(2010年10月)

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 10月31日
第1礼拝「語る神、聴く民」(詩篇19:1-14) 
          山口陽一師(東京基督神学校校長)


神の栄光のみ、聖書のみ、恩寵のみ−。
宗教改革で確認されたこれら私たちの信仰にとって大事な事柄を、詩篇19篇を通して思い巡らしたいと思います。
19篇は以下の3つに分かれ、また1から6節には2回「神」という一般名詞が、そして7節から11節には立て続けに「主」(ヤハウェ)という私たちの神の固有のお名前が出てきます。
また、ほぼ同じ意味の言葉を繰り返すヘブルの詩に特徴的な技法が随所に見られる詩篇でもあります。


<1節から6節・自然が啓示する神>

 一行目と二行目、三行目と四行目がそれぞれ並行しているだけでなく、「天」と「昼」、また「大空」と「夜」が並行関係にあるようです。
拡大を続ける宇宙の小さな点である地球にあって、天や大空の大きさは圧倒的です。
それらが神の栄光と御手のわざを語り告げるとは、創造主を誉めたたえるのにふさわしい賛美だと言えるでしょう。
しかし、語り告げるとは言っても目でこれを見るわけです。
話もことばも声もない沈黙に気づき、それを意識した所で4節以下が響いてきます。
騒がしいこの時代にあって、私たちは、この世界を通して語っておられる神様を静かに考えるという姿勢を取り戻すべきでしょう。
白み始めた東の空がやがて赤みを帯びて、そこから一気に光が放たれる太陽はまたたく間に全地を覆います。
その熱を恵みとして受けないものは何もないのです(マタイ5:45)。
しかしこの詩は太陽を神とはしていません。
太陽を神とする信仰が溢れていた古代の世界の中で、旧約聖書が示す生き方は格段に違います。
太陽も、天も大空も神の栄光を語り告げる被造物に過ぎないとの揺るぎない確信をここから読み取ることができます。
神の栄光は自然の沈黙を通して啓示されましたが、人は堕落後何と多く神を形にしたがり、神の荘厳を目に見える形にしたがったことでしょうか。
しかし神が人に求めたもうのは、自然の中に啓示されたご自身の栄光を目に見えるものにすることではなく、沈黙の中に啓示されたご自身の「ことば」に聴くことでした。
ある天文物理学者は「天文学が語る宇宙の起源と創世記の記述は本質的に同じである」と語ります。
ヒトゲノムの全塩基配列を解析したような科学者も「DNAのコードは、神がいのちを形作るのに用いた言語である」と語っています。
彼らは神の造られた世界の中に語り明かされている神を聞き取っている人たちなのでしょう。
聞く耳のある者にはその声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てにまで「はっきりと」届いているのです(ローマ1:20)。
しかし、それをなかなかとらえられない人間の現実、また聖書の啓示の明瞭さに比べると、自然の啓示はぼんやりしているとも言えます。
宗教改革者カルヴァンは「聖書とは眼鏡のようなものだ」と言いました。
自然の啓示ではぼんやりしている神様が、聖書という眼鏡によってはっきりと見えてくるのだということです。
私たちは自然の啓示だけでなく、御言葉の啓示もいただいているのです。
続く7節以下にはそのような御言葉の役割が見事に描かれています。


<7節から11節・聖書が啓示する主>

 「みおしえ」「あかし」「戒め」「仰せ」「さばき」、みな同じ一つのことです。
神のことば、神の律法です。神のことばは人を生き返らせ、わきまえのない者を賢くし、人の心を喜ばせ、人の目を明るくするのです。
これが聖書の力です。
このような御言葉の力を歌い上げる要点においては、全176節にわたる詩篇119篇にも負けていません。
御言葉は金より好ましく蜜よりも甘く、何ものにも替えられないものです。
なぜならば、それがなければ生き返ることがないのです。
わきまえのない者はわきまえのないまま、本当の喜びもなく、暗いままだからです。
このような実感を持って聖書を読みたいものです。
御言葉に従うことに伴う神様の祝福をもってこの部分は終わります(11節)。
 7節から9節を拡大するようにして御言葉の麗しさを歌い上げているのが119篇です。
「みおしえ」から「さばき」まで満遍なく歌われています。
その中で9節の「主への恐れ」は御言葉のことではなく、御言葉によってもたらされるものです。
これは119篇においても二回しか出てきません。
少ない言葉で、御言葉に聴いた結果恐れが与えられることの大切さが語られています。
御言葉の約束が罪人の上に成就するその時、人は神を恐れるのです(119:38)。
神の御業を見、神の救いに与り、神の祝福をいただく中で、人は神を恐れるものになっていきます。
神を恐れるとは主観的にそう思うことではなく、御言葉に徹頭徹尾従うことであり、それこそが宗教改革の精神でした。
きらびやかな式服を着た法王や主教など教会の権威によって神を恐れるのではなく、教会堂の荘厳さや厳粛なグレゴリオ聖歌によって神を恐れるのでもなく、神の御言葉によって神を恐れることを確認したのが宗教改革でした。
「ただ聖書のみ」の精神です。


