主題: 「荒野で主の栄光を見る」
イザヤ35章 (三浦真信牧師)
<1〜2節>
34章では、神を侮る者たちへの徹底的な神のさばきが預言されていますが、ここでは神に立ち返る者たちの罪からの解放と回復の預言がなされています。
「荒野、砂漠、荒地」が、神の恵みのわざにより、エデンの園のような美しさに変容し、喜びと讃美があふれるようになるのです。
花など咲くはずのなかった荒野に、サフランの花が一面に「盛んに」、力強く咲き誇るようになります。
「カルメル、レバノン、シャロン」は、罪ゆえに辱めを受けて、しなびて荒地のようになると宣告されていたのに(33:9)、「主の栄光」を見るようになるのです。
荒野が回復するときに、多くの場合は痛みを伴います。
しかしその痛みを通して、主の栄光を見ることになるので、その痛みさえも必要な痛みであったと受けとれて感謝に変わるのです。
<3節>
神のさばきの前に、心が萎えてしまい、その絶望感と無気力な様子が、からだや姿勢にも表れています。
しかしそのようにうつ向き、よろめく民たちに、「しっかりせよ」と神は語りかけられます。
<4節>
「強くあれ、恐れるな」と、神はアブラハムの時、また出エジプトの時から、ずっと今日まで神の民たちに語りかけておられます。
神は、見える現実を見て恐れるのではなく、たえず神を信頼していくことを決断するように民たちに迫ります。
「見よ、あなたがたの神を」と、荒野のような現実に心がとらわれていくのではなく、神を見上げ、神を信頼していくことを求めておられるのです。
「復讐、神の報い」、すなわち神のさばきは確かにあります。
イザヤ書では、イスラエルのさばきと回復だけではなく、全世界的な終末の神のさばきと救いをも預言しています。
終わりの時、神の御前にすべての人が立つときにも、神を見上げて神に信頼する者たちを、「神は来て、救われる」のです。
<5〜7節>
私たちが神を心に迎えた時に、霊の目が、霊の耳が開かれます。
今まで見えなかった神の世界が見えるようになり、今まで聞こえなった神のことばの真理が耳に飛び込んできます。
愚痴と不満しか語らなかった口には、神への感謝と讃美が湧き上がってきます。
キリストが地上に来られた時には、肉体にもこのような癒しと変化がもたらされました。
キリストを信じて歩むときに、全人的ないやしと回復が与えられていくのです。
そしてそれは個人だけでなく、周囲の人々や自然にも回復をもたらしていくのです。
究極的には、新天新地において、復活のからだが与えられ、荒野とは無関係な天の住まいが与えられていくことで、完全にこの預言は成就します。
<8〜10節>
神の都、シオンへの大路があります。
私たちは、その天の都を目指しながら、地上の荒野を歩んでいます。
神の目からご覧になれば、そこは神の都に続く聖なる道なのです。
その道は、「汚れた者」は通れません。
イエス・キリストの十字架の血潮によって罪を洗われた者だけが、通ることができるのです。
9節と10節の「贖われた者たち」は、へブル語言語では、違う言葉が使われています。
9節では「ガーアル」(代金を支払って買い戻す)が使われ、10節では「パーダー」(解放する)が使われています。
この二つの言葉を使いながら、キリストの血によって罪きよめられて神の民とされた者たち、また罪から完全に解放された者たちこそ、この聖なる道を通って、喜び歌いながら神の都シオンへ帰ってくることを強調しています。
そこでは、永遠に消えることのない喜びをいただき、地上のように私たちを脅かす「獅子や猛獣」のような存在に会うこともなくなります。
唯一の敵である、サタンが滅ぼされるからです。
天の都では、「悲しみと嘆き」は完全に逃げ去るのです。
この地上にあっては、確かに「悲しみと嘆き」があります。
今の肉体には、罪の残骸があるため、なお悲しみや嘆きもあるのです。
それが人間です。
キリストを信じて、内側には救われた大いなる喜びがあるのですが、日々の現実の生活には、悲しみや痛みがあるのです。
決して何も感じないロボットになってしまうわけではありません。
しかし、キリストに贖われた者たちは、悲しみや嘆きを身に感じるときにも、神を見上げます。
その痛みを神に向かって祈り、みことばに現実の自分の姿を照らされて歩む中で、いつしかその「悲しみと嘆きは逃げ去る」という経験をするのです。
神の都における完全な贖いには至りませんが、「あれほど悲しみと嘆きがあったのに、いつしかそれらは逃げ去ってしまった」という事実を体験することができるのです。
私たちは、神の都に続く一本の大路を歩んでいます。
その途中には、獅子のようにほえたける悪魔の姿や、猛獣に遭遇するような恐ろしい出来事もあります。
でも神は「強くあれ、恐れるな、見よ、あなたがたの神を」と、私たちに語りかけ、守り導いてくださいます。
私たちの目には、荒野や砂漠に見えても、神の目からは、約束の都シオンに続く一本の聖なる道なのです。
荒野や砂漠さえも、神を見上げるときに、楽しみと喜びがあふれ、サフランの花が咲くような豊かな場所に変えられるのです。
荒野でこそ、主の栄光を見せてくださるのです。
確かに神が生きて働かれる事実を、そして神の民を見捨てることなく、とことん守ってくださるご愛を、荒野の中でこそ見ることができるのです。
ハレルヤ!
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