主題:「 神を待つ心 」
詩篇130篇 (田中殉伝道師)
<1節、2節>
「深い淵から」神を呼び求める詩人の心はどんなものでしょう。淵とは川の底が深くて水が澱んでいるところ、水が深すぎて光が当たらない暗い場所、水が動いていかない場所です。自分の力では状況が変えられない苦難を象徴しています。詩篇69:2では大水の奔流に押し流されていく情景に同じ言葉が使われています。自分の力ではどうすることも出来ない状況に、日々私たちは直面していると言えないでしょうか。抱えている問題や不安をどうにも打開することが出来ずに右往左往するしかなく、神様と私たちの間に深い淵があって、大水があって、自分は神様から孤立しているかのような、そんな気がしてきます。預言者イザヤは、クリスマスの預言に先駆けて「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」(イザヤ8:22)と語っています。まさに今日の私たちのために書かれたような御言葉です。
<神からの孤立>
神様からの孤立、その事の起こりは創世記に遡ります。全てがよかったはずのこの世界において、しかし人は罪を犯しました(創世記3章)。神から隠れ、神から外れて生きるようになった、そのことを聖書は罪と言います。私たちを造ってくださった方、存在を丸ごと愛してくださる方から断絶したわけです。詩篇の記者が記した「深い淵」はこの時に生まれたとも言えるでしょう。神との断絶こそ、深い淵の中でも最も深い淵だと言えます(イザヤ59:1-2)。その淵を挟んで、私たちは神に向けて呼びかけますけれども、しかし、実は最初に呼びかけてくださったのは神様の側からだったことが、創世記3章の記述から分かります(創世記3:8-10)。私たちは神の前から隠れてしまった、そして神は「あなたはどこにいるのか」と探してくださっている。これが聖書が語る断絶の真相です。
<3節>
「不義」とは義ではないこと、あるべき正しい関係にないことを指します。神の愛の対象として造られたのに、神から身を隠すならそれは神との関係において不義なのです。神がこのように歩みなさいとして与えてくださった律法から的を外して生きるなら、それは不義なのです。私たちの不義は主の前に明らかで、私たちは神に自分の潔白を証明することなど出来ません(ローマ3:10)。
<4節>
しかし、4節、神様は赦してくださるお方なのです。「誰も主の御前に立つことは出来ない」と言ったばかりなのに、すぐ4節で赦しの内容が来ると、読む側はそれがどれほど有り難いことなのか、どれほどの恵みなのかを忘れてしまいますが、受ける資格のない者が受けるものを恵みと言うのです。ここには「恐れ」という言葉が出てきますが、罪人を赦してくださる神の愛は、恐ろしいほどの有り難さ。恐ろしいほどの恵みであったはずです。ヘブル語は「恐れ」と「畏れ」を区別しておらず、新改訳聖書もあえて「恐れ」と表記しています。十二弟子のペテロはイエス様に「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました(ルカ5:8)。神様の聖さを知ったなら、私たちには恐れるしかないのです。モーセもエリヤも、直接神の顔を見まいとして顔を覆いました。それほどのお方が、赦してくださるというのですから、神への恐れを持たずにはいられないはずです。恐ろしいまでの有り難さをわきまえてこそ、ヘブル書に書いてあるように、親しく大胆に神の御前に進み出ることが出来るのだと思います(ヘブル10:19)。
<5節、6節>
この節では、待ち望みます、待ち望みます、待ちますと繰り返されます。何を待つのでしょうか、主を待つのです。そして主の御言葉を待つのです。「主」と「主の御言葉」が同格におかれており、私たちが主を待ち望む時に、それは主の御言葉を待ち望むということでもあることが分かります。私たちは、今日はどんな御言葉だろうと毎日楽しみにしながら、日々聖書を読みたいと思います。それは主を待ち望むことなのです。6節では、冒頭で「淵」と表現された暗やみが「夜」とも言われます。暗い夜を徹して夜警の仕事をしている人たちが夜明けを待つ、それ以上の気持ちで主を待つのです。これほどの熱い思いを持ってみことばを待ち望んでいるか。主が語って下さることを楽しみにしているか、問われます(詩篇119:147、148)。聖書に記された御言葉に対する姿勢、それはすなわち主ご自身への姿勢です。
<御言葉そのものであられるイエス様>
ヨハネの福音書の冒頭には、イエス様はまさに神の御言葉そのものであったと記されています(ヨハネ1:1-5)。クリスマスによく読まれる聖書箇所ですが、イエス様は神の御言葉そのものであり、いのちであり、光であるお方です。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」ともあります(同1:9)。今から2000年前、そのことは起こりました。世界で初めのクリスマスはユダヤのベツレヘムでひっそりと祝われましたが、これは人類の歴史をひっくり返す大事件でした。神の御言葉そのものであるイエス・キリストが人として生まれてくださったからです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(同1:14)これが、クリスマス
(裏面に続く)
