(2010年11月)

 ・ 11月28日
 ・ 11月21日
 ・ 11月14日
 ・ 11月7日
 








 11月28日
主題:「 神を待つ心 」 
        詩篇130篇 (田中殉伝道師)

<1節、2節>
「深い淵から」神を呼び求める詩人の心はどんなものでしょう。淵とは川の底が深くて水が澱んでいるところ、水が深すぎて光が当たらない暗い場所、水が動いていかない場所です。自分の力では状況が変えられない苦難を象徴しています。詩篇69:2では大水の奔流に押し流されていく情景に同じ言葉が使われています。自分の力ではどうすることも出来ない状況に、日々私たちは直面していると言えないでしょうか。抱えている問題や不安をどうにも打開することが出来ずに右往左往するしかなく、神様と私たちの間に深い淵があって、大水があって、自分は神様から孤立しているかのような、そんな気がしてきます。預言者イザヤは、クリスマスの預言に先駆けて「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」(イザヤ8:22)と語っています。まさに今日の私たちのために書かれたような御言葉です。

<神からの孤立>
神様からの孤立、その事の起こりは創世記に遡ります。全てがよかったはずのこの世界において、しかし人は罪を犯しました(創世記3章)。神から隠れ、神から外れて生きるようになった、そのことを聖書は罪と言います。私たちを造ってくださった方、存在を丸ごと愛してくださる方から断絶したわけです。詩篇の記者が記した「深い淵」はこの時に生まれたとも言えるでしょう。神との断絶こそ、深い淵の中でも最も深い淵だと言えます(イザヤ59:1-2)。その淵を挟んで、私たちは神に向けて呼びかけますけれども、しかし、実は最初に呼びかけてくださったのは神様の側からだったことが、創世記3章の記述から分かります(創世記3:8-10)。私たちは神の前から隠れてしまった、そして神は「あなたはどこにいるのか」と探してくださっている。これが聖書が語る断絶の真相です。

<3節>
「不義」とは義ではないこと、あるべき正しい関係にないことを指します。神の愛の対象として造られたのに、神から身を隠すならそれは神との関係において不義なのです。神がこのように歩みなさいとして与えてくださった律法から的を外して生きるなら、それは不義なのです。私たちの不義は主の前に明らかで、私たちは神に自分の潔白を証明することなど出来ません(ローマ3:10)。

<4節>
しかし、4節、神様は赦してくださるお方なのです。「誰も主の御前に立つことは出来ない」と言ったばかりなのに、すぐ4節で赦しの内容が来ると、読む側はそれがどれほど有り難いことなのか、どれほどの恵みなのかを忘れてしまいますが、受ける資格のない者が受けるものを恵みと言うのです。ここには「恐れ」という言葉が出てきますが、罪人を赦してくださる神の愛は、恐ろしいほどの有り難さ。恐ろしいほどの恵みであったはずです。ヘブル語は「恐れ」と「畏れ」を区別しておらず、新改訳聖書もあえて「恐れ」と表記しています。十二弟子のペテロはイエス様に「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました(ルカ5:8)。神様の聖さを知ったなら、私たちには恐れるしかないのです。モーセもエリヤも、直接神の顔を見まいとして顔を覆いました。それほどのお方が、赦してくださるというのですから、神への恐れを持たずにはいられないはずです。恐ろしいまでの有り難さをわきまえてこそ、ヘブル書に書いてあるように、親しく大胆に神の御前に進み出ることが出来るのだと思います(ヘブル10:19)。

<5節、6節>
この節では、待ち望みます、待ち望みます、待ちますと繰り返されます。何を待つのでしょうか、主を待つのです。そして主の御言葉を待つのです。「主」と「主の御言葉」が同格におかれており、私たちが主を待ち望む時に、それは主の御言葉を待ち望むということでもあることが分かります。私たちは、今日はどんな御言葉だろうと毎日楽しみにしながら、日々聖書を読みたいと思います。それは主を待ち望むことなのです。6節では、冒頭で「淵」と表現された暗やみが「夜」とも言われます。暗い夜を徹して夜警の仕事をしている人たちが夜明けを待つ、それ以上の気持ちで主を待つのです。これほどの熱い思いを持ってみことばを待ち望んでいるか。主が語って下さることを楽しみにしているか、問われます(詩篇119:147、148)。聖書に記された御言葉に対する姿勢、それはすなわち主ご自身への姿勢です。

