(2010年12月)

 ・ 12月26日
 ・ 12月19日
 ・ 12月12日
 ・ 12月5日
 








 12月26日
主題: 「荒野で主の栄光を見る」 
             イザヤ35章 (三浦真信牧師)

                              
<1〜2節>

 34章では、神を侮る者たちへの徹底的な神のさばきが預言されていますが、ここでは神に立ち返る者たちの罪からの解放と回復の預言がなされています。
「荒野、砂漠、荒地」が、神の恵みのわざにより、エデンの園のような美しさに変容し、喜びと讃美があふれるようになるのです。
花など咲くはずのなかった荒野に、サフランの花が一面に「盛んに」、力強く咲き誇るようになります。
「カルメル、レバノン、シャロン」は、罪ゆえに辱めを受けて、しなびて荒地のようになると宣告されていたのに(33:9)、「主の栄光」を見るようになるのです。
 荒野が回復するときに、多くの場合は痛みを伴います。
しかしその痛みを通して、主の栄光を見ることになるので、その痛みさえも必要な痛みであったと受けとれて感謝に変わるのです。


<3節>

 神のさばきの前に、心が萎えてしまい、その絶望感と無気力な様子が、からだや姿勢にも表れています。
しかしそのようにうつ向き、よろめく民たちに、「しっかりせよ」と神は語りかけられます。


<4節>

 「強くあれ、恐れるな」と、神はアブラハムの時、また出エジプトの時から、ずっと今日まで神の民たちに語りかけておられます。
神は、見える現実を見て恐れるのではなく、たえず神を信頼していくことを決断するように民たちに迫ります。
「見よ、あなたがたの神を」と、荒野のような現実に心がとらわれていくのではなく、神を見上げ、神を信頼していくことを求めておられるのです。
 「復讐、神の報い」、すなわち神のさばきは確かにあります。
イザヤ書では、イスラエルのさばきと回復だけではなく、全世界的な終末の神のさばきと救いをも預言しています。
終わりの時、神の御前にすべての人が立つときにも、神を見上げて神に信頼する者たちを、「神は来て、救われる」のです。


<5〜7節>

 私たちが神を心に迎えた時に、霊の目が、霊の耳が開かれます。
今まで見えなかった神の世界が見えるようになり、今まで聞こえなった神のことばの真理が耳に飛び込んできます。
愚痴と不満しか語らなかった口には、神への感謝と讃美が湧き上がってきます。
キリストが地上に来られた時には、肉体にもこのような癒しと変化がもたらされました。
キリストを信じて歩むときに、全人的ないやしと回復が与えられていくのです。
そしてそれは個人だけでなく、周囲の人々や自然にも回復をもたらしていくのです。
究極的には、新天新地において、復活のからだが与えられ、荒野とは無関係な天の住まいが与えられていくことで、完全にこの預言は成就します。


<8〜10節>

 神の都、シオンへの大路があります。
私たちは、その天の都を目指しながら、地上の荒野を歩んでいます。
神の目からご覧になれば、そこは神の都に続く聖なる道なのです。
その道は、「汚れた者」は通れません。
イエス・キリストの十字架の血潮によって罪を洗われた者だけが、通ることができるのです。
 9節と10節の「贖われた者たち」は、へブル語言語では、違う言葉が使われています。
9節では「ガーアル」(代金を支払って買い戻す)が使われ、10節では「パーダー」(解放する)が使われています。
この二つの言葉を使いながら、キリストの血によって罪きよめられて神の民とされた者たち、また罪から完全に解放された者たちこそ、この聖なる道を通って、喜び歌いながら神の都シオンへ帰ってくることを強調しています。
そこでは、永遠に消えることのない喜びをいただき、地上のように私たちを脅かす「獅子や猛獣」のような存在に会うこともなくなります。
唯一の敵である、サタンが滅ぼされるからです。
天の都では、「悲しみと嘆き」は完全に逃げ去るのです。
 この地上にあっては、確かに「悲しみと嘆き」があります。
今の肉体には、罪の残骸があるため、なお悲しみや嘆きもあるのです。
それが人間です。
キリストを信じて、内側には救われた大いなる喜びがあるのですが、日々の現実の生活には、悲しみや痛みがあるのです。
決して何も感じないロボットになってしまうわけではありません。
しかし、キリストに贖われた者たちは、悲しみや嘆きを身に感じるときにも、神を見上げます。
その痛みを神に向かって祈り、みことばに現実の自分の姿を照らされて歩む中で、いつしかその「悲しみと嘆きは逃げ去る」という経験をするのです。
神の都における完全な贖いには至りませんが、「あれほど悲しみと嘆きがあったのに、いつしかそれらは逃げ去ってしまった」という事実を体験することができるのです。

