(2018年1月)

 ・ 1月28日
 ・ 1月21日
 ・ 1月14日
 ・ 1月 7日
 




 1月28日
聖日礼拝メッセージ要約 

  主題:「砕かれた心を捧(ささ)げる礼拝~罪人のための救い(4)~」

           詩篇51:14~19   三浦真信牧師

<14節>

 ダビデは、「血の罪から私を救い出してください」と祈ります。部下であるウリヤの妻バテ・シェバと親密な関係になり、ウリヤを故意に戦争の最前線に送り戦死するようにしむけたこと(Ⅱサムエル11章)を、ダビデは「血の罪」と表現しています。直接ダビデが手を下したわけではありませんが、間接的にはウリヤを殺したのも同然でした。神はダビデのその心をすべてご存知です。神の御前では、一切言い訳はできません。

 人を中傷(ちゅうしょう)してまわることも、「血を流す罪」とされています(レビ19:16)。実際に中傷(ちゅうしょう)された人にいのちの危険が及ぶこともありました。この「血の罪」は、ダビデだけのことではなく、誰もが犯しうる罪なのです。  


<15節>

 神に罪を赦された時に、初めて心からの神への賛美が生まれます。賛美は、神の救いを体験した者たちからあふれ出たものです。


<16~17節>

 罪に悩み果て、自分の中からはきよさも正しさも出てこない、あるのは罪だけ…という境地に立たされたダビデは、神が受け入れてくださる心は、「砕かれた心」であることを知ります。「神を礼拝する時に神が喜ばれるささげ物は、砕かれた心である」という信仰の奥義を見出したのです。

 17節では、原語は「打ち砕かれた(broken)」という言葉が2度使われていて、「神へのいけにえは、打ち砕かれた心、打ち砕かれて悔い改めた心」となっています。この砕かれた心こそ、神が私たちに求めておられるささげ物なのです。

 神の臨在に触れる時に、私たちは自分の罪深さ、弱さ、小ささを知らされます。また、様々な生きる上での苦しみ、悲しみ、痛みを通して、弱くされ打ち砕かれます。その打ち砕かれた貧しい心で、神に向かうことを神は喜んでくださるのです。取税人の祈り(ルカ18:13)「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず自分の胸をたたいて言った『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」を神は喜んでくださいます。

 ダビデは、自分の罪にうめき、骨々が疲れ果てるような中で(詩篇32:3)、自分に向かうのではなく、そのどうしようもない心のまま、打ち砕かれた心のまま、神のあわれみを求めていきました。そしてその心こそ、神が喜んでくださることを知ったのです。その砕かれた心のままで、神を礼拝していくことこそ、神が喜ばれるいけにえだと受け取ったのです。人はどうしても、立派な自分の状態で神の前に立とうとしてしまいます。しかし神は罪でドロドロのまま、落ち込んでいるまま、みじめな自分に打ちのめされているままで、神に向かい神を礼拝することを喜んでくださいます。自分に向かっていったら、ただみじめなことで終わるでしょう。しかし悔いくずおれた心のまま、神に向かい、神の豊かなあわれみを求めていくなら、決してみじめなままでは終わりません。こんな者が神に赦され救われ、神の子とされている喜びと感謝があふれてくるのです。放蕩(ほうとう)息子が、父のもとに帰らなければ、ずっとみじめなままでした(ルカ15章)。でもそのみじめな状態のままで、父のもとに帰っていったときに、喜びと平安がありました。

 私たちの身の回りに起きてくるあらゆることは、私たちが砕かれるため、そして砕かれた心で神を求め神を礼拝するためです。そこに喜びがあります。打ち砕かれる場所がなければ、私たちはすぐに傲慢(ごうまん)になり、神を求めず自分の力でやっていけるかのように思い上がってしまう弱い者なのです。砕かれた心をもって、自分にではなく神に向かいましょう。