<御言葉そのものであられるイエス様>
ヨハネの福音書の冒頭には、イエス様はまさに神の御言葉そのものであったと記されています(ヨハネ1:1-5)。クリスマスによく読まれる聖書箇所ですが、イエス様は神の御言葉そのものであり、いのちであり、光であるお方です。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」ともあります(同1:9)。今から2000年前、そのことは起こりました。世界で初めのクリスマスはユダヤのベツレヘムでひっそりと祝われましたが、これは人類の歴史をひっくり返す大事件でした。神の御言葉そのものであるイエス・キリストが人として生まれてくださったからです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(同1:14)これが、クリスマス
(裏面に続く)
の意味なのです。クリスマスの決定的に大切な一点は、「イエス・キリストが私たちのために来てくださった」ということです。この私のために、イエス様が来てくださったということ、神であるお方が、人として、つまり私の友として、この地上に生まれてくださった。そのことを祝うことがなければ、何のためのクリスマスでしょうか。私たちは今年も新しい気持ちでクリスマスを祝いたいと思います。

<都上りの歌>
詩篇130篇を含めて15の詩篇には「都上りの歌」という表題がついています(原語では単に「上る歌」ですが、122:3−4を根拠にこれら15の表題は「都上りの歌」と訳されてきました)。エルサレムに向かう巡礼の人々がこの歌を歌ったのだと思います。人々は祭りの時期(主な三つは過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭り。出エジプト記12章、レビ記23章等参照)にエルサレムに上り、神殿で礼拝をささげました。それらの祭りは、主がなしてくださった御業を思い起こし記念するためにと、神様から定められたものでした。詩篇130篇も毎年の祭りの度に歌われたことと思います。毎年彼らは、神と断絶した深い淵から、苦難の暗やみの中から、いつ明けるとも分からない夜の中から、主の御言葉を待ち望んでこの詩篇を歌ったはずです。私たちも、アドベントをただ毎年恒例の行事にしてしまわないで、礼拝の機会としてとらえ直したいと思います。

<7節、8節>
イスラエルとは神の民のことです。ユダヤ人だけでなく、新約においては全てのキリストを信じる者たちが霊的なイスラエルと呼ばれます(ガラテヤ3:7)。今や、神に望みをかける私たち全てに向けてこれは言われています。「主には恵みがあり、豊かな贖いがある。」恵みとはまさに4節の内容です。主が赦してくださるということ。「あなたはどこにいるのか」と、主が探してくださるということ。それは、受ける資格のない者が受けるもの、まさに「恵み」です。「贖い」とは、代価を支払って奴隷を買い戻すことです。罪の奴隷となり、永遠のさばきを受けなければならなかった私たちに代わって、キリストはいのちを差し出されました。そのことを信じる者の罪が赦されるためにです。イエス様は十字架にかかるためにお生まれになりました。神と断絶していた深い淵に、十字架の形の橋が渡された、それがクリスマスなのです。

<土の器としての旅>
それを信じる人は、深い淵、大水の底にはもういません。相変わらず苦しさや不安はありますし、私たちを取り巻く闇は深く、困難は具体的です。しかし、イエス様が人として来てくださったということの意味は、神が遠く離れておられるお方ではなく、私たちの生活の具体的な所にまで来てくださったということです。私たちの悩みや痛みについて、天上から分かったようなことを言われる、そういうお方ではありません。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とは、神であるお方が、私たちの間にテントを張られた、天幕を張られたというような意味の言葉です。主は文字通り私たちのところに来て、そして私たちの間に住んでくださったのです。

キリストを信じれば全て解決。もう何も悩むことなく、全てがハッピー…ではありません。私たちは依然としてこの地上の旅を続けます。それは土の器(2コリント4:7以降)としての旅であり、痛みを伴う歩みです。欠けが出来るし、ヒビが割れます。しかし、イエス・キリストが私のために来てくださった。そして聖霊として今も現実に私に伴い、寄り添っていてくださる、そのことを知ればこそ、信じればこそ、私たちは天に目を向けて歩んでいくことが出来ます。詩篇130篇の記者は「深い淵」を「夜」と言い換えました。夜の間というのは、何もなし得ない時間であり、闇がすべてを覆う時です。しかし、私たちが毎朝体験しているように、明けない夜はありません。聖書はイエス様を「義の太陽」と表現していますが(マラキ4:2)、クリスマスとはその義の太陽が昇ったことを祝うものなのです。世界が始まったときから待ち望まれてきたその夜明けがついに明けたのだということを、旧新約聖書は一貫して証しています。その良い知らせに勇気づけられ、力づけられてきた人は数知れません。8節にあるように、主は、すべての不義から、神様との関係が正しくないすべての罪から、私たちを救ってくださるお方です。キリストを信じる者すべてにこれは言われています。それを信じる人は、究極的な深い淵、大水の底にはもういないのです。

