが、とても私には洗礼を受ける資格がないと思われ、そのイースターには洗礼を受けることができなくなってしまいました。
そのあと、聖霊の迫りによって体が震えたり、祈りが変えられました。
みことばが心のうちに入ってくる−生ける水が湧き出るように感じ(ヨハネ7:38)、うれしくて喜びがあふれました。
そして洗礼の準備祈祷会に参加して、ペンテコステの時に洗礼を受けることができました。
「私の体は私のものではなく、キリストのもの。」
主の言葉がストンと入って来ました。
その喜びの中で洗礼を受けられたことが、とても感謝でした。
「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)ということを実感しました。
主がともにおられる事実はすばらしいことです。
そのあとの歩みでは落ち込む事もありますが、受洗の時のことを思い起こすと感謝になります。
これからもキリストの者とされた人生を歩んでいきたいです。


メッセージ要約  主題: 「キリストとともに十字架に」 
                      
ガラテヤ2:20(田中殉伝道師)

<十字架とは>
「キリストとともに十字架につけられました」ということの意味を知るためには、まず十字架とは何かを知る必要があります。それは「最も悲惨な」「最も忌むべき」処刑の方法でした。釘で両手を固定され、最後は自らの体重で肺が潰れて呼吸困難で亡くなるのだそうです。ユダヤ人にとって十字架とは宗教的には呪いの象徴であり(申命記21:23)、政治的にも支配者ローマ帝国への憎しみが重なるという、それはとにかく忌みきらうべきものなのでした(ローマ帝国は歯向かう者を見せしめのために十字架につけた)。

<なぜキリストは十字架に>
神の子であるイエス・キリストが、なぜわざわざ人の姿で生まれ、そのような十字架にかかったのか。それは、神が私たちを愛し、私たちとの関係を回復させるためでした。イザヤ書53章4節から6節には、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かっていった」とあります。「わたしたちはみな」、羊飼いを無視して自分勝手な道に進む羊のように、神さまとの本来あるべき関係になかったのです。

<神との正しい関係とは>
モーセがシナイ山で与えられた律法とは、人が神さまとの正しい関係にあると認められるためのものでした。律法の中で何が一番大切かと言われて、イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を[無条件に]愛せよ」ということと、「あなたの隣人をあなた自身のように[無条件に]愛せよ」ということを挙げられました( マタイ22:36〜40)。このように生きることが出来れば、人は神さまとの正しい関係にあると認められるのです。
しかし、律法を守りきれる人はいませんでした。私たちには無条件の愛はなく、状況や環境、条件に規定された愛しか私たちのうちにはありません。すべての人が律法を通しては神の前に義と認められない、律法を通しては神との正しい関係に入れないのでした。                                                   
そのままでは私たちは神さまとの関係を生きることは出来なかったのですが、しかし、神さまの方で無条件に私たちを愛してくださいました。罪を裁かれる神さまの正しさと、私たちを愛する神さまの愛が両立する究極の形がイエス様の十字架なのです。私たちを愛するが故に、キリストを十字架につけて裁いてくださったのです。私たちは、この方を方を信じるということを通して神さまとの正しい関係(義)に入ります。義と認められるのです。                                          (裏面に続く)

<パウロの例>
生粋のユダヤ人で超エリートの律法学者であったパウロは、律法を守ることに関しては誰にも負けない自負心を持っていました。しかし、その彼も結局、「むさぼってはならない」という律法の前に降参せざるを得ませんでした。ガラテヤ2:16には「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」とありますが、律法を守るですとか、何か徳を積むというようなことでは誰も救われないのです。しかし、律法を守れない私たちのために、罪のない神の子が十字架にかかってくださったと信じることによって、神さまとの関係が回復します。「律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められる」のです。