 私たちは、神の都に続く一本の大路を歩んでいます。
その途中には、獅子のようにほえたける悪魔の姿や、猛獣に遭遇するような恐ろしい出来事もあります。
でも神は「強くあれ、恐れるな、見よ、あなたがたの神を」と、私たちに語りかけ、守り導いてくださいます。
私たちの目には、荒野や砂漠に見えても、神の目からは、約束の都シオンに続く一本の聖なる道なのです。
荒野や砂漠さえも、神を見上げるときに、楽しみと喜びがあふれ、サフランの花が咲くような豊かな場所に変えられるのです。
荒野でこそ、主の栄光を見せてくださるのです。
確かに神が生きて働かれる事実を、そして神の民を見捨てることなく、とことん守ってくださるご愛を、荒野の中でこそ見ることができるのです。
ハレルヤ!





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 12月19日
主題: 「予期せぬ出来事」 
          ルカ1:26〜55 (三浦真信牧師)

                              
マリヤの親類エリサベツが、不妊のため子供が生まれず、また年もとっていたのに、夫ザカリヤに御使いからあった告知通り、妊娠しました(5〜24節)。
それから6か月して、今度はマリヤに受胎告知がありました(26〜33節)。
エリサベツにとっては、夫ザカリヤと共に待ち望んでいた出来事でしたが、マリヤにとってはとても恐れを感じる出来事でした。
なぜなら、マリヤはヨセフと結婚の約束はしていましたが、まだ夫婦にはなっていなかったからです。
その状態で妊娠することは、ヨセフからも離縁されるかもしれないし、石打の刑に処せられるか(申命記22:22〜24)、厳しい社会的制裁を受けることも予想されたのです。
マリヤは率直にその不安を御使いに伝えますが(34節)、御使いは、どこまでもマリヤが 聖霊によって子を宿すことを強調しました。
そして人間の常識ではありえないことも、神にとっては不可能なことは一つもないことを(37節)マリヤが受け取れるように、半年前から親類エリサベツを通して示してくださっていたのです(36節)。
子を宿す可能性がなかったエリサベツにまず神は奇跡を起こし、マリヤに半年間、「神の力はすごい」という事実を見せ続けてくださったのです。
そして、「神にとって不可能なことは一つもありません」(37節)という御使いの ことばにより、マリヤは「本当にその通りです」と受け取れるように導かれていきました。
「ほんとうに、私は主のはしため(女奴隷)です」(38節)という言葉から、マリヤにとって神は従うべき主であり、自分の考えとは違っても神の言われることに従っていこうとしていたことがわかります。
不安材料はたくさんありましたが、最終的に「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、神がなさることに信頼してお任せしたのです。
この後、マリヤは急いでエリサベツのもとに向かいます(39〜45節)。
エリサベツは、おそらくマリヤに御使いからあった告知のことは知らなかったことでしょう。
しかしマリヤがあいさつをした途端に、エリサベツは聖霊に満たされて、マリヤと胎の実を祝福します。
そして、なお不安を抱えるマリヤを、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いでしょう」(45節)と、励まします。
神は、様々な具体的事実、人々の証しと励ましのことばを通して、「大丈夫だ、大丈夫だ」と、このように力づけてくださるのです。
マリヤは、ここで神を崇めて讃美します(46〜55節)。
卑しいはしためのような自分に、神が目を留めてくださったことへの感謝(48節)と、力ある神が小さな自分を救い主を生むために用いてくださることの感謝(49節)をささげます。
そして、神が心貧しく神を畏れるものを、見放すことなくどこまでもあわれんでくださり、高ぶるものを引きずりおろす方であることをうたいます。