<礼拝の旅>
ユダヤの人たちは祭りの度に、エルサレムの神殿で礼拝をささげるために巡礼の旅をしました。新約の今の時代は、クリスチャン一人一人が神殿であり、私たちはエルサレムの神殿に行かなくてもどこにおいても礼拝をささげることが出来ます(1コリント3:16)。礼拝とは、教会で礼拝の式に参加することだけなのではありません。日々遣わされているその場所で、神を礼拝する、主の御言葉を待ち望むのです。私の体は聖霊の宮なのだということを忘れてはなりません。生活のすべてが神への礼拝の一部です。家庭において、職場において、私たちがなすあらゆることは、神様への礼拝の心を持って、つまり御言葉を待ち望む心を持ってそれをおこなうべきです。主ご自身を待ち望みながら、それぞれのところで礼拝者として生きていたいと思います。主ご自身を求めて、日々聖書を読んでいきましょう。私たちは神の御霊が宿っておられる神の神殿なのです。この詩篇を歌った人々が、毎年、礼拝の心新たにこれを歌ったように、今年も始まったアドベントのこの期間に、私たちも生活のあらゆる場面において、クリスマスへの思いを深めていきたいと思います。



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 11月21日
主題:「うめき待ち望む天の家」 
           Uコリント5:1〜5 (三浦真信牧師)



<1節>

 パウロが4章16節で、「私たちは勇気を失いません」と言った根拠でもある「復活のからだ」が与えられることについて、ここから述べています。
まず地上のこの肉体を、「地上の幕屋」と表現しています。
幕屋は「天幕」とも言いますが、天幕造りの技術を身に着けていたパウロらしい表現でしょう。
天幕は、移動式の住居(テントのようなもの)です。
天幕生活は移動がつきものなので、そこで生活する人は、常に一時的な住まいであることを意識し、いつでも引っ越せる心積りでいました。
正に地上の肉体は、天幕のように一時的であり、また地上の肉体をもった生活は、仮の宿に過ぎないのです(へブル11:9〜16)。
この「地上の幕屋」は、いつか必ず壊れるときがきます。
 それに対して、「神の下さる建物」があります。
これは、死後に与えられる「復活のからだ」を指しています。
幕屋のように一時的で不安定なものではなく、動くことのないしっかりした建物のようなのです。
神が復活の後にくださるからだは、永遠に続く、重い栄光(4:17)なのです。
それは地上のからだのように日々衰えていく不完全なからだではなく、完全なからだです(ピリピ3:21)。
 そしてそれは、「人の手によらない天にある家」なのです。
「人の手によらない」とは、天地創造の関連で造られた人のからだではなく、天国を生きるための全く新しいからだという意味でしょう。
天地創造の時に造られた人間のからだは、この地上に適合するからだです。
しかし将来与えられる栄光の復活のからだは、天国で生きるためのからだです。
天国で生きるためには、地上のからだではだめなのです。
一時的で日々衰え、やがては死ぬべき肉体ではなく、永遠に続き、罪と全く関わりのない完全なからだが、神から与えられるのです。


<2節>

 私たちは地上では、この肉体という幕屋を身にまとって、うめいているのです。
それは、からだが完全に贖われる、救いの完成を待ち望むうめきです(ローマ8:23〜24)。
罪の世にあるからこそ苦悩があるわけですが、その中で罪の世から完全に贖われ、罪が全く存在しない復活のからだをいただく時を待ち焦がれて、うめいているのです。
そのうめきは、そのまま復活のからだを切望する祈りになっていくのです。