の意味なのです。クリスマスの決定的に大切な一点は、「イエス・キリストが私たちのために来てくださった」ということです。この私のために、イエス様が来てくださったということ、神であるお方が、人として、つまり私の友として、この地上に生まれてくださった。そのことを祝うことがなければ、何のためのクリスマスでしょうか。私たちは今年も新しい気持ちでクリスマスを祝いたいと思います。
<都上りの歌>
詩篇130篇を含めて15の詩篇には「都上りの歌」という表題がついています(原語では単に「上る歌」ですが、122:3−4を根拠にこれら15の表題は「都上りの歌」と訳されてきました)。エルサレムに向かう巡礼の人々がこの歌を歌ったのだと思います。人々は祭りの時期(主な三つは過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭り。出エジプト記12章、レビ記23章等参照)にエルサレムに上り、神殿で礼拝をささげました。それらの祭りは、主がなしてくださった御業を思い起こし記念するためにと、神様から定められたものでした。詩篇130篇も毎年の祭りの度に歌われたことと思います。毎年彼らは、神と断絶した深い淵から、苦難の暗やみの中から、いつ明けるとも分からない夜の中から、主の御言葉を待ち望んでこの詩篇を歌ったはずです。私たちも、アドベントをただ毎年恒例の行事にしてしまわないで、礼拝の機会としてとらえ直したいと思います。
<7節、8節>
イスラエルとは神の民のことです。ユダヤ人だけでなく、新約においては全てのキリストを信じる者たちが霊的なイスラエルと呼ばれます(ガラテヤ3:7)。今や、神に望みをかける私たち全てに向けてこれは言われています。「主には恵みがあり、豊かな贖いがある。」恵みとはまさに4節の内容です。主が赦してくださるということ。「あなたはどこにいるのか」と、主が探してくださるということ。それは、受ける資格のない者が受けるもの、まさに「恵み」です。「贖い」とは、代価を支払って奴隷を買い戻すことです。罪の奴隷となり、永遠のさばきを受けなければならなかった私たちに代わって、キリストはいのちを差し出されました。そのことを信じる者の罪が赦されるためにです。イエス様は十字架にかかるためにお生まれになりました。神と断絶していた深い淵に、十字架の形の橋が渡された、それがクリスマスなのです。
<土の器としての旅>
それを信じる人は、深い淵、大水の底にはもういません。相変わらず苦しさや不安はありますし、私たちを取り巻く闇は深く、困難は具体的です。しかし、イエス様が人として来てくださったということの意味は、神が遠く離れておられるお方ではなく、私たちの生活の具体的な所にまで来てくださったということです。私たちの悩みや痛みについて、天上から分かったようなことを言われる、そういうお方ではありません。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とは、神であるお方が、私たちの間にテントを張られた、天幕を張られたというような意味の言葉です。主は文字通り私たちのところに来て、そして私たちの間に住んでくださったのです。
キリストを信じれば全て解決。もう何も悩むことなく、全てがハッピー…ではありません。私たちは依然としてこの地上の旅を続けます。それは土の器(2コリント4:7以降)としての旅であり、痛みを伴う歩みです。欠けが出来るし、ヒビが割れます。しかし、イエス・キリストが私のために来てくださった。そして聖霊として今も現実に私に伴い、寄り添っていてくださる、そのことを知ればこそ、信じればこそ、私たちは天に目を向けて歩んでいくことが出来ます。詩篇130篇の記者は「深い淵」を「夜」と言い換えました。夜の間というのは、何もなし得ない時間であり、闇がすべてを覆う時です。しかし、私たちが毎朝体験しているように、明けない夜はありません。聖書はイエス様を「義の太陽」と表現していますが(マラキ4:2)、クリスマスとはその義の太陽が昇ったことを祝うものなのです。世界が始まったときから待ち望まれてきたその夜明けがついに明けたのだということを、旧新約聖書は一貫して証しています。その良い知らせに勇気づけられ、力づけられてきた人は数知れません。8節にあるように、主は、すべての不義から、神様との関係が正しくないすべての罪から、私たちを救ってくださるお方です。キリストを信じる者すべてにこれは言われています。それを信じる人は、究極的な深い淵、大水の底にはもういないのです。
<礼拝の旅>
ユダヤの人たちは祭りの度に、エルサレムの神殿で礼拝をささげるために巡礼の旅をしました。新約の今の時代は、クリスチャン一人一人が神殿であり、私たちはエルサレムの神殿に行かなくてもどこにおいても礼拝をささげることが出来ます(1コリント3:16)。礼拝とは、教会で礼拝の式に参加することだけなのではありません。日々遣わされているその場所で、神を礼拝する、主の御言葉を待ち望むのです。私の体は聖霊の宮なのだということを忘れてはなりません。生活のすべてが神への礼拝の一部です。家庭において、職場において、私たちがなすあらゆることは、神様への礼拝の心を持って、つまり御言葉を待ち望む心を持ってそれをおこなうべきです。主ご自身を待ち望みながら、それぞれのところで礼拝者として生きていたいと思います。主ご自身を求めて、日々聖書を読んでいきましょう。私たちは神の御霊が宿っておられる神の神殿なのです。この詩篇を歌った人々が、毎年、礼拝の心新たにこれを歌ったように、今年も始まったアドベントのこの期間に、私たちも生活のあらゆる場面において、クリスマスへの思いを深めていきたいと思います。
|