(2018年5月)

 ・ 5月27日
 ・ 5月20日
 ・ 5月13日
 ・ 5月 6日
 




 5月27日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「上を向いて生きよう」

           民数記21:4~9 豊村臨太郎伝道師

<民数記について>

 民数記は、出エジプト後にイスラエルの民が約束の地であるカナンに向かう旅の記録です。エジプトからカナンは、直線距離で300キロ、実際の旅路で500キロほどでした。当時、普通に進んで2週間程度の距離だったといわれています。カナンを目前にした民は偵察隊を送りました。(13章)カナンは肥沃(ひよく)で素晴らしい土地でしたが、住んでいる人々は強そうで、民は悲観的になります。神様の約束を信じることができずエジプトへ引き返そうとします。(14章)そして、神様は「あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎(とが)を負わなければならない。」(14:34)と言われました。民は不信仰のゆえに40年間放浪することになります。しかし、単なる放浪ではなくて、神様の祝福を受ける為の訓練期間でもありました。今日の箇所は、そのような荒野の旅の終盤に起きた出来事です。

<4節、5節>

 「ホル山から、エドムの地を迂回して、葦(あし)の海の道に旅立った。」とありますが、この時、民はエジプトとカナンの境目に位置するツィンの荒野にいました。東側にはエドムという地域がありました。ホル山はエドムの国境付近にあったようです。そこから東に進み北に上ればカナンです。民はツィンの荒野から真っすぐ東に進んで、エドムを通るつもりでしたが拒否されてしまいます。(20章)民は仕方なく南東方向に向かいました。遠回りせざる得ない状態の中で民の不満が噴出します。その中心は食べ物(マナ)についてでした。マナは、神様が与えてくださった食べ物で「その味は蜜を入れたせんべいのよう」(出エジプト記16章)とあるように、とてもおいしく民が満足するものでした。でも、イスラエルの民は、その神様の恵みのマナを「みじめな食事」とまで言い放ったのです。まさに「罪」です。


<罪について>

 新約聖書が書かれたギリシャ語で「罪」は「ハマルティア」といい「的外れ」という意味です。本来あるべきところから根本的にズレてしまっている状態です。罪の始まりは創世記に記されています。人が創造された時、神様は「善悪の知識の木からだけは取って食べてはならない」と約束されました。しかし、人は悪魔の誘惑を受け、木の実を食べ、神様との約束を破りました。これが罪です。神様との関係が根本からズレてしまったのです。新約聖書のローマ人への手紙に「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」(5:12)とある通りです。


<6節、7節>

 「燃える蛇」の「燃える」(ヘブル語で「サーラーフ」)は「毒による焼けるような痛み」を表します。毒蛇にかまれて多くの民が死にました。ローマ人への手紙6章23節に「罪からくる報酬は死です。」とある通りに、全ての人は罪人で死に向かっています。毒に苦しむ中、民は罪を自覚し「わたしたちは罪を犯しました。悔い改めます。助けてください。」と助けを求めます。モーセがとりなして祈ると、神様は一つの救いの方法を示されました。神様は、罪に苦しみ死に向かう民を見捨てず、救いを用意してくださったのです。


<8節、9節>

 神様は「青銅で蛇を造り旗ざおに掲げなさい」と不思議な方法を示されました。モーセはみことば通りに一つの青銅の蛇を作り、旗ざおの上につけました。そして、たとえ蛇が人をかんでも「その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」のです。おそらく周囲にはまだ蛇もいたでしょう、体の中に毒も残っていたでしょう。しかし、神様のみことばの通りに、仰ぎ見た人は癒(いや)され、生きたのです。中には「こんな簡単なことで癒(いや)されるはずない」「もっと真剣に悔い改めなければ」と、熱心に真面目に考えながら下を向いたままの人もいたかもしれません。その人は救われませんでした。逆に「そんなことありえないでしょう。」と思いながらも、「神様が言われるなら」と上を見た人は、生きたのです。「救い」に、人間の熱心や努力、宗教性はいっさい関係ありません。ただ、神様が提示された方法に自分を合わせた人が、罪から解放され、死からいのちへと移されたのです。

<青銅の蛇は十字架に架(か)けられたイエス・キリスト>

 新約聖書ヨハネの福音書で、イエスご自身が「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14、15)と語っておられます。「人の子」はイエス様のことです。 「木にかけられた蛇」は「十字架にかけられたイエス様」です。「信じる者がみな(見上げる者がみな)イエスにあって永遠のいのちをもつためです。」ただ、十字架にかかられたイエス様を見る(信じる)だけで、罪から解放されます。それは、十字架でイエス様がなされた罪の贖(あがな)いが永遠で完全だからです。  