<18節>

 神の「ご恩寵(おんちょう)により」エルサレムを、神の民たちを取り囲んでください…というダビデの祈りです。「今までは、自分の力、自分の自我で自分を取り囲み守ろうとしてきたけど、自分の罪を知った今は、もう神のご恩寵(おんちょう)、神の恵みにより頼みます」という、王としてのダビデの願いです。王として国を守ることも、神のご恩寵(おんちょう)なしにはできないことを痛感し、国も罪深い自分自身をも、神の恵みで取り囲んでくださるように願い求めています。


<19節>

 今私たちが捧(ささ)げる「全焼のいけにえと全焼のささげ物」は、「私自身」です。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)と、すべてのクリスチャンに命じられています。旧約においては、礼拝において動物が捧(ささ)げられましたが、キリストが十字架で私たちの罪のためのいけにえとして十字架で捧(ささ)げられた今は、キリストを通して神のものとされているので、私たちのからだを神に捧(ささ)げます。「神さま、私はあなたのものです」と告白して生きるのです。常に主の者として生きるのです。ふだんはそれぞれの仕事、家事育児、学業などそれぞれの本分を果たしながら、いざという時には、神の国の一員として「神のために何でもします」という生き方です。クリスチャンは皆、神にこの存在を捧(ささ)げた者と して生きる献身者です。

 預言者ナタンに自分の罪を指摘され、ダビデは神の前に罪を認めました(Ⅱサムエル12章)。その中で、罪を犯す以前に、神の御前ではすでに汚れ果てた存在であることを知り、自分自身が自分の手に負えない存在であることをダビデは実感します。ただ神の豊かなあわれみによって罪を洗いきよめてください、きよい心を造ってくださいと神に祈ります。そのダビデの祈りの答えとして、やがて神はキリストを世に遣わしてくださいました。罪なき神の子キリストが、すべての人の罪のいけにえとして十字架で捧(ささ)げられました。キリストが十字架で完全に打ち砕かれてくださいました。このキリストと共に、私たちも十字架で打ち砕かれ、古い自分に死んだのです。そしてキリストが死からよみがえられたように、私たちはキリストの復活のいのちで今生かされています。この救いが完成するのは、キリスト再臨の時です。キリストが再び来られる時まで、なおうめきつつ、でも十字架のキリストを見上げながら赦されていることを感謝しつつ、完全に贖(あがな)われるその日を待ち望みながら生きるのがクリスチャンです。「主よ、今日も私はあなたのものです」という告白をしながら、主に捧(ささ)げられた者として生きましょう。打ち砕かれた心を捧(ささ)げながら、神の豊かなあわれみを求めましょう。
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 1月21日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「救いの喜び〜罪人のための救い(3)〜」

           詩篇51:10~13   三浦真信牧師

<10節>

 自分の中から「きよさ」が出てこないことを痛感したダビデは、神に「きよい心」を造ってくださいと、切に求めます。この「造り」という言葉は、「初めに神が天と地を創造した」(創世記1:1)の「創造した」(バーラー)と同じ原語です。「きよい心」は、神だけが造れるものです。

 ダビデが求めた、「きよい心」は、キリストのうちにある者に神が与えてくださいます(Ⅱコリント5:17)。また聖霊によって与えられます(テトス3:5)。アダムの時から引き継いでいる罪(原罪)は、神に丸ごときよめていただくしかありません。どれだけ努力しても、善行を積んでも、神の御前できよい者とはならないのです。神はキリストの十字架によってのみ、信じる者たちの罪を完全にきよめてくださいます。そしてきよい神の聖霊が内に住んでくださるのです。


<11節>

 「私をあなたの御前から投げ捨てず」とは、「王宮から追放される家来のようにしないでください」というダビデの願いです。ダビデはサウル王が、神から見放され、聖霊が去ってしまう様子を側で見てきました(Ⅰサムエル16:14)。ダビデ自身も今、罪を犯して預言者ナタンからそのことを指摘され(Ⅱサムエル12:1~7)、聖霊を取り去られ王宮を追い出されるかもしれない、いやそうされても当然のことをしたと認めています。それでもなお「そのような私をあわれんでください」と低い心で祈り求めています。低い心は、開き直らずあきらめず、なお神のあわれみを求めます。