<キリストとともに十字架に>
Uコリント5:21には、キリストは私たちの身代わりに死なれたということ以上のことが書いてあります。イエス様は私たちの罪そのものとして死なれたということです。私たちの罪はあそこで処分されたのです。私たちは相変わらずの罪人ですが、その罪はもう処分済みだということなのです。私たちは自分の罪ゆえに、人を憎みもするし、自分を飾り立てようとするものです。しかし、イエス様の十字架を信じるなら、自分の罪はあそこに釘付けにされているのです。自分の手元にあるのはその残骸であって、その罪を握り締め、すがりついて離れない生き方はしなくてもいいのです。「赦されている者」として、解放されて生きていくことが出来ます。神との正しい関係に入った者として、軽やかに生きていくことが出来るのです。
これが、「私はキリストとともに十字架につけられました」ということの意味です。罪しかない、罪でしかない私は、キリストの十字架に一緒についているのです。私の罪はすべてあそこにあります。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」とは、律法を守ることによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるという福音(良き知らせ)に立って生きるということであり、それはよみがえられたイエス様と共に生きるということです。十字架にかかって三日目に確かによみがえられ、今も生きておられるキリストが、私たちの内に住んでくださるのです。
本来、十字架とは恥と呪いの象徴であり、普通なら受け入れられることではありません。しかし十字架にかけられたイエス・キリストを救い主と信じ、それどころか「私も共にそこにつきました」というのが聖書が伝える信仰です。罪でしかない自分が、イエス様の十字架で共に死んだということを信じ、「今私が肉にあって生きているのは」、つまり今このいのちをもって地上を生きているのは、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっている」のだということを信じます。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」との告白は、キリストの愛にとらえられたゆえのものです(ローマ8:39)。
このような生き方をするようになると、自分の罪に振り回される必要がなくなります。自分の弱さにこだわって卑屈になることもなくなりますし、人に対して意地を張って謝れないということもなくなります。正確に言うと、なくなる訳ではなく、自分の罪の残骸は依然として残りますし、その残骸につけ込んで「お前はまだ救われていないじゃないか」とサタンが囁いて来ます。それでも、こんな私をも神さまは愛してくださり、この私の罪を赦し、この私が神さまとの関係を回復するためにイエス様が十字架にかかったのだと信じる決心をするのです。勇気を持って、聖書に書いてあることを信じてみようかなと少しでも思ったなら、それは立派な信仰です。その先には、神さまとの関係が回復された生き方、神さまとの関係が回復された生涯が待っています(エレミヤ29:11)。

最後に、「私はキリストとともに十字架につけられました」と受身になっていることに注目したいと思います。信仰は、少しの勇気を持って踏み出すことだと言いましたが、しかし、後になって振り返ってみれば神さまが全部の責任をとって守って下さっていたことが分かると思います。その意味では、信仰は自分で獲得するものではなく、神様から与えられるものです。一見矛盾しているようですが、実は矛盾ではありません。神さまが全ての責任を取ってくださるから、安心してイエス様を信じてみて大丈夫なのです。その時、自分で神さまを選んだのではなく、神さまが自分を愛してくださり、選んでくださったのだということが分かると思います。
この方を信じ、この方に従っていく生き方は、自分自身から解放された軽やかなものです。自分が十字架についてしまうのですから。聖書の時代、十字架という言葉に人々は耳を疑いました、私たちも耳を疑うか、それともこの方とともに十字架に、という生き方を願うのか。それは私たちの選択に任されています。あなたは、どうなさいますか。



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 8月22日
主題:「 神 の 宝 」   
         マラキ3:13〜18  (田中殉伝道師)


 マラキ書は、神さまとイスラエルの民の対話形式で進められるユニークな書物です。私たちは神さまに対してつぶやくことの多いものですが、イスラエルの民も神さまに対して相当つぶやいていたようです(13節)。それは、主の御言葉を信じて神殿を再建し、礼拝を再開したのに(ハガイ1:8)、苦しい生活状況が何も変わらなかったためです。一方で律法の教えを守らない人たちが豊かになっていく状況があり、礼拝への失望感と倦怠感に包まれた人々は、主なる神様に向けて「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」とつぶやきます(1:2)。神を知らない人たちがつぶやいたのではなく、神に期待して礼拝を再開させた人たちがつぶやいているのです。

<13節>
 人々は「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」と反論していますが、この「言う」という言葉が、原文では受け身になっています。「仮にそんなことを言っていたのだとしても、それを言わせているのはあなたです。」とでも言うかのような、責任の所在を神様の側に押しつけようとするかのような人の姿です。