 ヘブル人への手紙には、このように書かれています。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖(あがな)いを成し遂げられたのです。」(9:11〜12) 「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」(ヘブル10:10〜14)イエス・キリストは、一度きりの十字架で、救いを完全に、そして、永遠に成し遂げてくださいました。人間の努力や善行はいっさい入る余地はありません。ただ完成された救いを見上げるだけで罪が赦され、永遠の命が与えられます。


<「救い」は「神の愛」>

 ヨハネ3章14節、15節の次は有名なことばです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) この神様の愛を受け取りましょう。聖書の通り単純にイエス様の十字架を見上げましょう。何度失敗しても、落ち込んでも、自分を見るのではなく、永遠で完全な救い主であるイエス様の十字架を見上げて、生きましょう。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。(Ⅰテモテ1:15)
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 5月20日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「聖霊を受けなさい」

           使徒の働き2:1~13   三浦真信牧師

 イエスが十字架にかけられた頃は、過越しの祭りの時期でした(ルカの福音書22:1~16)。それから50日目の日(五旬節、ペンテコステ)に、一つ所に集まっていた120名の者たちに聖霊が注がれました。彼らは、その日まで心を合わせて祈りに専念していました(1:14)。イエスは、死からよみがえり、40日間神の国のことを語り、ご自分が生きていることを使徒たちに示されました(1:3)。そして「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束(聖霊のバプテスマ)を待ちなさい」と命じます(1:4~5)。この時に弟子たちがエルサレムにとどまるということは危険でした。イエスを捕らえた人たちが、イエスの弟子たちをも捕らえに来る可能性が十分ありました。その恐怖も弟子たちの中にはあったでしょう。しかし主のご命令でしたので、彼らはエルサレムを離れないで聖霊のバプテスマを祈り待ち望んでいました。

 復活の主イエスに会った後も、弟子たちはまだイエスがイスラエルの国を再建して王になる救い主だと思っています。そして「今こそ、その時でしょうか」と尋ねます(1:6)。それに対して、イエスは「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてよいのです。それは父がご自分の権威をもってお定めになっています」と言われました。ただし、「聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして地の果てにまで、わたしの証人となります」(1:8)と言われました。聖霊がいつ与えられるかは、弟子たちにはわかりませんでした。ただ聖霊が臨まれる時に、力を受けることは確かです。そしてその力は、キリストの証人となるための力なのです。


 さて、五旬節の日に、皆が一つ所に集まっていた時に、突然天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡りました。また炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまりました。そしてみなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出します。ここから三つのメッセージを受け取りましょう。


① 時は神が決めておられる

 弟子たちは、イエスが約束してくださったとおり、エルサレムを離れないで、約束の聖霊を待ち望んでしました。1日目、2日目と祈っていても、何も起きませんでした。10日目に聖霊が注がれましたが、そこまでの一日一日は、いのちがかかっていました。いつ突然ドアが開いて、弟子たちが捕えられるかわかりませんでした。そのような恐れに取り囲まれている時は、一日でも長く感じます。でも弟子たちは、主の約束を信じて、祈り続けたのです。 あらゆることに、神の時があります。神が時を決めておられることを信じて、時に支配されないように気をつけましょう。「天の下では、何ごとにも定まった時があり、すべての営みには時がある。神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:1~11)。「今日も何も起きなかった」という日が続いても、神が定められた時に必ず約束は成就します。信じて待ち望みましょう。


② 聖霊を受けましょう

 ペンテコステの日に突然、聖霊がはっきりわかる形で弟子たちに臨まれました。聖霊を形容するには地上のものでは限界があります。あえて表現するなら、「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった」のです。そして「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話し出した」のです。御霊が話せてくださる通りに舌が動いた点では、異言とも共通しています(この時の他国のことばを異言とするかは諸説あります)。本来私たちの舌は、死の毒に満ちています(ヤコブ3:8~10)。その舌を、御霊に支配していただきましょう。

 「聖霊を受ける」という表現が、新約聖書では何度も出てきます。復活したイエスも、弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ福音書20:22)。サマリヤの人々も、聖霊を受けました(使徒8:14~23)。異邦人の百人隊長コルネリオたちも、聖霊を受けました(使徒10:44~48)。エペソの人たちも、聖霊を受けました(使徒19:1~7)。使徒の働きを読む限りでは、聖霊を受ける時に異言を伴っていることが多いですが、必ずしも聖霊体験は異言を伴うとは限りません(異言は御霊の賜物の一つですから)。聖霊は理屈を超えて、みことばの事実をわからせてくださいます。形式的な信仰に、電流を流してくださいます。聖霊を受けましょう。