<12節>

 私たちが神に仕え、キリストのからだなる教会に仕えるための土台は、「救いの喜び」です。どれほど能力があっても、知識や経験があっても、「救いの喜び」なしにキリストに仕えることはできません。ダビデは、預言者ナタンに自分の罪を指摘され、罪悪感からうめきと渇きで骨々が疲れ果てるような経験をしました(詩篇32:3)。救いの喜び、そして神が共におられる安心を取り戻さなければ、とても王としての働きを続けることができないと思われたのでしょう。ですから「救いの喜びを、私に返してください」と祈り叫んでいるのです。

 神に仕えるために、「喜んで仕える霊」に支えられる必要があります。神に仕えることは、喜びであり自発的なものです。それは御霊に支えられてできることです。ですから「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:19)と命じられています。救いの喜びがなく、喜んで仕える気持ちが失せているなら、主に「あなたの救いの喜びを、私に返してください」「喜んで仕える霊で、私をささえてください」と真剣に祈りましょう。

 神は、私たちを罪で悩ませ苦しめようとしておられるのではありません。救いの喜びで満たしたいのです。表面的な、一時的な喜びではなく、永遠に消えることのない喜びを与えたいのです。何か良いことがあったから、順調に物事が進んでいるからではなく、試練の中でも消えることのない喜びを私たちに与えたいと主は願っておられるのです。そのためには、いかに自分が造り主である神から外れている者か、また外れたままでいたらどのようなことになっていたかを知る必要があるのです。神に罪を赦されるということが、どれほどありがたいことかを知る時に、救いの喜びの大きさがいよいよわかってきます。その喜びを味わうためにも、神の御前に罪ある者として、貧しい中からキリストの十字架を見上げましょう。


<13節>

 救いの喜びを取り戻し、聖霊にささえられる時に、今度は罪の中に留まっている人たちに主の道を証しすることができます。救いの道を、自分自身が体験したこととして伝えることができるのです。そしてそれを聞いた人たちの中から、また神のもとに立ち返る者たちが起きてくるのです(詩篇32:8~9)。

 きよい心を人に与えられるのは、神だけです。神が遣わしたイエス・キリストだけが、私の罪を完全にきよめ、新しく再創造することができます。アダムの時から引き継がれている罪に代わって、罪なき神の子羊イエスが、神への宥(なだ)めの供え物として十字架でささげられたのです(Ⅰヨハネ4:10)。このキリストによる義で生きるなら、神に罪を責められることはありません。生きる限り罪の残骸(ざんがい)(肉)がありますが、それによってまたキリストの十字架の恵みを思い起こすことができるのです。肉が出るたびに、十字架のキリストを見上げましょう。そしてたえず肉を生かすのではなく、御霊の方向に引き戻していただきましょう。「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ローマ8:6)。古い肉の自分は、もうキリストと共に十字架で死んだものと宣言して、みことばで示されている御霊の喜ばれる「いのちと平安」の道を求めましょう。

 救いの喜びが今ないと気づいたら、何としても返していただきましょう。救いの喜びなしに信仰生活を続けているなら、それは霊的に麻痺(まひ)している状態です。真剣に救いの喜びを返していただくように祈り求めましょう。仕えることを喜ぶ御霊を求めましょう。御霊にささえられて、喜んで自発的に神に仕えましょう。  
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 1月14日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「神の豊かなあわれみ〜罪人のための救い(2)〜」