<3節>

 「裸の状態」とは、霊がからだをもたないでいる状態です。
人は誰でも死んだら、霊と肉体が分離します。死んだら地上の肉体を失うため、霊は外側のからだを失い、裸のような状態になってしまうのです。
しかし「天から与えられる住まい」(2節)である復活のからだが与えられると、霊は再びその新しいからだと結合して、もはや霊が裸のままの状態でいることはなくなります。
死んだ後に、地上のからだを脱ぎ捨ててそのままだと、霊は裸のままの状態になります。
しかしキリストを信じて罪から救われた者たちは、復活のからだを着ることになるので、霊が永遠に裸のままでいることはないのです。


<4節>

 地上の幕屋を身にまとい、罪の世を歩く中で、「私たちは重荷を負ってうめいています」。
しかし、そのうめきは、「天からの住まい」である、復活のからだを早く着たいといううめきでもあるのです。
 「死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」という表現は、第一コリント15章54節でも引用したことから、パウロは自分が生きている間に再臨(キリストが再び地上に来られる日)が起き、死を味わわずに瞬時に地上の肉体から復活のからだに変えられることを願っていたのかもしれません。


<5節>

 この節では、「神」が原文では強調されています。神が、復活のからだをいただくことにかなう者と私たちをしてくださったのです。
本来は、罪のために死後には滅びしかなく希望のない者であったのに、神が御子キリストを世に送ってくださり、私たちの罪の身代わりの死を、キリストが負ってくださったのです。
ただこの方を信じるだけで、罪がきよめられ、罪と全く関わりのない復活のからだが与えられるのです。
すべて神の主権のもとになされた救いで、私たちの側には一切受ける資格はなかったのです。
 そして神は、私たちが復活のからだをいただく保証(「手付き金」「婚約指輪」とも訳せます)として、御霊を下さったのです。
御霊は、復活のからだをやがていただくことの保証です。
ですから、御霊によってパウロたちは「私たちは知っています」(1節)と、まだ見ていない復活のからだが与えられることを確信できたのです。

復活のからだをいただくことの保証ですから、はっきり「私は御霊をいただいた、私の内には神の霊である御霊がおられます」と言えるものでなければ困るのです。
そのことがもし曖昧であるなら、さらに「保証としての御霊を神は私に下さいました」と言えるまで、祈り求めていきましょう。
御霊によって、私たちは「見えないけどいつまでも続くもの」(4:18)に目を留めることができるのです。
「測り知れない重い永遠の栄光」(4:17)があることを確信して地上の患難の中を軽やかに生きることができるのです。
                                      
 私たちの地上の肉体は、「土の器」(4:7)であり、不安定でやがては壊れる幕屋のようなものです。
しかし神は、決して壊れることのない天国を生きるための、復活のからだを用意してくださっています。
そのからだは、罪から完全に贖われ、病気もケガも痛みもなく、衰えることもない永遠のからだなのです。
それを目指しながら、一時的なものへのとらわれを日々うしろにして、前進していきましょう。
御霊は、目に見えない重い栄光に絶えず目を向けてくださいます。
保証として、さらに後に与えられる栄光の重さに目を向けてくださいます。
地上の肉体をまとっている間は、まだこの地上でするべき神からの使命があります。
そのことに忠実でありつつ、でもどっかりと世に根を下ろさずに、テントの杭を抜くように、「地上の幕屋」として、天の家を目指していきましょう。





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 11月14日
主題:「目を留めるべき永遠の栄光」 
               Uコリント4:16〜18 (三浦真信牧師)


<16節>

 「ですから、私たちは勇気を失いません」
苦難と弱さの中で、神の測り知れない力が現れることを知っているからこそ、またその苦難の結果、多くの人々がキリストの恵みによって救われ、神に感謝をささげるようになり神の栄光が現れるからこそ、パウロは勇気を失わなかったのです。
 ここでパウロは、「外なる人」と「内なる人」の違いを明らかにしています。
「外なる人」は、「土の器」(7節)であり、「死ぬべき肉体」(11節)のことでもあります。
弱く限界のある外なる人は、死に向かって日に日に衰えていくものです。
その「外なる人」に望みを置いていたら、私たちはいよいよ絶望するしかないのです。
 しかし感謝なことに、「内なる人」は日々新たにされています。
この「内なる人」は、キリストによって、新しく造りかえられた人です。
日々「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」(5:17)という事実を、「内なる人」において体験していくのです。
ですから、「外なる人」がどんなに苦難や弱さに晒されても、大丈夫なのです。