マリヤは、確かにイエス・キリストを身に宿しますが、このように神の御前にひざまずく存在でした。
神の御前には、私たちと同じ罪ある存在であり、神に従うべき存在ですので、 決して崇める対象にはなりません。
マリヤにとって、御使いガブリエルの告知は、全く予期せぬ出来事でした。
また簡単には受け取れることではなかったのです。
内容は違っても、私たちの人生の中でも、全く予期せぬ出来事がしばしば起きてきます。
「まさかこのようなことが自分の身に起きるなんて」と困惑するときに、神はどのように私たちを助けてくださり、また私たちもどのように受け取るべきかを、このマリヤの一連の出来事を通して知ることができます。
私たちは、想定外の出来事の前に、すぐ恐れや不安を抱くものですが、神は常に聖書のみことばにより、また人々の証しや励ましにより、助けてくださるのです。
地球温暖化による気候の変化、自然災害、また社会の変化による複雑な事件が多発する中で、いよいよ私たちは自分たちの小ささと無力感を味わうことになります。
しかしその中でも、「神にとって不可能なことは一つもありません」(37節)という事実を信じ、この神の守りの中にあることを実感できるなら、どれほど心強いことでしょう。
全知全能の神が語られたことは必ず実現すると信じ、その神に愛され守られて生きることができるなら、これほど安心なことはありません。
イエス・キリストは、その神の愛と、確実な神の守りがあることを私たちに知らせるために世に生まれてくださったのです。
最初の人アダムが、たった一つの神の戒めを破って以来、この世に罪が入ってきました。
すべての人は、その罪を受け継ぎながら生まれてくるのです。
しかしこの罪をもったままでは、最終的には神の刑罰のもとに滅びるしかないのです。
なぜなら、神は完全に義なる聖い方だからです。
この罪がきよめられて、神と和解しない限りは、人の根本的孤独は癒されません。
罪をもったままでは、神と敵対関係にあるのです。
神の御手が短くて救えないのではなく、私たちの罪とが咎が、神との仕切りとなっているのです(イザヤ59:1〜2)。
この罪がきよめられて、神と和解しない限りは、孤独とやがてくる刑罰への恐怖は 消えないのです。
神は義であると同時に、愛なる方です。
すべての人が罪の結果滅びることをよしとはされませんでした。
そこで救い主キリストを遣わされたのです。
全く罪をもたれない神でありながら、罪を犯す以外は人と全く同じ肉体をもって、キリストは生まれました。
完全に神でありながら、完全に人となられた方だからこそ、神と人の仲介をすることができるのです。
罪なき方が、私たちが感じるのと同じ痛みや悲しみをもちながら、十字架刑を受けられました。
旧約でも、罪のいけにえには、完全な動物がささげられました。
正に全く罪汚れなき方が、すべての人の罪のいけにえとして、十字架上でささげられたのです。
そして死んで終わりではなく、三日目によみがえり、罪の結果である死に勝利されたのです。
キリストを信じるものは、もう罪の刑罰を恐れなくてもよいのです。
人間の罪に対する神の 怒りは、すべてキリストが十字架で受けてくださったのです。
私たちは、このままで、ただキリストがすべての罪の身代わりとなって死んでくださったことを感謝するだけで、終わりの日に大胆に神の御前に立つことができるのです。
そして、キリストを信じて神と和解するなら、どんな 予期せぬ出来事に遭遇しても、神が責任を持って守り導いてくださるのです。
このすばらしい喜びを与えるために生まれてくださった、主イエス・キリストのご降誕を、心から感謝いたします。




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 12月12日
主題: 「キリストの愛に迫られて」 
            Uコリント5:11〜15 (三浦真信牧師)