           詩篇51:1~9   三浦真信牧師

 詩篇51篇は「7つの悔い改めの詩篇」の一つです(6篇、32篇、38篇、51篇、102篇、130篇、143篇)。この詩の背景が表題に記されています。これはⅡサムエル11章~12章の出来事です。
 ダビデ王が夕暮れ時王宮の屋上を歩いていていた時に、ひとりの美しい女性がからだを洗っているのが見えます。彼女はバテ・シェバという既婚者で、夫はダビデの部下であるウリヤでした。ダビデは使いを遣(つか)って彼女を呼び寄せて関係を持ち、バテ・シェバは妊娠します。ダビデがそのことを知ると、彼女の夫ウリヤを戦場の最前線に送って戦死するように仕向け、ダビデの目論見(もくろみ)通りウリヤは戦死します。その後ダビデは、バテ・シェバを妻として迎え入れ、彼女は男の子を産みます。主は預言者ナタンをダビデの元に送り、ダビデの犯した罪を指摘し、最終的には「私は主に対して罪を犯した」(Ⅱサムエル12:13)とダビデは罪を認めました。

 ダビデは、自分の罪を認めるまでの心の苦しみを、詩篇32篇で表しています(3~5節)。「罪を隠し黙っている時には、一日中うめいて私の骨々は疲れ果てました」という罪責感を持ちつつ、神が預言者ナタンを通して指摘され自分の罪を認めた時に、また神に罪赦される喜びと解放をも味わっています(詩篇32:1~2)。


<1~3節>

 ダビデは、預言者ナタンに自分の罪を指摘され、それを心から罪と認めて、神のあわれみ、罪の赦しを求めます。自分の罪を「私のそむきの罪」「私の咎」「私の罪」と3通りで表現し、また神の赦しを「ぬぐい去ってください」「洗い去ってください」「きよめてください」と3通りの表現で求めています。

 きよい神の前に立ったとき、神に触れられたとき、私たちはいかに自分が神からはずれていたかを知らされます。神が「あわれみ豊かな」方と知らなければ、恐ろしくて自分の罪を認めることもできません。神はご自身のあわれみを示す方として、キリストを世に遣わされました。キリストがすべての人の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことにより、キリストを信じるならどのような罪人も救われます。ですから大胆に罪を認めて神に近づくことができるのです。神の豊かなあわれみが、キリストを通してさらに具体的に人類に現されたのです。


<4節>

 聖書が伝える「罪」とは、ここにあるように「神に対する罪」であり「神の目からご覧になった罪」です(新改訳2017では「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です」)。神は完全義なる方、正しい方です。完全なきよさを持っておられる方です。その方の前に立つときに、だれ一人「私には罪はありません」と言える人はいません。神の正しさ、神のきよさの前では、私たちは皆神からはずれている自分の姿に恐れおののくしかない存在です。

 確かに、ダビデがバテ・シェバと夫ウリヤにしたことは、誰の目から見てもひどいことです。でもこのダビデの罪の根は、すべての人がアダムから代々引き継いでいるのです。犯罪であったり道徳的に人の道から外れたことをしていないから、自分は罪人でないとは言えないのです。人との比較でしたら、「あの人よりは自分は正しい」と言えるかもしれませんが、神に対しては、罪をとりなしてくださるキリストがおられなければ、恐怖で恐れおののくしかないのです。

 聖書で言われている「罪」は、人との比較で測るものではありません。神に対する罪、神の御前における罪です。このダビデのバテ・シェバ事件、そして他にも人間の罪の実態がリアルに聖書には記されています。それはすべての人に関係があるからです。すべての人が、同じ罪の根(原罪)を持っているからです。全く同じ状況に置かれたら、誰もが同じ罪を犯す可能性を持っているのです。具体的な罪の行為はあくまでも表面に現れただけで、神の目からご覧になれば、すべての人が同じ罪の爆弾を抱えて生きているのです。それは、神の子が身代わりにならなければ解決しないほどの罪なのです。この原罪を抱えたまま、神の御前に立てる人は、一人もいません。

 イエスの時代の律法学者パリサイ人たちは、「外側は美しく見えても、内側は墓の中(死人の骨や汚れたものでいっぱいな)のようだ」(マタイ23:27~28)とイエスが指摘しています。その内側の汚れに気がついていないだけ、事態は深刻です。「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」(マタイ23:26)と言われています。まず自分の内側にある罪の汚れを、正直に神の前に認めるところから、神のあわれみによる取り扱いが始まります。