<12節から14節・良心の応答>

日本におけるカルヴァン研究の第一人者渡辺信夫先生は、半世紀にわたって取り組んで来られた『キリスト教鋼要』から一番学んだことは「良心」だと答えています。
良心とは、神から与えられた自分自身を見る目と言えます。
12節以下は、神さまによってつくりかえられた者の言葉として、良心をもって自分自身を見る、自分自身を正す生き方として見ることが出来ます。
 「自分の数々のあやまちを悟ること」ができるのは、御言葉を示され自分自身の良心をきよめられた人でしょう。
隠れている罪にまで敏感に神経を使う、こういう人間になりたいものです。
いろんな汚れが私たちにまとわりついていますけれども、その最たるものは「傲慢」でしょう (13節)。
それが全くなくなることは地上ではあり得ないかもしれない、しかしそれらに支配されることがありませんようにという祈りです。
ここには、9節にあった「主への恐れ」があります。
「主への恐れ」とは、御言葉がもたらしてくれる最大の知恵だと言います。
12節から14節までの生き方は、とこしえまでも変わらない主を恐れる生き方を、自然の啓示を通して、また明瞭な御言葉の啓示を通してわきまえ知った者のあり方と言うことが出来るでしょう。
 12節以降の部分には、神様の恵み、御救いの恩寵があふれています。
このような罪人が神の御救いに与るのです。
宗教改革者たちが目指したのは、このような「恩寵のみ」という生き方でした。
自然や御言葉を通して神を知った者の応答の生き方がここにあります。
「神の恵みのみ」「御言葉のみ」「神の栄光のみ」という信仰の姿勢をしっかりと汲み取って、御言葉に導かれながら今週も歩みましょう。

(要約:田中殉伝道師)


第2礼拝 主題:「礼拝の再建」 
        マラキ書 ヨハネ福3:16 山口陽一師


 心を尽くして神様への最高の礼拝を捧げることが、私たちの願いです。
毎日が平凡であっても、信仰をもって恵みをもってすべてのことをする、そのような敬虔な生活をしたいものです。
宗教改革はこれを取り戻すために起こされたものでしょう。
この原点をマラキ書を通して学び、点検したいと思います。
 マラキ書の冒頭は「神様が私を愛しておられる」(2節)と、最も大切なことで始まります。
人生にいろいろな試練や問題があっても、この最も大切なことを知っていると希望があります。
マラキは、律法学者エズラ、総督ネヘミヤと同じ頃の旧約最後の時代の人で、その名前には「私の使者」という意味があります。
神の民が偶像礼拝の罪を犯してその結果バビロンへの補囚となり、それをやっと終えて神殿が再建されましたが、礼拝が再建されていないのが課題でした。
その時に民の目を覚まそう、礼拝を立て直し敬虔な生活を新たにしていこうとしました。
宗教改革の時代でも、あるいはいつの時代でも課題となることです。
マラキ書には神様の語りかけと人の対応という、やりとり(対話)が記載されていますが、それは麗しいやりとりではなく、対話の形をとっているが実は断絶ではないのでしょうか。
神のみこころがわからない民に対して、繰り返し神が語られるのです。
マラキ書の中から3つのやりとりをみましょう。
一つ目は、「神様が私を愛しておられる」、一点の欠けもない神の愛に対して「どのようにあなたが私たちを愛されたのですか」という民の応答(2節)です。
神様への疑いと責める心があり、不遜な態度ですが、それに対する神様の答えは「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(2、3節)でした。
それは、神様に愛される資格があるからヤコブが愛されたのではなく、神様が主権をもってヤコブを選び、ヤコブを格別に愛されたのです。
神様のアガペー、愛の大きさが語られています。
ヤコブの裔のイスラエルという大国ではない国も、どれだけ神様に特別に扱われたのか、愛されたのかと神様は説くのです。
その神の愛がわからないところに、人間の罪の根源が現れています。
 2つ目は あなたがたのことばで主を煩わせたという神様に対して「どのようにして、私たちは煩わしたのか」というところです。
神様の心を痛めているのにそれに気付かない鈍感さです(2:17)。
自分たちは神に仕える民として生活しているが、回りの人を見ると、ひどい生き方をしている人が栄えているという現実を見て、信仰がゆらぐという気持ちは分からないことではありません。
神の愛を見失うと、神の義も疑い、不信感が蔓延しているのでした。 
 3つ目は、「民は神に仕えるのはむなしいことだ、神の前戒めを守っても何の益になるのか」などと答えるところです。
神の前に敬虔に生きることはできないと言ってしまうことです(3:13、14)。
神の愛がわからないと、神の義(裁き)がわからなくなり、敬虔に生きることが成り立たなくなってしまうのです。