<17節>

 パウロは、自分が経験している苦難を、「今の時の軽い患難」と言い放ちます。
しかし実際は決して「軽い患難」ではなく、死に直面するような迫害と苦難の連続でした。
それをあえて「軽い患難」と言えたのは、「測り知れない、重い永遠の栄光」と比較してのことでした。
やがていただく勝利の冠、天の栄光に比べたら、どんな地上の患難でも「軽い」と思えるほどの「重い栄光」を、私たちは受けることが約束されているのです。
 この「測り知れない(ヒュペルボレー)」は4章7節でも使われていますが、ここでは2回繰り返して使われています。
「測り知れない上に、さらに測り知れない」というような、もう言葉では表現しがたいほどの、「重い栄光」が用意されているのです。
その測り知れない重い栄光に比べれば、外なる人が受ける苦難は軽いのです。
 実際、大きな重荷と思える出来事も、主イエス様が今共に担っていてくださることがわかると、軽くなります(マタイ11:28〜30)。
決して、キリストのための難行苦行が功績となって、重い永遠の栄光が得られるわけではありません。
人のわざが永遠のいのちを与えるわけではありません。
聖書が一貫して伝える救いは、ただキリストを信じる信仰によってのみ与えられるものです。
しかし信じた結果、キリストのための苦難は大なり小なり起きてきます。
それでも、すでに後の測り知れない重い永遠の栄光が約束されているので、心配しなくてよいのです。


<18節>

 「測り知れない、重い永遠の栄光」は、まだ実際に目に見える形で受け取ったわけではありません。
しかしキリストによる新しいいのちをいただいた者は、信仰によって恵みによって、天における永遠のいのちを受けることを知っています。
目には見えないけど、確かに信じる者たちに約束されている、重い栄光にこそ、私たちは目を留めていくのです。
外なる人、日々衰えてやがては死ぬべき人に目を留め、とらわれ、振り回されていくのではなく、日々新しくされる内なる人、そして内なる人がやがて受ける、測り知れない栄光に目を留め、心を注いでいくのです。
見えるものは、みな一時的で、すべて消えゆくものです。
しかし内なる新しい人が受け継ぐ天の御国は、永遠に続きます。
その永遠に続くものにこそ、心の目を留めていくのです。

 そうは言っても、実際に私たちは目に見える世界に生きています。
目に見えるものに取り囲まれています。
そういう意味では、目に見えるものと見えないものとの狭間で生きているのです。
外なる人をもって、この世で生きています。
ですから、すぐに見えるものにとらわれてしまうのです。
パウロも、自分の肉体の弱さを何度も取り去ってくださいと祈りました(12:8〜9)。
外なる人のことでも悩んだのです。
でもそこで、神のみこころは、その弱さを取り去ることではなく、高ぶることのないように恵みとして与えられたとげであることを受け取ります。
見えるところでは課題を抱え悩みつつも、神が与えてくださるもっとすばらしい栄光に目を留めていくように、繰り返し戻っていったのです。
 外なる人と、内なる人との緊張関係の中で、私たちはたえず揺れ動きながら生きています。
でも神のみこころは、「見えないものにこそ目を留める」ことであることを繰り返し受け取りながら、「一時的なものではなく、永遠に続くものに目を留めていこう」と立ち返っていくのです。
たえず見えるものにとらわれるのが、私たちの現実です。
それが、自分をも含め、死ぬべき肉体をもつ者たちの弱さであり限界であることを認めて、パウロは「土の器」と表現したのでしょう。
 測り知れない、重い永遠の栄光が、地上の患難を軽いと思わせるほどに私たちの心を支配し、たえず目に見えるものから、見えないものに心を向けてくださるよう、聖霊の助けを求めていきましょう。




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 11月7日

主題 「 神の栄光が現れるように 」 
         Uコリント4:13〜15 (三浦真信牧師)