<5節>

 罪を犯したから、罪人になったのではありません。最初の人アダムが、神の言葉に従わない生き方を選択したときから、罪が引き継がれているのです。私たちは皆「罪ある者として」生まれたのです。だから結果として罪を犯すのです。存在そのものが、造り主である神から外れているのです。「罪」の原語“ハマルティア”の意味は「的はずれ」です。神との関係が回復するためには、この“ハマルティア”がきよめられる必要があります。これはキリストの十字架によってきよめられるしか道がありません。

 そして「神の前に罪ある者」「罪ある者として私は生まれた」と認めた者は、他の人の具体的な罪の行為を見聞きしたときにも、それを他人事とは思えないのです。自分の中にも同じものがあり、神のあわれみ無しには神のさばきの宣告に耐えられない存在だと知ります。


<6節>

 神は私たちの心の奥底に触れてくださる方です。その心の真実を神の御前に差し出すことを喜んでくださいます。真実の自分の心を神に注ぎだす時に、神の知恵、神の解決方法を私たちに教えてくださいます。


<7節>

 「ヒソプ」は、汚れをきよめる儀式に使われた植物です(レビ14:4、民数記19:6)。ヒソプそのものが罪をきよめるわけではありません。神がヒソプを用いて、罪をきよめてくださることをダビデは求めています。自分では罪をきよめることができない、何かで償おうとしても、善い行いをたくさんしても、どんなに頑張っても、神の前における罪を人がきよめることはできないのです。神に罪を除いていただき、神に洗っていただくしかないのです。神が罪をきよめてくださる時に、この真っ黒な心は「雪より白く」なるのです。新改訳2017では「きよくなります」「白くなります」と宣言しています。自分の中からは、神の義は出てきません。キリストの義に立つときにだけ、私たちは罪除かれ「雪より白く」なるのです。


<8~9節>

 神から罪を赦され、きよめられるということは、とてつもない喜びです。神は私たちを罪で悩み苦しめようとしておられるのではなく、この罪の実態を知ってそこから解放される喜びを与えようとしておられるのです。罪赦され救われる喜びを与えるために、完全に罪をきよめられる救い主キリストを遣わしてくださったのです。

 「一日中うめいて骨々は疲れ果てました」(詩篇32:3)から、「あなたが砕かれた骨が喜びます(新改訳2017)」に変えてくださるため、キリストは世に来られました。 「御顔を私の罪から隠し」とあるように、罪ある者にとって本来神の御顔は恐ろしいものです。でも自分の罪を認めてキリストを信じる者は、神が完全に罪をきよめてくださるので、もう御顔を恐れる必要はありません(ローマ8:1、Ⅰヨハネ1:7)。


 神の御前に罪ある者が、完全に罪をぬぐい去られる喜びを私たちに与えようと神は願っておられます。本来は、神の御前で滅びを宣告されて当然の者が、「もう二度とあなたの罪を思い起こさない、あなたを罪に定めない」という宣言を神から受けることが、キリストによってできるのです。これこそ救いの喜びです。神は、この根底から神に罪赦される喜びを与えるために、私たちのうめきと苦悩の根本原因となっている罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目によみがえられました。そして神が王として私たちを導く神の国に入れてくださったのです。ですから、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16~18)と命じられているのです。それが「キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられる」ことなのです。神は私たちを苦しめようとしておられるのではなく、いつもキリストを見上げて喜び、祈り、感謝することを望んでおられます。この救いの喜びを、さらに受け取りましょう。
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 1月7日
新年聖日礼拝メッセージ要約 主題:「神の寛容を示す見本〜罪人のための救い(1)〜」

           テモテへの手紙第一1:12~17 三浦真信牧師

 2018年のみことばは、『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです』(Ⅰテモテ1:15a)です。