<14節>
 「神に仕えるのはむなしい」とは、「神を礼拝するのはむなしい」ということと同じです。神に仕える祭司たちのつぶやきにとどまらず、多くの人たちが「神を礼拝するのはむなしいことだ」と言っていたのです。礼拝は人の使命です(イザヤ43:7)。しかしそれがむなしい、何の益になろうという言葉からは、礼拝をささげることで何かご利益を得られるような思い違いが伺えます。
 二番目に言われていることは、「神の戒めを守っても、何の益になろう」ということです。神の戒めとは、後にイエス様も総括されましたけれども、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、そして「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というものです(マタイ22:37〜40)。神を愛さないことだけでなく、隣人をも愛さないことが横行していました。
 三つ目に言われていることは「主の前で悲しんで歩む」ことの否定です。後にイエス様もこう言われました。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5:4)このことをさらにわかりやすく書き残したのが使徒パウロです。罪赦された喜びは、まず自分の罪を悲しむことがあってこそのものです(Uコリント7:10)。しかし、それが何の益になろうと人々はつぶやいています。

<15節>
 14節と15節は対応していて、「今、私たちは」という軸を中心にした線対称のように表現されています。15節の「高ぶる者が幸せである」という部分は、14節の「悲しんで歩くことの否定」と関連しています。罪を悲しむことを忘れると、人は高慢になるということです。「わたしはあなたの罪を思い出さない」というのは神さまの側から言ってくださることであって、私たちの側では「この罪を赦してくださっているのですか、ありがとうございます」という感謝をするべきです。
 線対称で表現されることの二番目は「悪を行っても栄える」というものです。これは14節では「神の戒めを守ることの否定」の部分に当たります。神の戒めとは、神を愛し、隣人を自分のように愛するということです。しかし、神の戒めを否定し、むしろ積極的に悪を行うのだと言います。悪を行っているのに栄えている人を見ると、うらやましくなるということかもしれません。
 そして最後が「神を試みても罰を免れる」というものです。これは、14節の「神に仕えるのはむなしい」ということ関連づけられています。礼拝とは、神に仕えることであって神を試みることではありません。信仰とは、神を信頼することであって、神を試みることではありません。10節にある「わたしをためしてみよ」という表現も、神との正常な関係に戻ることを呼びかける逆説的な表現です。神さまは、ご自身を信頼するようにと呼びかけておられるのです。
 このように線対称で配置された文体では、その中心部分が一番の強調点です(15節の「今、私たちは」という部分)。単語としても強い言葉が使われており、「今、私たちは」というところは二重に強調されていることになります。ここは、後々マラキ書を読む人々が自分を重ねて読むべきところです。神への礼拝に失望し、教会生活に倦怠感を覚え、神を信頼しない世の中、神を神とせず、罪を悲しむこともなく高ぶる世の中に、「今、私たちは」と迎合していく、そんなことがないでしょうか。
 ヨハネの福音書10:24、25には、ユダヤ人たちがイエス様に「あなたはキリストなのですか、どうなのですか。はっきり言ってください」と迫る場面があります。しかし、いかに気をもむ状況であっても、主はご自分を信頼するようにと励まされるのです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」(10:27)主を信頼することが難しいような状況だからこそ、心の耳、霊の耳を澄ませ、主の声を聞き分けたいものです。イスラエルの民は主に信頼することを辞めてしまいました。それは、彼らが目の前の状況ばかりを見、ただ一方的な憐れみで選び愛してくださった方の声を聞こうとしなかったからなのです。
                                  