1章6〜8節に戻りますが、祭壇に汚れたパンをささげる、ごまかしの生け贄をささげるという記述があります。
神様に捧げるものは最高の物であるべきなのです。
宗教改革の時代は、形の上ではきらびやかに礼拝をささげているが、最高の物を神様に礼拝をささげ献身を現していませんでした。
これをみて、十戒の第3戒「主の御名をみだりにとなえてはならない」への著しい違反だとして、礼拝を再建しようと考えたのです。
もう一つは十分の一献金に関係するところです(3:8?10節)。
神様は乏しくて人から取り上げたいのではなく、これは人のために定められたものです。
私たちは(神様が背後にあって)すべてのものを与えられているのだから、その感謝に十分の一を神様にお返しするのです。
またすべてのものは神様から預かっているものなのです。
天の窓を開いてすべてを与えようと待ち構えている神様が、私の愛に答える生き方をするようにと言っているのです。
マラキ書を読むと、人は何故これほど神様に逆らうのか、同時に神がそんな人を投げ出さずになお語りかけられる姿に感銘を受けます。
主を恐れる人が語り合い主がこれを聞かれたとあり、大きな転換が記されています。(3:16)。
最後の4章になると神様は必ず悪しき者を裁くこと、神を恐れる者への祝福の約束が語られています。

 神は私を愛しておられるというのを、私たちは信じて毎日を歩んでいるのでしょうか。
神様が私を愛しておられるという、確かで根源的なことを見失わない者でありたいものです。
神の恵み(恩寵)を知ることが礼拝を再建し、敬虔な生活を起こしていく原点です。
新約の時代に生きる私たちには、「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された///」(ヨハネ3:16)の福音が与えられていますが、これこそ、先の「どのようにあなたは私を愛されたのですか」という人間の問いに対する神様の決定的なお答えなのです。




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 10月24日
主題: 「幸いな約束」 
       エレミヤ29:4〜14  (田中殉伝道師)



<エレミヤという人物>

エレミヤは、紀元前七世紀から六世紀にかけて、ユダ王国を舞台に活動した預言者です。
南北に分裂していたイスラエルの国は、神に従わないその歩みがついに罰せられ、北イスラエル王国は紀元前723年アッシリア帝国に、そして南ユダ王国は3回にわたる捕囚を経て紀元前586年バビロニア帝国に滅ぼされます。
偽預言者たちは人々に受けの良い内容ばかりを語り、たやすく「平安だ」と繰り返していましたが、エレミヤは神のことばを語り続けました。
それゆえに迫害されたり、笑われたりもしましたが、エレミヤは神からの使命に生き抜きました。
エレミヤ書には、神のさばきを語る言葉と、同胞のために流される彼の涙が書き連ねられています。


<29章>

エレミヤ29章は、そんなエレミヤが書き送った手紙です。
紀元前597年、バビロン帝国による2回目の捕囚によって連れて行かれた人々のために、ユダ最後の王ゼデキヤが遣わした使者にそれは託されました。
バビロン捕囚は2年で終わるという偽の預言(28:11)に耳を傾けないようにと忠告するためです。


<4節>

彼らは「わたしが引いていかせた」とあります。
強大なバビロン帝国がユダを滅ぼし人々を引いていった訳ですけれども、実は神様がそうさせていたということです。
主はユダの偶像礼拝の罪、罪のない者の血を流した罪を赦そうとはされませんでした(U列王記24:3?4)。
偶像への礼拝を重ねた神の民はさばかれたのです。
キリストが代わりにさばかれて下さったことを信じる者は、もう神のさばきを恐れる必要はありません。
しかし、イエス・キリストなしには、罪はさばかれるものです。
神は罪をさばくお方なのだということを忘れてはなりません。
それでこそ、罪を赦されたことの大きさが分かり、感謝が溢れてきます。


<5〜7節>

捕囚は2年で終わるという偽の預言がはびこっていましたが、民はそこに家を建てて住み、働いてそこで生活するようにと言われます。
これは捕囚が長い期間になることを前提としています。
まずはその場にとどまるようにということです。
これは、聖霊が注がれるまでは都にとどまっていなさいと弟子たちに言われたイエス様の言葉と似ているかもしれません(使徒1:4)。
弟子たちにとってエルサレムは危険な場所でしたし、苦い思い出も多い場所でした。
出来れば早く退散したい場所だったと思います。
それでも、神の約束が与えられたなら、そこでそれを待つのです。


<8〜9節>

偽りの預言にごまかされるなという警告です。
偽預言者たちは神の名を語ってはいるが、神に遣わされた預言者ではないからです。
8節の最後の文は直訳すると「あなたがたが夢見ている夢の言うことを聞くな」となります。
自分たちに受けの良いことを彼らは言っている訳ですから、彼ら偽預言者の言うことは結局自分たちの願望なのです。
私たちは、自分の願望や自分の思いではなく、神の御言葉にこそ聞かなければなりません。