                              
<11節>
 私たちはみな、キリストのさばきの座に立つことになること(10節)を知っているのですから、「主を恐れることを知っている」のです。
終わりの時に神の御前で、地上のすべての行いが明らかになる時があることを知っているのですから、パウロは神を恐れ敬いつつ、「主に喜ばれること」を願っていました。
またコリントの人たちに対しても、悪意をもって接していないことは、神がご存じであると確信していました。
 しかし、パウロとしては、「皆が自分のことを理解してくれなくてもいい」とは思わなかったのです。
コリントの人たち皆に、パウロがどのような思いで使徒として仕え、コリントの人たちに仕えているかが明らかになることを望みました。
なぜなら、パウロへの不信が、そのままパウロが語る福音への不信につながることになったからです。
折角キリストを信じて罪からの解放を経験した人たちが、コリント教会に入り込んできた偽教師たちの惑わしにより、福音から離れてしまったことをとてもパウロは残念に思いました。
彼らが、パウロを中傷することで、人々がパウロの語る福音にまで疑いをもつように仕向けたようです。
ですから、神の御前で終わりの日に明らかになるだけでなく、コリントの人たちにもすべてが明らかになることを望んだのです。

<12節>
 11節のことばによって、ある人たちが「またパウロは自己推薦をしている」と言われることを危惧して、決してそのような思いで弁明しているのではないことを再び強調します。
そしてコリント教会を混乱させている人たちが、自分たちが雄弁であること(11:6)や生粋のユダヤ人であること(11:22)など、「うわべのこと」を誇っていたことを指摘します。
彼らが「心において」決して誇れる状態ではないこと、神を畏れ、神に喜ばれようという動機ではなく、ただ自分たちの思いを実現したいだけであることは、多くの人たちにとって明白だったのです。
ただもともとパウロの人間性にひっかかっていたり、何となくパウロのことが気に食わなかった人たち、また偽教師たちと情でつながっていた人たちの中には、彼らのパウロへの中傷を聞いて、簡単に惑わされ福音から離れてしまう人もいたようです。
パウロは、そのようなうわべだけを誇って、心においては主を否定している人たちに対して、どこまでも「心において」、主を畏れ、主に喜ばれようという動機だけで仕えていることを伝えます。

<13節>
 パウロの反対者の中には、「パウロは気が狂っている」と非難する人もいたようです。
確かに、神一筋で情熱的に宣教するパウロの姿は、ある人たちには狂信的にさえ見えたかもしれません(使徒26:24〜26)。
しかしパウロが、そのように見られるほど熱くキリストを語るのは、「神のため」でした。
またコリントの人々やキリストのからだなる教会に対しては、常に冷静さと配慮をもって(正気に)仕え、教会の徳を立てることに心を砕きました。
決して何も考えずにガムシャラに行動していたわけではありません。
その熱心さは、どこまでも神のためであり、人々に対しては、細やかに気を遣いながら、丁寧に説明したり、配慮するパウロでした。

<14節>
 パウロが、そのように熱く神と人に仕えることができたのは、「キリストの愛が取り囲んでいるから」でした。
「取り囲む(シュネコー)」は、「迫ってくる」という意味もあります。
パウロが、かつてクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていた途上で、復活のキリストに出会って以来、キリストの愛がパウロに迫ってくるのです。
キリストにがっちり捕えられたパウロの行動の原動力は、常に彼に迫ってくるキリストの愛でした。
このキリストの愛(アガペー)は、一方的で無条件な愛です。それは、キリストの十字架の死に現されている愛です。
 「ひとりの人」、すなわち「キリスト」がすべての人のために十字架で死なれました。
それは、キリストだけのことに留まらず、すべての人が死んだのです。
私たちの罪のために死なれたキリストを通して、私たちは神のアガペーの愛を知りました。
そして、私たちも、キリストとともに十字架で死んだのです(ガラテヤ2:20)。
キリストの死は、古い生まれながらの私の死でもあるのです。