 テーマは、「罪人のための救い」で目標は、

① 罪を認めてキリストを求めよう

 自分の罪深さを知った者たちが、キリストの救いをそのまま受け入れていきました。自分の義を言い立てるユダヤ教指導者たちは、自分の義(正しさ)で神の前に立てると言い張って、キリストを拒否していきました(ローマ10:2~3)。自分の心の中を直視するなら、だれ一人「私には罪はない」と言い切れる人はいません(マルコ7:20~23)。キリストは、罪人のための救い主ですから、自分の状態がどうであってもキリストの元に行くなら救いがあります。自分の義を主張するのを止めて、キリストの義で生きましょう。自分の罪を認めて、キリストの救いを日々求めましょう。

② キリストに罪赦された者として交わろう

 キリストのからだなる教会は、キリストによって罪赦された者たちの共同体です。ですから立派ぶる必要はありません(ガラテヤ6:3~4)。キリストがいてくださらなければどうしようもない者と認めた者たちの集まりです。ただキリストのあわれみで罪赦されただけで、今も罪の残骸(ざんがい)を持ちながらキリストの十字架の贖(あがな)いを待ち望んでいる私たちです。私たちの誇りはキリストだけです。ですから罪人の交わりをしましょう。

③ 罪人を救ってくださるキリストを伝えよう

 「教会は立派できよらかな人たちの集まり…」ではありません。罪から救ってほしいと願った者たちが、救い主に出会ってキリストの神をほめたたえる共同体です。キリストを見上げないで自分を見れば幻滅するのです。どのような罪人も救われるという見本(Ⅰテモテ1:16)となってキリストを伝えましょう。キリストは罪人のための救い主です。

 パウロが、どのような思いで今年のみことばでもあるⅠテモテ1:15を語ったかを、その前後の聖書個所と併せて受け取りましょう。


<12節>

 パウロは、迫害下でも大胆に福音を語り、様々な困難を乗り越えて力強い働きをしました。しかしそれは人間パウロが強かったからでは決してありません。弱く恐れおののくしかないパウロ(Ⅰコリント2:3)をキリストが強くしてくださったのです。キリストが力を与えてくださったのです。パウロは、決して自分の力ではなく、キリストの力が彼の弱さの中に働いてくださった(Ⅱコリント12:9~10)ことを心から認めて、「私を強くしてくださる主キリスト・イエスに感謝をささげ」たのです。

 パウロは、今エペソで牧会している若いテモテにこの手紙を送っています。テモテは、教会の困難な実情の中で、気落ちしていたようです。パウロはテモテに、自分の弱さではなく、偉大なキリストに目を注ぐように促しています。

 パウロが感謝をささげるキリストは、パウロを福音宣教の「務めに任命して、忠実な者と認めて」くださいました(使徒9:15)。パウロが何一つ忠実を示さないうちに、神はパウロを忠実な者と認めてくださったのです。その恵みを思うと、キリストに感謝せずにはいられませんでした。


<13節>

 パウロが、かつていかにキリストに不忠実であったかが記されています。パウロは以前は、「神をけがす(冒涜する)者」でした。熱心なパリサイ派律法学者であったパウロ(ピリピ3:5)が、直接神を冒涜しけがすようなことはしなかったでしょう。神が遣わしたキリストを否定し迫害したことを指しています。また「迫害する者、暴力をふるう者」でした。かつてはクリスチャンを迫害し、殺害しようとしていたのです。神に忠実であるどころか、真っ向から神に敵対する者でした。そのようなパウロを、キリストはとらえてくださったのです。そして神が先にパウロを忠実な者と認めて、この福音の務めに任命してくださいました。まだキリストを「信じていないときに知らないでしたこと」なので、あわれみを受けたのです。不忠実な者をあえて忠実な者と認めて、キリストは私たちを召してくださっています。キリストの力(12節)とあわれみが臨んだから、パウロはこの働きを続けているのです。若いテモテが、牧会の困難の中で「自分は牧会者としてふさわしくない」と思う時にも、キリストが忠実な者と認めて力とあわれみを注いでいてくださることを思い起こすように、パウロは自分自身の証しをしています。