<16節>
 しかし、選ばれるはずのない私たちが選ばれたという事実を思い出し、主への感謝を持つ者たちが、互いに語り合うとき、主はそれを聞かれるという希望あふれる記述が始まります。この人たちは、それまでの人とは全く別の聖い人々ではありません。この人たちも、イスラエルの悲惨な状況の中で生きており、神を疑うこともあったでしょう。しかし主を恐れ、主の御名を尊ぶことを思い出したのです。「語り合った」の「語る」という言葉も受身形です。悔い改めや回復が、神様から与えられるということを表しているのでしょう。だから安心できます。私たちは神様に対して不平不満ばかり言ってしまう存在であり、自分からは悔い改めることすらままなりません。しかし、神様が悔い改めを与えて下さるのです。そして自分たちで勝手に思い描いていた栄光ではなく、神様が約束して下さった栄光を待ち望む民として、互いに希望を語り合う交わりにして下さるということなのです。
 そして「主は耳を傾けて、これを聞かれ」ました。主なる神さまは、私たちの祈りを聞いてくださるお方、私たちの声を聞いてくださるお方です。羊飼いなる神さまは、羊である私たちの声を知っておられるのです。そしてその祈りを聞いていてくださいます。主を恐れる立派な祈りじゃないと聞かれないのではありません。日々の暮らしの中で、神さまに対して「かたくななことを言う」しかない状況があります。この時のイスラエルの民のように、神を礼拝して何の良いことがある?とつぶやくしかない、つぶやかざるを得ない、そんな状況があります。しかし、聖霊なる神は私たちに祈りを与えて下さいます。どう祈ったら良いのか分からない、そんな呻きかもしれません。しかし、「主は耳を傾けて」それを聞いてくださいます。
 彼らは「互いに」語り合いました。信仰生活は共同体的なものです。主への礼拝者は、神の民として表現されます。たとい人数は少なくても、神さまから与えられた悔い改めや祈りを共有し、選ばれるはずのない私たちが選ばれたという事実に対する、恐れにも似た感謝の思いを互いに語り合う交わりでありたいと思います(マタイ18:20)。
そしてその交わりは、記憶の書に記されるとあります。永遠の神の記憶の書に記されたのなら、その事実が失われることはありません。「記憶の書」という言葉は聖書の中でここにしか出て来ません。神さまは、礼拝の民を忘れてはおられないのです。

<17節>
 その書に記された者たちは「神の宝」と呼ばれます(17節)。私たちは簡単に神に失望するものかもしれません。しかし「自分は宝と呼ばれるに値しない」などと恐れる必要はないのです。宝としての私たちを何が何でも守り抜く、主の愛があるからです。私たちは、自分たちの内に何か誇れるものがあったから、選ばれるべくして選ばれたのではありません。私たちの内には何もない、罪しかない、「しかし、主があなたを愛されたから」、私たちは宝の民なのです(申命記7:6〜9a)。これが神の愛です。無条件に神さまは私たちを愛し、神の民として生きるようにと招き入れてくださいました。だから私たちは礼拝をし、神さまの栄光を誉めたたえるのです。
 「わたしがことを行う日」とあります。やがて来る終末のことと同時に、イエス様の十字架という出来事を重ねることも出来ます(4:2)。主がなされることであるキリストの十字架を信じる者は、神のもの、神の宝なのです。マラキ書冒頭の「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」という疑問に対する究極的な答えは、「わたしのひとり子を与えるほどに」ということです。神さまは、私たちを愛するが故に、私たちが罪を赦されたものとして生きるために、罪のないひとり子イエス・キリストを十字架にかけるため世に遣わされたのです。
 17節後半には、「人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ」とありますが、つまり、神さまは私たちの父であるということです。イスラエル民族は父なる神さまと契約を結びましたが(2:10)、彼らはそれを守り切ることは出来ませんでした。しかし主は私たちをあわれんでくださったのです。律法の要求することをすべて完成させるため、罪のないひとり子イエス・キリストを十字架にかけるほどに、私たちをあわれんでくださったのです。

<18節>
 高ぶる者こそしあわせ者だ、悪を行う者こそが栄えるのだ、神を試みても罰は免れる、そのように言ってしまう私たちですけれども、再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになるのです。神に仕えるということの、つまり神を礼拝するということの喜びが回復するという約束です。

 さあ、私たちは神の宝です。神への礼拝を、神と人とを愛し仕えるということを、そして主に信頼して罪を悔い改めることをあきらめずに、地上の歩みを続けていこうではありませんか。神に従う生き方に幻滅を覚える時は、聖霊に助けを求めましょう。私たちの名前は、神の記憶の書に記されているのです。交わりをあきらめずに、主の素晴らしさを語り合っていこうではありませんか。臆することなく自らの罪を認め、悲しみ、しかしそれゆえの十字架への感謝を互いに語り合っていきましょう。神がそれを聞いておられます。



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 8月15日
主題:「神の国の福音」    
        マルコ1:15 (田中殉伝道師)