<15節>
 キリストがすべての人のために死なれたということは、私も十字架で死んだことなのです。
ですから、私たちは死んだ自分のために生きるのでなく、私のために死んでよみがえった方のために生きるのです。
「キリストが私のために死なれた」という事実は、生きる目的や動機を根底から覆す出来事なのです。
キリストの死を通して現された神の愛が、私たちを取り囲み、迫ってきて、この方のために生きたいと心から願うようになるのです。
キリストとともに死んで、復活のキリストの新しい命によって生かされた者たちは、「自分のために死んでよみがえった方のために生きる」という目的があります。
それは、「主に喜ばれる」(9節)ことを念願とする生き方であり、「私の身によってキリストがあがめられること」(ピリピ1:20)を求める生き方でもあります。
パウロは、今なお生かされている理由は、「キリストのために生きる」ためであることをはっきり受け取っていました。
そして死からよみがえられたキリストが、この人生の目的を全うさせてくださるのです。                              
 キリストとともに死んだことを認め、キリストのために生きようと決心することが献身です。
本来クリスチャンは皆献身者なのです。
献身していないクリスチャンほど、中途半端で、不自然な存在はいないのです。
キリストの愛に取り囲まれているのに、自分のために生きることほど疲れることはありません。
むしろ、みことばにあるように、自分を手放して神にささげた方が楽なのです。
自分の思いを捨てて、「神様、あなたの思い通りに生かしてください」とささげた方が、清々しい生き方ができるのです。
 「私は誰のために生きているのか?」「何のために生かされているのか?」問いかけてみましょう。




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 12月5日

主題:「 主に喜ばれること 」 
            Uコリント5:6〜10 (三浦真信牧師)


<6節>
 「そういうわけで、私たちはいつも心強いのです」
 四方八方から苦しめられたり、途方にくれたり、迫害されたり、苦難の連続にあったパウロですが(4:8〜9)、それにもかかわらず、「私たちはいつも心強いのです」と言える理由は、この肉体がこわれても、神が復活のからだを与えてくださることを、御霊によってはっきり知っているからでした(5:1〜5)。
それは、「いつも」とあるように、環境や自分の気分に左右されず、どんな時にもある心強さなのです。
 日々肉体の衰えを感じつつ、また地上の肉体が受ける苦難を経験しつつ、天国を生きるための復活のからだがやがて与えられることを、御霊が保証してくださっているので、私たちは心強いのです。
この希望が、悩み多き世にあっても、私たちに日々力を与えているのです。
「ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています」
 これは、地上の肉体をもっている間は、主イエスが私たちのもとから離れて、共におられないという意味ではありません。
イエスは、インマヌエル(「神は私たちと共におられる」)の主です(マタイ1:23)。
世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださる方です(マタイ28:20)。
目には見えないけど、確かにいつも共にいてくださる方です。
ただ目には見えないので、天においてやがて顔と顔を合わせてお会いする時と比べたら、それはまだぼんやりした状態であり、一部分しか知ることができない状態です(Tコリント13:12)。

<7節>
 この地上にあっては、はっきり見える形で主とお会いしてはいません。
「信仰によって」私たちは、主イエスがともにいてくださることを信じ、また御霊により知っているのです。
見えるものがすべてという価値観の中では、目に見えない主がともにおられることは理解できないのです。
でも信じる者たちのうちにおられる御霊が、主イエスがともにおられること、そして信じる者たちに復活のからだを与えてくださることを確信させてくださるのです。

<8節>
パウロは、この地上の肉体を離れて、主と顔と顔を会わせ、主を完全に知ることができる天国にいくほうがよいと思っています。
しかし今はまだ地上で使命があり、留まることの方が必要であることもわかっているのです(ピリピ1:21〜24)。