<偽の預言について>

信仰という名のベールをかけて、私たちも彼らと同じことをしていることがあります。
自分が良い思いをしたい、自分が注目を浴びたいという思いを信仰の言葉で隠しているということがあり得ます。
神の名を使って自分自身の願望を語るなら、それは偽の預言です。
偽預言者はさばかれました。
しかし、そのさばきをイエス様が受けて下さったことを信じる者は、もうさばかれません。
神の名を使って自分の願望を語るようなそんな者であっても、イエス様がさばかれてくださったから、もう自分がさばかれることはないという感謝を動機として、神の御言葉に聞いていけばいいのです。
さばかれるというプレッシャーではなく、こんな自分を愛し赦して下さったという感謝のゆえに、神の御言葉に聞いていきたいものです。


<神の愛>

そもそも神様は滅ぼすためにさばくお方ではないのです。
神様は私たちに「生きよ」と言って下さるお方です(エゼキエル33:11)。
さばきは滅ぼすためのものではなく、神の民としてつくり替えるためのものであり、その希望はすでに語られていました(エレミヤ24:4〜7)。
この約束を思い出させるために、エレミヤは捕囚の民に向けて手紙を書いたのです。


<10〜11節>

「幸いな約束」とは、直訳するなら「わたしの良い言葉」です。
神様は約束を語って下さるお方です。
11節は少し回りくどい表現になっていますが、「知っている」とは、関わりを持って知る、心に留めるという意味の言葉です。
神様は私たちと関わり、私たちの心を知り、痛みやまた喜びを知って下さるのです。
そのお方が私たちのために持っておられる計画は、わざわいではなくて、平安(シャローム)を与える計画であるといいます。
現代は価値観が多様化し、絶対的なものなど信じられない時代です。
しかし、聖書は「主の御告げ」と語ります。
主が語られたことは何一つ地に落ちません(イザヤ40:8)。
この方が語られた「良い言葉」、幸いな約束は永遠に変わらないのです。


<12〜14節a>

その幸いな約束の内容です。
たくさんの動詞が出てきますが、中でも「祈る」という動詞が、自分自身で祈るならというニュアンスで強調されています。
主が求めておられることは、私たちが神様に向けて自分の心を注ぎ出して祈ることなのです。
聖書が言う祈りとは、お経やお題目を唱えることではなく、神様と対話することです。
私たちはとかく、神様に対して願い事や思いの丈をぶちまけて、それは大切なことですけれども、神様の言うことに耳を傾けていないということがあります。
こちらから話しかけたのなら、神様が言われることをも聞かなければなりません。
では、神様の声はどうやったら聞こえるのか。
自分勝手なイメージで「神様はこう言われた」というのであれば、それはまさに偽の預言ということになりかねません。
神の声は、聖霊の助けにより、聖書のことばを通して聞こえてくるのです。
ですから、日々聖霊に助けを求めながら聖書を読むことが大切なのです。
わたしたちが祈るなら、神様は「わたしはあなたがたに聞こう」と言われます。
「心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」、そして「わたしはあなたがたに見つけられる」と言われます。
神様は私たちから隠れておられるお方ではありません。
神様は私たちに見つけられるお方、ご自身を示して下さるお方なのです。


<14節b>

これは、まさにバビロン捕囚の苦難に直面している人々へドンピシャリ当てはまる神様の答えです。
70年の期間を経て彼らは帰ることが出来る、今の苦しみはすべて帳消しになるというのです。
神様は一般論でしか答えて下さらないお方ではありません。
具体的に、私たちの生活に答えを与えて下さるお方なのです。
とは言うものの、聖書には私たちの具体的な事例が載っている訳ではありません。
捕囚の人たちにはピッタリの答えが書いてあったけれども、私たちの人生に必要な具体的な答えは聖書には何も書いていないのです。
しかし、聖霊なる神様に助けを求めながら読んでいくと、聖書の登場人物が自分に重なってきます。
この御言葉はまさに自分のためだ!と思うようになります。
神様が自分に対して何か語っておられる、神様が気にかけて下さっている、それだけは確かで、それで十分だと平安を与えられたら、出来ることから勇気を持って始めていけば良いのです。
私たちの人生とはそのようなことの連続です。
神様が私たちのことを心に留めていてくださることを信じ、神様を呼び求めて「歩く」(生活する、の意を含む)なら、神様は答えて下さいます。
幸いな約束を、すでに語られていたはずの約束を、言葉を、神様は改めて私たちに語りかけて下さるのです。

神様は私たちに幸いな計画を持っておられます。
主は私たちに見つけられます。
私たちは主を見つけることが出来るのです。
バビロン捕囚の苦難の中で、この約束を信じた人たちは幸いでした。
彼らがそこに家を建て、地道な生活を送ることができたのは、神様の幸いな約束を信じたからです。
私たちも生活のその場所で、神の幸いな約束に心を向けることが出来ますように。