<14節>

 以前はキリストを信じていなかった(13節)パウロ、また「神をけがし、暴力をふるう者」(13節)だったパウロに、「信仰」と「愛」がキリストの恵みとともに満ち溢れるようになりました。「キリストの恵み」が、かつてのパウロになかったもの(信仰と愛)を、いよいよ増し加えたのです。どれほど足りなくても、キリストの恵みが臨むときには、必要なものを神が増し加えてくださるから大丈夫です。「信仰」も「愛」も、私たちの中からは出てきません。キリストの恵みによって、満ち溢れていくのです。


<15節>

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」は、イエスが語った福音の根本です(マルコの福音書2:17、ルカの福音書19:10など)。このことは、パウロ自身も「まことであり、そのまま受け入れるに値する」と確信をもって伝えています。それはパウロが「私はその罪人のかしらです」と自分自身のこととして告白していることからもわかります。ここの「私は」が原文では強調されています。「私パウロこそ、罪人のかしらとして、誰よりもその救いの恵みを味わっているのです」と告白しているのです。

 しかも現在形が使われています。「かつては罪人のかしらでした」ではなく、「今も罪人のかしらです」なのです。キリストの恵みによって確かに罪は赦されています。でも同時にパウロは今も「罪人のかしら」として、自分の罪深さを自覚しています。今もいよいよキリストの恵みが必要な罪人であると自覚しているのです。だからこそ、キリストの恵みに感謝し、神への賛美があるのです。もしも自分の立派さや正しさを認められて救われたなら、私たちは神にそれほど感謝したり賛美することができなかったでしょう。でもこの救いは、私の側の何にもよらない、ただ神の一方的な恵みでありあわれみなので、神への感謝があるだけなのです。


<16節>

 罪人のかしらであるパウロが救われたことは、神のあわれみを示す見本となりました。キリストのあわれみが、どのような罪人にも届くことの見本となったのです。救いは、ただキリストを信じるだけです。「彼(キリスト)を信じて永遠のいのちを得ようとしている」人なら、どんな罪人も神のあわれみを受けることができるのです。それが福音です。このような「この上もない寛容」を、神はまず罪人のかしらと告白するパウロに示してくださったのです。そして私たち一人ひとりも、自分の罪や弱さを日々告白しつつも、なお神の救いを感謝しているなら、それは神の「この上ない寛容」を示すことになります。

 私たちが、自分の弱さ、愚かさ、罪深さを告白するのは、そのような者にも神の恵みが届くという証しです。私の弱さによって、神のあわれみのすごさが証しされるのです。そのために、私たちは交わりで自分の弱さを差し出します。それはキリストの恵みが証しされ、キリストだけが崇められるためです。


<17節>

 自分のような罪人を救ってくださった神の永遠性、神の主権を覚えて、パウロは主をほめたたえます。神の恵みと、その深いご計画を手紙で書いているうちに、改めて神への賛美が溢れてきたのでしょう。「誉れと栄え」を受けるべきお方が、あえて罪人の救い主となってくださいました。

 栄光の神が、滅びに向かっていた私たちを救い出すために、限りなく身を低くされて、人となりました。そうまでして私たちを救おうとしてくださった神の愛を知れば知るほど、神を愛し神に従う者になりたいという願いが生まれてきます。

 パウロは、自分の罪を知れば知るほど、神のあわれみの大きさを知りました。それがパウロの働きの原動力でした。気落ちする若いテモテに、パウロはただ神のあわれみと神の力の偉大さを伝え、テモテの弱さの場所にもキリストが働いてくださることを信じていくように励ましています。

 神はパウロを通して、神の「この上ない寛容」と「あわれみ」を示してくださいました。同じように私たち一人ひとりが罪の中から救われることで、神の寛容を私たちを通して示そうとしておられるのです。これから「キリストを信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本」として、私たち一人ひとりを神は用いてくださるのです。ですから、自分自身は立派でなくても大丈夫です。私たちが一罪人となって砕かれていく時に、神の栄光が現れます。弱さの中に働くキリストをたたえ、キリストを伝えましょう。
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