<9節>
パウロは、生きるか死ぬかにあまりこだわっていません。
なぜなら、今の地上の生活は、そのまま天国にまでつながっているからです。
死んで主のみもとに行くにしても、主とともにいることに変わりはありません。
それよりもパウロがこだわることは、「主に喜ばれること」なのです。
パウロだけでなく、キリストに贖われた者たちの一番の願いは、「主に喜ばれること」なのです。
キリストのいのちが、私たちの内で大きくなってきますと、自然とそのようになってくるのです。
かつては、自分を喜ばせることが最大の関心事だったかもしれません。
でもキリストに出会いますと、自分の欲を満たすことも、自分だけを楽しませて生きることも空しくなってくるのです。
 また人を喜ばせることを一番の願いとしていても、迷い疲れていきます。
人の喜ぶ基準は、人によって異なります。
自分だったら喜ぶことも、人には不愉快であることもあるのです。
すべての人を喜ばせることは、誰もできません。
人の顔色を絶えずうかがいながら生きると、結局どうしてよいかわからなくなり、かえって自ら混乱して人間関係を破壊していくことになるのです。
しかし「主に喜ばれる」生き方は、ブレることがありません。
自分の状態にも、人の顔色に左右されることもありません。
主が何を喜ばれるかは、聖書にすべて書いてあります。
私たちが主に喜ばれることをしていくときに、御霊は私たちの心をも喜びで満たしてくださるのです。
 「主に喜ばれること」とは、「私の身によってキリストがあがめられること」(ピリピ1:20)でもあります。
生きるにしても死ぬにしても、それはどちらでもいいことなのです(地上の生活がすべてと信じる人には大問題ですが)。
それよりも、生きるにも死ぬにも、この土の器である私の身を通して、キリストが崇められることこそ、キリストの救いを受けた者たちの一番の願いなのです。
実際の歩みは、私の身によって躓かせることの方が多いかもしれません。
それでも、少しでもこの身によってキリストが崇められてほしいと願って生きるときに、私たちのうちにも喜びが湧いてくるのです。

<10節>
「主に喜ばれること」を願う理由の一つとして、私たちが皆「キリストのさばきの座」に立つことが挙げられています。
「さばきの座」(言語では「ベーマ」)とは、「法廷」の意味でも使われています(使徒18:12、16)。
ベーマは、統治者が演説をしたり、裁判が行われた厳粛の場です。
私たちは、「キリストのベーマ(さばきの座)」にやがて立って、すべての罪が明らかにされます。
地上で犯したすべての罪、だれにも秘密にしていたことも、人には見えなかった心の中の罪も、みな露わにされるのです。
そしてそれに応じて、何らかの報いを受けることになります。
 パウロがここで言う「さばきの座」は厳粛な場ですが、救いを決めるところではないようです(ローマ14:8〜10)。
しかし地上の肉体を着ていたときの行為に対して、何らかの報いがあるようです。
具体的にどのような報いがあるのかはわかりませんが、そうであるなら、やはり地上にあっても主に喜ばれる生き方をした方がよいのです。
罪を犯さないですむなら、犯さない方がよいのです。
その行為に対する報いをいたずらに恐れる必要はありませんが、「各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」と言われているのですから、主に喜ばれる生き方をした方がよいのです。
 キリストの恵みによって救われた者たちは、義務としてではなく、喜んで主のみことば(戒めも含めて)を愛するようになるのです。
主のご愛を受けた者として、「主に喜ばれたい」「主の戒めを愛して生きたい」と願うことは、自然な神への応答なのです。

 コリント教会で、極度の律法主義を強調する人たちが、パウロが語る福音から人々を逸らせようとしました。
それによって、惑わされて福音から離れてしまう人たちも少なからずいました。
しかし、そのような惑わす人たちも、惑わされる人たちも、最終的にはキリストに立ち返るなら赦されます。
でもできるなら、回り道をしないに越したことはないのです。
主に喜ばれる生き方をすることが、その人にとっても喜びであり、またキリストのさばきの座に立つときにも、喜びが満ちることになるのです。
 パウロたちが願うことは、自分を喜ばせることでも、誰かを喜ばせて媚を売ることでもなく、ただ「主に喜ばれること」でした。
神はまず、私たちに「すばらしい喜び」を与えるためにキリストを世に遣わしてくださいました(ルカ2:10)。
この「すばらしい喜び」をいただいた者として、私たちも主に喜ばれる生き方を恵みの応答としていきましょう。






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