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 10月17日
主題: 「イエスのいのちが示されるために」 
             Uコリン4:11〜12   (三浦真信牧師)

<11節>
「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています」
パウロはキリストを伝える中で、迫害に会って命の危険に晒され、教会内からも反対者の 中傷を受け、四方八方から苦しめられましたが、それは正に「イエスのために死に渡されている」状態でした。
しかし、それは「イエスのいのち」が、この肉体において明らかに示されるためであったのです。
「イエスのいのちが明らかに示されるため」と、10節と11節で繰り返しています。
イエスのために死に渡される時に、私たちの肉体を通して、「イエスのいのち」が示されるのです。
しかも「私たちの死ぬべき肉体において」イエスのいのちは明らかに示されるのです。
必ずいつかは死ぬ限界のあるこの肉体を通して、イエスの復活のいのちは明らかにされるのです。
この肉体が、「死ぬべき肉体」であることを意識することは、「何が大事であるのか、何に心や労力を優先的に注ぐべきか」を考えて生きることにつながります。
人はこの「死ぬべき肉体」のことで、常にとらわれ悩みます。
からだのことで一喜一憂したり、この肉体を取り巻く今の身の周りの環境や人間関係が永遠に続くかのように勘違いして悩み果てます。
しかしこのからだは「死ぬべき肉体」であることを認識すると、それらのことにとらわれて悩むことが愚かなことに思えてきます。
それくらいなら、もっと永遠に関わることのために、力を注ぎたいという願いが出てきます。
初代教会のクリスチャンたちは、「明日再臨(キリストが再び来られる日)がきて世が終わるかもしれない」という緊迫感の中で、福音を伝えていきました。
ですから、やがては終わる一時的なことで余計な心労を使わず、キリストに贖われた者として本当に悩み苦しむべきことにエネルギーを用いていったのでしょう。
この限りある肉体を通して、「イエスのいのちが明らかに示されること」こそ、キリストに贖われた者の生きる目的であり、地上でこの肉体を今与えられている者たちの使命でもあります。
ですから、「イエスのために絶えず死に渡されている」ことにも、喜びを見出すことができるのです。
大きく分けて二種類の苦しみがあります。
一つは、生きていくうえで必然的に起きてくる苦しみです。
クリスチャンでなくても、すべての人が経験する可能性のある苦しみです。
病気、別れ、経済的困難、人間関係のトラブルなどです。
もう一つは、パウロが苦難という時にたいていイメージしていた「キリストのための苦しみ」です。
キリストの者として生きるために起きてくる迫害や人々との摩擦、キリストのからだなる教会や兄姉に仕える上での犠牲や困難などがあります。
どのような苦しみにおいても、神は私たちを助け励ましてくださいますが、キリストの名のために苦しむ時には、特別な価値と恵みがあるようです(マタイ5:11〜12、コロサイ1:24、Tペテロ4:12〜16)。

<12節>
一人のキリストを信じる者が、イエスのために死に渡されて生きていこうと決心するときに、他の人々のうちに、「イエスのいのちが働く」のです。
イエス様ご自身が、一粒の麦として十字架で死なれました。
それによって多くの魂が罪の結果である滅びから救われることになったのです。
同じようにキリストを信じてこの恵みの救いを受けた者たちが、キリストのために死んでいこうとするとき、多くの実を結ぶのです。
パウロたちのように、迫害下にあれば、常に死を覚悟していたことでしょう。
そうでなくても、具体的な人間関係の中で、私たちは「自分に死ぬ」ことを経験するのです。
今救われてほしいと願っている人のために、ただ自分の考えややり方を押し付けるのではなく、どうしたら心が開かれるのか、何が本当に必要なことなのかを、忍耐強く祈り続けて待つために、自分の考え方に死ななければなりません。
あるいは、伝えた結果反対を受けたり、関係がぎくしゃくするようになることも覚悟が必要です。
関わっている兄弟姉妹の中にキリストが形造られるまで、産みの苦しみをすることがあります(ガラテヤ4:19)。
そのときも自分に 死ぬことを学ばされます。
一人の魂のために時間や労力を使うとき、自分を生かそうとしたら挫折してしまうでしょう。
またパウロは、コリントの人たちの根も葉もない噂と中傷に苦しみましたが、しかしそれによって福音を曲げることはありませんでした。
人に気に入られること、人から認められることに死んで、神が喜ばれることを最優先していきました(ガラテヤ1:10)。
自分の考えややり方、自分の都合を優先する生き方、神よりも人に気に入られることを求める生き方に死んでいかなければ、キリストに、またキリストのからだに仕えることはできません。
一粒の麦になって死ぬことを求めていくのでなければ、実を結ぶことはできないのです。
私たちが誰かのために、何かのために、そしてキリストのために、自分をささげていくときに実が結ばれていきます。
人からどう思われようと、何かを犠牲にしても、このことのためにできることは していこう、ささげられるものはささげていこうと決心して一歩踏み出す時に、「イエスのために死に渡された私の死ぬべき肉体」を通して、イエスのいのちが働くのです。

