主題: 「幸いなことよ」
詩篇1:1〜6 (田中殉伝道師)
「幸いなことよ」と始まる出だしは、イエス様の有名な山上の垂訓を思い出させます(マタイ5:3、原文では「幸いです」が文頭)。
「幸いなことよ」とまず切り出して、聖書は私たちに幸いとは何かを教えているのです。
それは、誰かにとっては幸いだけれども、誰かにとっては幸いではないというような種類の幸福ではなく、全ての人にとっての絶対的な幸いです。
人々の価値観が相対化される世の中にあっても、絶対的な存在である神様が言われる以上、そこに約束される幸いは絶対的な幸いなのです。
<1節>
まず「悪者のはかりごとに歩まず」とあります。
悪のはかりごとは先へ先へと歩み進めてしまうものではないでしょうか。
一度陥ったら最後、とことんその思いを煮詰めないと気がすまないということがあります。
また「罪人の道」とありますから、それは一度入ったら引き返せない高速道路の入り口のようなものかもしれません。
そこに歩まず、立たない者は幸いだと言います。
そして「あざける者の座につかない」とも言われます。
悪、罪、と来ていますので、ここでは神をあざけるということについて言われているようです。
罪の道を歩み続けるとは、どっかりとあぐらをかいて、そこに座して、居直って神をあざけるということ、自分が神となることです。
それをしないということが幸いなのだということです。
<2節>
この三つの否定形は、「?してはならない」という十戒を思い出させます。
2節に「主の教え」とありますが、この「教え」とはトーラー、律法のことです。イエス様が批判されたのは律法主義であって、神の律法そのものではありません。
詩篇の作者が歌うように、「主の教え」である律法を喜び、昼も夜もそれを口ずさむ人は幸いなのです。
昼も夜もそれを口ずさむとは、お経のようにそれを唱えるということではなくて、そのように生きるということです。
律法の通りに生きる生き方は幸いなのです。
<3節>
「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。」水路は複数形、木は単数形で記されています。
たくさんの水路に囲まれた一本の木が水分や養分を一身に受けるように、神様の恵みを一身に受けて豊かな実を実らせる人生を送ることが出来たなら「何をしても栄える」、まさに「幸いな」人生だと言えるでしょう。
<私たちの現実は>
しかし、私たちは、悪者のはかりごとに歩んでしまうのです。
罪人の道に立ち、神をあざけってどっかりと座り込むのが私たちです。
主のおしえを喜びとし、その通りに生きることが出来ないのが私たちなのです。
律法が教える通りに生きることが出来れば義と認められるというのであれば、私たちは誰一人義と認められることはありません。私たちは誰一人幸いではないということになります。
<4節>
その意味では、私たちの現実は4節にある「悪者」です。
悪者は風が吹き飛ばすもみがらのようだと言います。
もみがらはヘブル語でモーツ、そして3節の木はエーツで、ちょっとした言葉遊びになっています。
上手いことを言うなと笑うべきところかもしれませんが、笑えないのです。
風に吹き飛ばされ、さばき(つまり神様の正しさ)の中に立ちおおせない。
正しい者の集いに立てないというのですから、これは正しい者と悪者の違いは決定的だということです。
エーツとモーツは決定的に違うのです。
そして私たちはエーツに憧れますけれども、自分の実体としてはどこまでもモーツ、もみがらなのです。
<「その人」とは>
このモーツ、もみがらを救い出すために、エーツ、木であるお方がもみがらの立場になってくださった。
もみがらとして吹き飛ばされてくださったとしたら、どうでしょう。
そのことのゆえに、私たち本来のもみがらは、依然としてもみがらなのにもう吹き飛ばされる心配はないとしたら。
1節で「幸いなことよ」と歌われた「その人」。
主の教えを口ずさみ、その通りに生きた「その人」には、定冠詞「ハー」がついています。
英語で言えば「the man」、それはイエス様に他なりません。
詩篇もまた、旧約聖書としてイエス・キリストについて預言している書物なのです(ルカ24:44)。
「幸いな人」とは、まさにイエス様のことだったのです。
ガラテヤ4:4,5には、律法を与えた側の神であるお方が、律法の下にある者となってくださったとあります。
律法を完全に守ることのできない私たちのために、イエス様がわざわざ人として生まれてくださり、律法の要求を完全に全うして十字架にかかってくださったのです。
(裏面に続く)
そのことを信じる信仰を通して、私たち自身はもみがらのままであっても、律法の通りに生きることが出来ないままであっても、もうさばかれることはありません。
イエス様が私のためにさばかれてくださったので、私は赦された者として、義しいと認められた者として生きることが出来ます。
これこそが、聖書が言う絶対的に幸いな生き方なのです。
これ以上に幸いな生き方はありません。
<6節a>
原文では文頭に「?だからだ」という接続詞があり、5節からの流れで「悪者はさばきの中に立ちおおせない。
罪人は正しい者のつどいに立てない。
それは、主が、正しい者の道を知っておられるからだ」となります。
正しい者と悪者は決定的に違うのです。
主は、正しさと罪の違いをあいまいにされるお方ではありません。
主の前に、その違いは明らかなのです。
そして、律法を読む限り私たちは明らかに悪者です。
<パウロ>
パウロも、むさぼってはならないという律法の前に、自分の罪を認めざるを得ませんでした(ローマ7:7)。
晩年の彼は、自分のことを「罪人のかしら」とまで表現するようになります(第一テモテ1:15)。
どこまで行っても、自分は罪人であることがいよいよ明らかになっていったのです。
しかし、パウロはこうも言っています。
「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2)
イエス・キリストのゆえに、もみがらの私たちが吹き飛ばされることは決してないということです。
<6節b>
詩篇一篇は、「悪者の道は滅び失せる」というショッキングな終わり方で幕を閉じます。
イエス様の救いがなければ滅びなのだということを強調した表現です。
ここをあいまいにしてはいけません。
幸いなことよと始まり、滅び失せると終わる。
この二つは対極にあります。この対極を橋渡ししてくださるのは、イエス様だけなのです。
<イエス・キリストにある幸いな生き方>
木であるお方が、そのあり方を捨てられないとは考えず、もみがらと同じようになられってくださいました(ピリピ2:6-8)。
そして吹き飛ばされてくださったのです。私たちの罪が赦されるために、十字架の上でさばかれてくださったのです。
そしてそれだけではなく、キリストはよみがえられました(ローマ4:25)。
このよみがえって今も天で私たちのためにとりなして祈っていて下さるお方と、聖霊によってともに生きることが出来る。
これが「幸いな」生き方なのです。
もみがらのような私たちのために、父なる神のさばきを一身に受けてくださったイエス様の愛ゆえに、私たちは「まことのいのち」を得ました(第一ヨハネ4:9,10)。
もみがらのままでも義しいと認められ、神と共に生きることが出来る。
これが聖書の言う「幸いな」生き方なのです。
<詩篇を告白する>
詩篇の第一篇は、幸いな生き方への憧れとでも言うような簡単な内容ではありません。
私たちにとって真の「幸い」とは、イエス・キリストしかないのだという告白です。
それは、人によって違うというような種類の幸せではなくて、絶対的な存在である神様が約束して下さった幸いです。
そして、その告白は賛美として、祈りとして、礼拝で共有されるものです。
詩篇はただ読むものではなく、歌として、賛美として告白していくものなのです。
個人的に神様に祈るデボーションの時間はもちろんのこと、みなで集まってささげる礼拝の場所で、共に主に向けて告白していきましょう。
私たちにとって「幸い」とは、イエス・キリストしかいないのです。
この告白を、主への賛美としてささげていきましょう。
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