公に活動を開始されたイエス・キリストの第一声は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」というものでした(15節)。福音の中心はどこまでもキリストの十字架ですが(ヨハ3:16、Tペテ2:24など)、主がまず初めにあえて「神の国」と表現されたことを見落としてはなりません。「神の国」とは、十字架を理解する出発点です。
<「時が満ち」>
 「時」(カイロス)とは、ちょうどよい時や機会をあらわす言葉です。「満ちる」とは実現するという意味です。イエス様は、神さまのタイミングによって「新しい事」が始まりつつあるとおっしゃったのです。福音とは、旧約聖書の時代から人々が待ち続けてきた神の約束、時が満ちてついに与えられ実現した新しいものです(マコ1:1−3)。私たちが信じる福音は、ついに与えられて実現した新しい事なのです(イザヤ43:19)。
<神の国=神の支配>
 神の国とは、天上の楽園のことではなく、この地上における神さまの支配のことです(T歴代17:14、イザ44:6)。イスラエルの王国のみならず、神さまは王としてこの世界すべてを支配しておられます(詩篇103:19)。「時が満ち、神の国が近づいた」といわれる前から、神さまはこの世界を支配しておられたわけですが、「近づいた」という完了形は「神の国」という主語を強調するニュアンスになっています。あえて今一度、近づくと言われるからには、神の国とは新しく始まる決定的に重大なものです。
<神の国の王は十字架のキリスト>
 十字架にかけられるために捕らえられた場面で、イエス様は「こうなったのは、聖書のことばが実現するためです」とおっしゃいましたが(マコ14:49)、この「実現する」という言葉は、時が「満ちる」という言葉と同じ言葉です。十字架上でのイエス様の最後の言葉は「完了した」というものでしたが(ヨハ19:30)、神の国は、イエス・キリストが十字架にかかることにおいて実現したのでした。
 聖書は十字架のイエス様を神の国の王として描いています。十字架にかかるためにエルサレムに来られたイエス様は(マコ10:33、34)、ろばの子に乗って、まさに神の国の王として都に入城されました(11:1−10)。イエス様が頭からナルドの香油を注がれたのは、埋葬の用意にということでしたが(14:3、8)、それは王としての即位のしるしです。捕らえられたイエス様がむち打たれて、体中から流れ出した血が渇く間もなく無理矢理着せられ、そして剥がされたその衣は王のしるしである紫色でした。王冠ではなく、いばらの冠をかぶせられ、兵士たちからは「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫ばれて侮辱されました(15:17−20)。罪状書きには「ユダヤ人の王」と掲げられます(15:26)。時が満ち、ついに実現した神の国の支配者、神の国の王は、私たちの罪のために十字架にかかってくださった王なのです。
<神の国の民の証>
 神の国では、その民は王が私たちのためにしてくれたことを覚え、王に倣って生きることがその民の証です。まず、王であるイエス様が私たちのためにしてくれたこととは、もちろん十字架です。イエス様は神であられる御方なのに、私たちの罪が赦されるために十字架にかかって死なれました。聖書が言う罪とは、ギリシャ語ではハマルティア(的外れ)、ヘブル語ではハーター(隠す)という言葉で表現されますが、聖書が示す神から的を外していること、または隠れることです。例えば「神は(無条件の)愛です」と聖書に書いてありますが、私たちには無条件の愛はありません。神の性質と相容れず、私たちは罪人なのです。神から外れた存在であり、そんな自分を認めないで神から隠れ続ける存在です。その罪が赦されるために、イエス様は十字架にかかってくださいました。それは、私たちが罪赦され、神の国の人間として歩むためなのです。キリストがいのちを捨てられたのは「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです」と書いてありますが(ヨハ3:16)、永遠のいのちとは、死んだ後にあの世でいただくものではなく、神の国の民として生きることから始まります。イエス様は、十字架によって私たちを神の国へと入れてくださったのです。神の民は、そのことを覚え続けます。
 神の民の証のもう一つは、王であるイエス様に倣うこと、従うことです。私たちは自分自身が罪人であり、人の罪を赦すために自分をささげることは出来ません。しかし、神さまのご計画に従うという点では、イエス様に倣って生きるのです。ピリピ2章6節以降には、イエス様が神のあり方を捨てて十字架にまでつかれたということが書かれてありますが(キリストの謙卑)、その文脈で12節には「自分の救いの達成に努めなさい」とあります。罪の赦しという意味での救いはイエス様に完成していただくものですから、ここで言われているのはイエス様と似たものに変えられていくということ(聖化)についてです。ローマ12:2にあるように、私たちは「自分を変えていただく(原文は受身)ために心を一新させて祈る」必要があります。イエス様もゲツセマネの園で神のご計画に自分を明け渡す祈りをされました(マコ14:36)。自分で自分を変えることは出来ませんが、聖霊がキリストに似たものとして変えてくださることを祈り求めるべきなのです。
 それはつまり、自分に死ぬということです(ガラ2:20)。十字架にかけられたのは、敢えて言うなら麗しいイエス様ではなく、この私の罪であり汚れであるということを知ればこそ、私の罪はキリストの十字架で完全に死んだということが分かります。イエス様は私たちの罪そのものとして十字架で処分されてくださったのです(Uコリ5:21)。そのことを信じ、自分の罪、自分の自我はすべて十字架で処分されたと信じるということが、神の支配に入るということです。