パウロの生き方そのものが、私たちにチャレンジを与えます。
今私たちが人との関係において、いかにキリストの死を「古い生まれながらの自分の死」として受けていくのか、チャレンジを投げかけられています。
後に結ばれる豊かな実を見たいという目標があるからこそ、一粒の麦となって自分自身をささげたいという願いも生まれてくるのです。
この死ぬべき肉体を通して、イエスのいのちが明らかに示されていくことこそ、私たちにとって喜びです。
やがて必ず死ぬ肉体ですから、価値あることのためにささげる方が嬉しいのです。
自分を生かし、自分を宣べ伝える生き方に、私たちは死にました。
いよいよ死ぬべき自分は消え果てて、イエスのいのちが明らかに示されていくことが、キリストに贖われた者たちにとって喜びなのです。
すぐに古い自分を生かそうという肉が働きますが、聖霊なる神が、その空しさに気づかせてくださり、イエスのいのちが示される方向に私たちを導いてくださいます




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 10月10日
主題:  「幸いなことよ」 
          詩篇1:1〜6 (田中殉伝道師)

 「幸いなことよ」と始まる出だしは、イエス様の有名な山上の垂訓を思い出させます(マタイ5:3、原文では「幸いです」が文頭)。
「幸いなことよ」とまず切り出して、聖書は私たちに幸いとは何かを教えているのです。
それは、誰かにとっては幸いだけれども、誰かにとっては幸いではないというような種類の幸福ではなく、全ての人にとっての絶対的な幸いです。
人々の価値観が相対化される世の中にあっても、絶対的な存在である神様が言われる以上、そこに約束される幸いは絶対的な幸いなのです。

<1節>
 まず「悪者のはかりごとに歩まず」とあります。
悪のはかりごとは先へ先へと歩み進めてしまうものではないでしょうか。
一度陥ったら最後、とことんその思いを煮詰めないと気がすまないということがあります。
また「罪人の道」とありますから、それは一度入ったら引き返せない高速道路の入り口のようなものかもしれません。
そこに歩まず、立たない者は幸いだと言います。
そして「あざける者の座につかない」とも言われます。
悪、罪、と来ていますので、ここでは神をあざけるということについて言われているようです。
罪の道を歩み続けるとは、どっかりとあぐらをかいて、そこに座して、居直って神をあざけるということ、自分が神となることです。
それをしないということが幸いなのだということです。

<2節>
 この三つの否定形は、「?してはならない」という十戒を思い出させます。
2節に「主の教え」とありますが、この「教え」とはトーラー、律法のことです。イエス様が批判されたのは律法主義であって、神の律法そのものではありません。
詩篇の作者が歌うように、「主の教え」である律法を喜び、昼も夜もそれを口ずさむ人は幸いなのです。
昼も夜もそれを口ずさむとは、お経のようにそれを唱えるということではなくて、そのように生きるということです。
律法の通りに生きる生き方は幸いなのです。

<3節>
 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。」水路は複数形、木は単数形で記されています。
たくさんの水路に囲まれた一本の木が水分や養分を一身に受けるように、神様の恵みを一身に受けて豊かな実を実らせる人生を送ることが出来たなら「何をしても栄える」、まさに「幸いな」人生だと言えるでしょう。

<私たちの現実は>
 しかし、私たちは、悪者のはかりごとに歩んでしまうのです。
罪人の道に立ち、神をあざけってどっかりと座り込むのが私たちです。
主のおしえを喜びとし、その通りに生きることが出来ないのが私たちなのです。
律法が教える通りに生きることが出来れば義と認められるというのであれば、私たちは誰一人義と認められることはありません。私たちは誰一人幸いではないということになります。

<4節>
 その意味では、私たちの現実は4節にある「悪者」です。
悪者は風が吹き飛ばすもみがらのようだと言います。
もみがらはヘブル語でモーツ、そして3節の木はエーツで、ちょっとした言葉遊びになっています。
上手いことを言うなと笑うべきところかもしれませんが、笑えないのです。
風に吹き飛ばされ、さばき(つまり神様の正しさ)の中に立ちおおせない。
正しい者の集いに立てないというのですから、これは正しい者と悪者の違いは決定的だということです。
エーツとモーツは決定的に違うのです。
そして私たちはエーツに憧れますけれども、自分の実体としてはどこまでもモーツ、もみがらなのです。