<13節>
 「私は信じた。それゆえに語った」の部分は、詩篇116篇10節の70人訳聖書の引用です。
パウロは、キリストを伝え、キリストのからだなる教会に仕えていく上で、様々な苦悩を経験しました。
でもその悩みの中で、なお主を信じ、主に祈り、主により頼んでいったのです。
その結果、確かに迫害や口封じがあったけど、なお福音を語り続けることができたのです。
それは、パウロが苦難に微動だにしない屈強な精神の持ち主であったからではなく、ただ“信じた”からです。
悩みの中でもなお主を信じたからこそ、パウロは語ることができたのです。
それはすべて信仰によるのです。
詩篇の作者と「同じ信仰の霊を持っている私たち」だからこそ、苦難の中でも、なお神を信じて語り続けたのです。
 「土の器」(7節)であることは、旧約の信仰者たちも同じでした。
みな土の器でありながら、苦難の中で信仰を与えられ、信仰によって、倒れそうになっても立ち上がらされていったのです。
「弱いものなのに強くされ、戦いの勇士と」(へブル11:33〜34)されていったのです。
人間としての性質は、旧約の信仰者も、パウロも、そして私たちも何も変わりないのです。
「信じる」ことと「語る」ことは一つです(ローマ10:9〜10)。
イエスを救い主と信じた者は、それを口で告白しないではいられないのです。
信じているから、語るのです。

<14節>
 「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ」てくださるという信仰が、パウロの苦しみを軽減しました。
この世がすべてではなく、主イエスを死からよみがえらせた神が、私たちにも天国における復活のいのちを与えてくださることが、パウロの究極的希望でした。
この世は仮の宿であって(へブル11:13)、本番は天における永遠のいのちにあることを信じていたからこそ、世にある自分にとらわれずに済んだのです。
この世がすべてであれば、ガムシャラにこの世を楽しく充実して完結させなければならず、迫害されたり嘲られてまでキリストを伝えることなど無意味に思えたことでしょう。
キリストに仕えるために不愉快な思いをしたり、自分に死に、自分が損をしていく生き方など、魅力を感じなかったことでしょう。
一般的にも、「自分が幸せになることばかり考えている人は、いつまでたっても幸せにはなれない。
しかし人を幸せにしたいと思っている人はいつも幸せである」と賢者たちは言います。
ましてキリストに贖われた者たちは、本来罪のため永遠に滅びて当然だったのに、天国における永遠のいのちを受けたわけですから、それだけで十分すぎる幸福をいただいているのです。
そしてこの世ですべて完結しなくても、報われなくても、この永遠の救いに預かっているので、なお苦難の中でもキリストを語り続けるのです。
 さらに、ただ復活のいのちを与えられるだけではなく、神の御前に立たせていただけるのです。
それは、「聖く傷なく非難されるところのない者として」(コロサイ1:22、ユダ24〜25)御前に立たせてくださるのです。
神の御前に立たされるとき、神から罪を責められ、非難されるなら、これほど恐ろしいことはありません。
しかし、キリストがすべての罪を十字架上で帳消しにしてくださり、聖い者としてくださっているので、安心してキリストを信じる者たちは神の御前に立つことができるのです。
その信仰ゆえに、パウロはまた語り続けることができたのです。

<15節>
 パウロが、キリストのために苦しんだ結果、コリントの人々をはじめ、多くの人たちが罪から救われ、その結果神への感謝が満ち溢れました。
そして「神の栄光が現れた」のです。
キリストの福音が語られ、それを受け取った時に、人々の中に感謝が満ち溢れるのです。
それが神の栄光の現れなのです。
それはどんな境遇の中でも消えることのない感謝です(ピリピ4:11)。
パウロも、この神の栄光が見られるなら、自分が苦しんだことも人から侮られたことも、どうでもいいと思えたことでしょう。
自分が称えられたり、自分の栄光が現れても、それは空しいことです。
この世における自分という存在は、やがては死ぬものであり、朽ち果てる一時的なものです。
キリストに贖われた者にとっては、永遠の神の栄光が現れること、一人でも多くの者たちがこの救いの感謝を神にささげるようになることこそ、喜びであり、また生きる目的でもあります。

 苦悩しながらもキリストに仕えていく時に、また神の栄光を求めて生きていく時に、神は必ずそこに感謝の実を成らせてくださいます。
目に見える形ではすぐに現れなくても、また自分が損をしたり犠牲を払うことが多々あっても、神の栄光が現れることをなお私たちが願い求め、そこに生きる目標をしっかりおいていくなら、自分を生かし満たすことだけを考えて生きる空しい生き方から、本当に豊かで満たされた人生へと変えられていくことでしょう。
絶えず私たちの内に、古い肉の性質が働きますが、それでもそこからまた神の栄光を求めていきましょう。
                       





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