自分の罪は十字架上で処分されて死んだものなのに、私たちはなおそこにとどまり、それを握り締め、そこから離れることが出来ないということがあります。イエス様の十字架で罪の自分はもう死んだのだということに、今一度立ち帰る必要があります。キリストとともに死んだ者として、復活のキリストとともに生きる。これがキリスト者の生き方、神の国に生きる人の生き方なのです。
<神の国は共同体的>
 そしてまた、神の国という言葉に表されるように、神の支配は共同体的です。信仰が神さまとの一対一の関係であることは大前提ですが、信仰生活とは共同体的なものなのです。初代教会以降の教会の歴史の中で確認されて来た大切な告白である「使徒信条」では、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」が聖霊のわざとして分類されています。聖霊が導かれるのは個人主義的な信仰ではなく、聖なる公同の教会(歴史と空間をも超越したすべてのクリスチャンの総体、キリストのからだのこと)です。聖書はクリスチャンを神の民として表現し、また、新約聖書の書簡の多くは教会という共同体に向けて書かれました。信仰は「聖徒の交わり」、つまりクリスチャンが共に語り合い祈りあい助け合う交わりの中で形成されていきます。ローマ12章は共同体的な生き方の良い例です。礼拝についての有名な御言葉(1節)に続く文脈で、「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣く」という共同体の生き方が示されています(9節?17節)。神を礼拝する者は、神との縦の関係だけでなく横のつながりも大切にします。ちょうど、縦の線と横の線が交わると十字架の形になるように、キリストの十字架によって罪赦された者にとって、神への礼拝と共同体での交わりは矛盾するものではありません。福音とは、自分が死んだ後天国に行くため以上のものです。キリストの十字架を信じる生き方へ、生活のあらゆる領域において十字架のキリストを王とする生き方へ、そして、神の国という共同体へ招かれるという意味での「良い知らせ」なのです。
<今年も8月15日を迎えて>
 信仰とは共同体的なものであるということを踏まえる時に、私たちは先の戦争中の教会の罪を忘れるわけにはいきません。キリストのからだとは時代も場所も超越したクリスチャンの共同体であり、あの時代のことと簡単に片付けてよい問題ではないのです。同じ罪を今の私たちも持っているからです。先の大戦中、日本のキリスト教会の多くは神社参拝の強制に屈服し、礼拝の中で天皇を賛美する歌を歌う始末でした。しかも、それを日本の支配下にあったアジアの諸教会に対して説得しにかかったのです。すべての教会がそうだったわけではなく、天皇を神とする国体と相容れないとして、ホーリネスや美濃ミッションなどの教団からは多くの殉教者が出ました。私たちの教会はと言えば、無教会的な小さな集会であり、特高警察の干渉を受けることもなかったといいます。徴用令を受けた丹羽先生は軍需工場で若者の教育をする立場におかれたということですが、そこではとくに神社参拝や宮城遥拝もなく感謝であったということが教会の五十年史に書かれてあります。しかし、私たちの教会は偶像礼拝の罪とは無関係であったとは言えません。預言者ダニエルは、自分よりも前の世代が犯した偶像礼拝の罪のことを「私たちは罪を犯した」と告白していますが(ダニ9:5)、彼の信仰は共同体的なものでした。私たちも、ほんの数十年前の歴史を忘れてはなりません。そして、同じ罪が自分の中にある、同じ弱さが自分の中にはあるということを自覚するべきです。なぜなら、形や程度の差こそあれ、私たちはいつも同じ問題にさらされているからです。まことの神以外のものを神であるかのようにしてしまうなら、それは偶像礼拝なのです。
 文字通りの偶像礼拝の危険性も消えたわけではありません。日本という国は、「天皇を神とする国家神道で規定された文化社会」であるといいます。今から22年前、戦争に負けて人間宣言をしたはずの天皇が神になる儀式、大嘗祭が国費をもって大々的に実施されました。日本という国は国家神道という枠組みを持っていて、私たちはその中で生きています。天皇制を利用した戦争が二度と起こらないとは、誰が言えるでしょう。しかし、私たちに言わせれば、日本は「キリストを中心とした神の国」であるべきです。キリストの十字架の福音は、この国をもその支配下に置いているからです。この国は、今こそキリストの十字架の福音を求めています。弱者が虐げられ、不正がまかり通っている世の中に一番必要なものは、聖書が語る神の国の福音です。十字架で罪赦された者は、偶像礼拝の罪にも不正の罪にもしがみつく必要はないのです。そのことを先に知らされている私たちは、神の国の人間として、派遣先であるこの日本のために仕えるべきです。政治の情勢をよく見張り、私たちの愛する日本が迷走していかないように、とりなしの祈りをしていく必要があります。まずは身の回りの地域社会から、自分に出来る形で神の国の福音を証していきましょう。
 8月15日は日本にとっては敗戦の日ですが、お隣の韓国にとっては「光復節」と呼ばれる日です。神の国の民であるクリスチャンには、この世のどんな政治家にも出来ない和解が可能です。聖霊の働きである「聖徒の交わり」の中に入れられているからです。数年前、韓国へ行った際に向こうの方にこう言われました。「片方が謝り、片方は謝られるという関係から、福音のために互いに協力し合う関係になりたい。」福音のために、神の国の福音のために協力し合う。そのような関係として、韓国に姉妹教会が与えられていることは本当に感謝なことです。
 海を越えての話だけでなく、身近なこの教会という日常の中で、またそれぞれに遣わされた地で、私たちは、十字架に掛けられた主イエスを王とします。主はよみがえられ、天に上り、私たちが主と同じ姿に変えられていくために聖霊を送ってくださいました。私たちが神の国の民として十字架の福音に生きることが出来るようにと、主は御言葉と聖霊をもって導いてくださいます。時が満ち、ついに実現した十字架の福音を握って、神の国の人間として、この地上の社会を歩んでいこうではありませんか。