<「その人」とは>
 このモーツ、もみがらを救い出すために、エーツ、木であるお方がもみがらの立場になってくださった。
もみがらとして吹き飛ばされてくださったとしたら、どうでしょう。
そのことのゆえに、私たち本来のもみがらは、依然としてもみがらなのにもう吹き飛ばされる心配はないとしたら。
1節で「幸いなことよ」と歌われた「その人」。
主の教えを口ずさみ、その通りに生きた「その人」には、定冠詞「ハー」がついています。
英語で言えば「the man」、それはイエス様に他なりません。
詩篇もまた、旧約聖書としてイエス・キリストについて預言している書物なのです(ルカ24:44)。
「幸いな人」とは、まさにイエス様のことだったのです。

 ガラテヤ4:4,5には、律法を与えた側の神であるお方が、律法の下にある者となってくださったとあります。
律法を完全に守ることのできない私たちのために、イエス様がわざわざ人として生まれてくださり、律法の要求を完全に全うして十字架にかかってくださったのです。
(裏面に続く)

 そのことを信じる信仰を通して、私たち自身はもみがらのままであっても、律法の通りに生きることが出来ないままであっても、もうさばかれることはありません。
イエス様が私のためにさばかれてくださったので、私は赦された者として、義しいと認められた者として生きることが出来ます。
これこそが、聖書が言う絶対的に幸いな生き方なのです。
これ以上に幸いな生き方はありません。

<6節a>
 原文では文頭に「?だからだ」という接続詞があり、5節からの流れで「悪者はさばきの中に立ちおおせない。
罪人は正しい者のつどいに立てない。
それは、主が、正しい者の道を知っておられるからだ」となります。
正しい者と悪者は決定的に違うのです。
主は、正しさと罪の違いをあいまいにされるお方ではありません。
主の前に、その違いは明らかなのです。
そして、律法を読む限り私たちは明らかに悪者です。

<パウロ>
 パウロも、むさぼってはならないという律法の前に、自分の罪を認めざるを得ませんでした(ローマ7:7)。
晩年の彼は、自分のことを「罪人のかしら」とまで表現するようになります(第一テモテ1:15)。
どこまで行っても、自分は罪人であることがいよいよ明らかになっていったのです。
しかし、パウロはこうも言っています。
「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2)
イエス・キリストのゆえに、もみがらの私たちが吹き飛ばされることは決してないということです。

<6節b>
 詩篇一篇は、「悪者の道は滅び失せる」というショッキングな終わり方で幕を閉じます。
イエス様の救いがなければ滅びなのだということを強調した表現です。
ここをあいまいにしてはいけません。
幸いなことよと始まり、滅び失せると終わる。
この二つは対極にあります。この対極を橋渡ししてくださるのは、イエス様だけなのです。

<イエス・キリストにある幸いな生き方>
 木であるお方が、そのあり方を捨てられないとは考えず、もみがらと同じようになられってくださいました(ピリピ2:6-8)。
そして吹き飛ばされてくださったのです。私たちの罪が赦されるために、十字架の上でさばかれてくださったのです。
そしてそれだけではなく、キリストはよみがえられました(ローマ4:25)。
このよみがえって今も天で私たちのためにとりなして祈っていて下さるお方と、聖霊によってともに生きることが出来る。
これが「幸いな」生き方なのです。
もみがらのような私たちのために、父なる神のさばきを一身に受けてくださったイエス様の愛ゆえに、私たちは「まことのいのち」を得ました(第一ヨハネ4:9,10)。
もみがらのままでも義しいと認められ、神と共に生きることが出来る。
これが聖書の言う「幸いな」生き方なのです。

<詩篇を告白する>
 詩篇の第一篇は、幸いな生き方への憧れとでも言うような簡単な内容ではありません。
私たちにとって真の「幸い」とは、イエス・キリストしかないのだという告白です。
それは、人によって違うというような種類の幸せではなくて、絶対的な存在である神様が約束して下さった幸いです。
そして、その告白は賛美として、祈りとして、礼拝で共有されるものです。
詩篇はただ読むものではなく、歌として、賛美として告白していくものなのです。
個人的に神様に祈るデボーションの時間はもちろんのこと、みなで集まってささげる礼拝の場所で、共に主に向けて告白していきましょう。
私たちにとって「幸い」とは、イエス・キリストしかいないのです。
この告白を、主への賛美としてささげていきましょう。




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 10月3日
主題:  「途方にくれても行きづまらない」  
                  Uコリント4:8〜10 (三浦真信牧師)