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 8月8日
主題:「栄光へと変え続ける主の働き」 
               Uコリント3:12−18 (三浦真信牧師)

コリント教会に入り込んできた律法主義者たちの考えに引きずられてパウロの伝える福音に反発する人たちに対して、パウロ自身は「新しい契約」に仕えている者であることを強調してきました。
モーセを代表とする「古い契約」は、民たちが律法に従い、神は従う民たちを祝福するという協定でした。
どこまでも神の戒めを行うという、「行い」が強調されていました。
しかしその律法の前に明らかにされたことは、人はどこまでも神の戒めを守ることはできない罪ある存在であることでした。
人間の力、人間の良い行い、人間の努力によっては、どんなに頑張っても神の基準には到達できず、いよいよ罪悪感に悩むか、表面上取り繕って偽善を演じるしかありませんでした。
しかし神は、罪に悩み、神との間にどこまでいっても壁を感じるしかない私たち人間のために、神の子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。
キリストを信じて完全に罪から解放される救いの道を、神の側から一方的に提供してくださったのです。
これが新しい契約です。それは相互協定ではなく、神から一方的に差し出されたものを、人間の側は感謝して受け取るだけでよいという、すべて神の主権により頼む契約なのです。
そしてこのキリストを信じることによって人が救われるという栄光は、永遠に続くのです(11節)。
キリストが来られたことで、古い契約は終わったのです。
キリストが来られるまでは、それによって保たれていた神と人との関係が、キリストが来られたことによって、新しい関係に入ったのです。
このキリストが本体であって、永遠に続く契約の基なのです。

<12節>
新しい契約に仕えるパウロたち(使徒)は、このように永続する望みをキリストからいただいているので、大胆に語ります。

<13〜15節>
13節は、出エジプト34:33〜35のことを例にしています。
モーセが神と話すときに光り輝いた栄光は一時的なので、時間が経つと消えました。
モーセは、その輝きが消えるところを人々に見せないように、顔におおいをかけたとパウロは言うのです。
このように、モーセの光り輝く栄光はすぐに消え去る一時的なものだったのです。
律法を土台とする古い契約も同じです。
しかし、キリストの永遠に変わることのない栄光によって救われた私たちは、そのようなおおいを掛ける必要はないのです。
なぜなら、永遠に消え去ることのない栄光の救いをいただいているからです。
それなのにユダヤ人律法主義者達たちは、「古い契約」(14節)、「モーセの 書」(15節)が朗読される時に、常に心におおいが掛けられていて、古い契約の時と 同じような律法の読み方をし続けているとパウロは指摘します。
律法を行うことによっては誰一人救われえない不完全な者であることが明らかにされて、罪に悩む者を救うために神の側で救い主イエス・キリストを送って下さったのに、彼らはキリストを受け入れず、どこまでも古い契約にしがみついていきました。
「今までのように古い契約で、律法主義者として生きます。キリストの力は借りません。
何としても自分たちの立派な行いで、神を喜ばせて見せます」と、どこまでも自分たちの思いに固執し、神が与えてくださった恵みにより頼むことをせず、かえって神のみこころに逆らうことをしていく結果になったのです。
この「心のおおい」は、「キリストによって取り除かれる」ものなのです。

<16節>
パウロは、この「おおい」が取り除かれるためには、「人が主(キリスト)に向く」しかないと言います。
主に向くなら、今神が何を求めておられるかが分かるはずなのです。
主に向かないで、自分の今までの生き方、価値観、過去の体験などにしがみついて、そこから離れようとしないから、ずっとそのおおいがかぶさった状態でいるのです。
空っぽな心になって今、「人が主に向く」なら、今神が私たちに差し出して下さっている新しいことを受け取ることができるのです。

<17節>
3章6節との関連で、「御霊」が再び出てきます。
モーセに与えられた十戒は、石の板に刻まれた文字でした。
しかしそれは、私たちに有罪判決をくだし、罪の結果である死を宣告するものでした(「文字は殺し御霊は生かす」)。
でも今キリストの恵みを知らせる御霊は、私たちにキリストを通して完全な罪の赦しがあり、永遠のいのちが与えられる希望があることを約束します。
驚くべき解放と自由を、御霊は私たちに与えてくださるのです。
奴隷としてではなく、私たちを神の子としてくださる関係に導きいれてくださったのです(ガラテヤ4:6〜7)。
天における相続人としてくださったのです。

<18節>
そして御霊は、私たちの、「古い契約に留まろうとする心のおおい」を取り除けて、いよいよキリストに向かわせます。
今は新しい契約に立って律法を読みます。
律法により罪ある存在だと知らされ、キリストの十字架によらなければ救われない者であることをいよいよはっきりされていきます。
ですから「この罪人をあわれんでください」と、いよいよキリストに向かって叫ばずにはいられないのです。
でも実際には、キリストの元に確かな罪の赦しがあるので、罪の束縛から解放され自由にされていくのです。
私たちの中からは栄光など何も出てきませんが、「主キリストが鏡のように照らし反射してくださる栄光を受け、「栄光から栄光へと主と同じかたちに」私たちは変えられていくのです。
人が主に向くなら、御霊は時間をかけて、その人を主と同じ姿に変え続けてくださるのです。
でも完全に「主と同じ姿に変えられる」のは、救いが完成される終わりの日です。
御霊なる主は、主に向く一人一人を、栄光から栄光へと変え続けてくださいます。
だから私たちは主にあっては、自分にも人にも望みを失う必要はありません。
(主がおられなければ、自分を見ても人を見ても絶望するしかありません)
今不完全であっても、足りないだらけでも、どうしようもない弱さがあったとしても、 御霊なる主が時間をかけて取り扱って下さるから大丈夫です。
「人が主に向くなら」あらゆることに希望が与えられるのです。
御霊なる主は、主に向く一人一人から「心のおおい」を取り除いて、真の自由を与え、栄光から栄光へと変え続けてくださいます。
自分の弱さにおいても、人の抱えている課題に対しても、主の取り扱いが必ずあることを信じて、まず私自身がしっかり主に向いていきましょう。




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