 <8節>
苦しみが四方八方から押し寄せてきても、窮することはないとパウロは断言します。
事実この時のパウロは多くの苦しみを抱えていました(7:5〜6)。
その身には少しの安らぎもなかったほどです。
でも神はテトスに会わせてくださり、コリント教会のよい報告を届けてくださってパウロを慰めてくださったのです。
アジヤでは、死を覚悟するほどの激しい圧迫を受けましたが、そこで死者をもよみがえらせる神の力により頼む信仰を与えられたのです(1:8〜9)。
過ぎてみると、八方ふさがりのような苦しみも、決して窮することなく大丈夫なように神はしてくださいました。
「途方にくれる」という言葉の原語は、ガラテヤ4:20で「どうしたらよいかと困っている」と同じ言葉が使われています。
あらゆる努力をしても解決しないときに、もうどうしてよいかわからず途方にくれてしまいます。
人間関係の中で、一度こじれた感情のもつれが争いを引き起こしたり、いくら説明しても誤解が解けなかったりして苦しむことがあります。
いくら探しても仕事が見つからなかったり、大きな病気になって苦しむこともあります。
途方にくれるような出来事は、いつでも私たちの身に起こりうるのです。
人が集まれば、色々な問題が出てきます。
それが生きている証拠でもあります。
教会も罪人の集まりですから、たえず課題があります。
パウロの場合は、いくつもの教会と深い関わりをもって指導していましたから、数えきれないほど途方にくれることが内にあったでしょう。
途方にはくれるけど、でも「行きづまることはありません」と、今途方にくれているパウロが言っています。
なぜそのように確信をもって言えるのでしょう?それは神様が何とかしてくださるからです。
どうしてよいかわからないことは、測り知れない神の力が解決してくださるから、私たちは祈って神の御手を信じて待つしかありません。
でも絶対に行きづまることはないのです。

<9節>
パウロはかつてはキリストを迫害する者でしたが、キリストに出会ってキリストをのべ伝えるものとなりました。
その結果激しい迫害に会うことになります。
かつてはキリストの迫害者として同労者だった仲間は、今度はみな敵となって攻撃してきます。
人からは見捨てられ迫害されますが、神は見捨てることなくあらゆる迫害の中でもパウロを守ってくださったのです。
主がパウロの前を進み、どんな時も見放さずに共にいてくださったのです(申命記31:8)。
また倒されそうになりますが、決して滅びることはないのです(ミカ7:8)。
倒れても神が起こしてくださいます。
暗闇の中にも主が光として輝いてくださいます。
迫害されたり、倒れそうになることがあっても、決して神は見捨てることはなさいません。
だから決して行きづまることも、滅びることもないのです。

<10節>
パウロは、四方八方から苦しめられたり途方にくれることは、「イエスの死をこの身に帯びている」状態だと言います。
ここの「死」という言葉は、ネクローシスという原語が使われています。
この言葉は、死そのものよりも「死につつある」というニュアンスがあります。
キリストが十字架の死に向かって歩まれた苦しみの道を共に歩んでいる状態です。
パウロが四方八方から苦しめられたり、キリストを伝えるために迫害されることは、イエスが十字架の死に向かって苦しみの道を歩まれた「イエスの死」をこの身に帯びていることだというのです。
苦しみにおいて、キリストと一つにされているのです(ピリピ3:10)。
具体的な苦しみを通して、キリストの苦しみにあずかることができ、またそこでこそキリストの復活の力にあずかることができるのです。
パウロも人間ですから、苦しむことは嫌だったでしょう。
しかし苦難を通してキリストの死と一つにされる経験が、パウロに新たな勇気と力を与えていったのです。
また「イエスの死をこの身に帯びる」ことは、同時に「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される」ことにもなります。
土の器として日々死んでいく時に、宝として内におられるイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるのです。
「この身」「私たちの身」と訳されている「身」は,原語では「からだ」という言葉が使われています。
「イエスの死をこのからだに帯び、またこのからだを通してイエスのいのちが明らかにされる」のです。
土の器が壊れてボロボロになるほど、イエスのいのちがこのボロボロのからだを通して明らかに示されるのです。
パウロは苦難を通して弱くされるほど、「確かにイエスは今も生きておられる!」ということがはっきりしていきました(Uコリント1:9)。
死者をもよみがえらせてくださる神に、いよいよより頼むようになっていきました。
ですから、「イエスの死をこの身に帯びる」ということは、そのまま「イエスのいのちで生かされている」ことにつながっていったのです。
苦しみを通してキリストの復活の力を知ったパウロは、いよいよキリストの死と一つになることで復活の力にあずかりたいと求めるようになりました(ピリピ3:10〜12)。
まだそこに 達してないので、なお追及していると言っています。
またキリストも、私たちがそれを得るようにと、私たちを捕え救って下さったのです。
完全に死からの復活を得るのは終わりの時ですが、今も私たちは苦難の中でキリストの復活の力を、このからだを通して体験することができるのです。

八方ふさがりの場所、途方にくれている場所こそ、イエスのいのちが明らかに示されます。
うちにおられる宝なるキリストが輝くときです。
ですから、どんなに途方にくれても行きづまらないのです。
その途方にくれている出来事を通して、イエスのいのちが明らかに示されるのです。
この土の器を通して、ボロボロでひびだらけ、欠けだらけの弱い「私のからだを通して」、イエスの死にも勝利した復活のいのちが現れるのです。
測り知れない神の力が明らかにされるのです。
ですから、途方にくれても行きづまることはありません。
この約束のみことばを信じていきましょう。





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