③ 聖霊によって福音が広がっていきました

  ペンテコステの日に、エルサレムには外国で暮らしていたユダヤ人たちが帰ってきていました。彼らは、それぞれ生活している国の言葉を使っていました。聖霊を受けた120人が流ちょうに他国の言葉で語るのを聞き、彼らは驚きました(5~11節)。そのことばは、「神の大きなみわざを語る」内容でした(11節)。それを聞いて、あざける者たちもいました(12~13節)。しかしこの後、ペテロのメッセージを聞き、それを聞いていた人々は心を刺されて悔い改め、その日3000人がキリストを信じて救われました(37~42節)。その中から、自分たちの国に帰った者たちを通して、福音は広がっていきます。聖霊を受けた者たちを通して、福音は広がっていきます。聖霊の電流を受けたら、それは周囲に流れていくのです。影響を与えていくのです。聖霊によって心の飢え渇きが満たされ、孤独が癒され、苦しみの中でも希望が与えられます。聖霊は助け主です。具体的な問題も、助けてくださいます。そしてキリストが今も生きておられることを証しする力を与えます。形だけ、理屈だけの信仰をうしろにして、聖霊を注がれ霊的に生きましょう。毎日聖霊を受けていきましょう。
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 5月13日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「真理の宗教 三つの祝福」

           ヨハネの手紙第三2~3   ぺ・ヨハン 新一長老教会主任牧師

<3つの祝福>

  「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」(2節)。

 2節では3つの祝福が述べられています。第1は「たましいに幸いを得ている」 神様を信じる信仰の中で、霊的健康で生きて行くことが出来ます。第2は「すべての点で幸いを得る」 日常的生活の中で、神様の思い通りに生きていたら、いつも楽しい心で生きて行くことが出来ます。第3は「健康であるように」 身も心も健康な状態を維持することが出来ます。  


<真理の中を歩む>

 どうしたらこのような祝福を受けることが出来るのでしょう。2節と3節が原語では「何故なら」という言葉で繋がっています。長老ヨハネが手紙の名宛人ガイオの祝福を願う根拠は、3節にあるように彼が真理の中を歩んでいると聞いたからです。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます」(3節)。

 私たちが3つの祝福を受けるためには、真理の中を歩む事が必要なのです。真理に歩むとはどういう意味なのでしょう。キリストの福音の真理です。三位一体の神様を信じて生きて行くことが、キリスト教の福音の内容であり、これが真理です。ガイオはこのキリストの真理の上にしっかり立っていたから、2節の祝福を受けることが出来ました。私たちも同じようにキリストの福音の上にしっかりと立つなら、この祝福に与(あずか)ることが出来るのです。


<人の持つ不安>

 キリスト教の福音は何故真理なのか、更に話を進めます。神学的に見れば、全ての人は3つの不安を持って生きていると言われます。1つ目は、存在論的不安です。全ての人は生まれた以上、必ず死ぬしかありません。人が避けて通れない死への不安と恐怖です。2つ目は、目的論的不安です。何のために人生を生きるのかについての不安で、私たちの欲は限りが無いのに、追求出来るのは僅かなことでしかありません。何を求めても、絶対的な価値を持てない-お金や子ども、仕事、いずれも私達に絶対的な幸福を保証するものではありません。

 3つ目は道徳的不安です。心の中の罪に向かう動機や良くない考えを持たない人は誰もいません。全ての人は罪を犯すようになり、その結果誰もが罪責感を持っています。正しく生きようとする良心と、もう一方罪を犯すことから来る道徳的不安との間で、葛藤が生じるのです。


<キリストによる解決>

 本物の宗教であるなら、これらを根本的に解決するものでなければなりませんが、キリスト教はこれらの不安を完璧に解決します。1つ目の存在論的不安については、死の持つ力を、死の後に来る天国で克服するようにして下さいました。

 2つ目の目的論的不安への解決です。神様は私たちを創造された方で、この方のために生きて行くことが幸せに生きる基準となります。神様のために自分の人生を捧げるのです。例えば、小さな子供から両親への誕生日プレゼントを贈ると、小さなものだとしても両親はそれを大きなものと感じて喜び、子供に多くの事をしてあげたいと思うものです。それと同様に、神様へ心を込めた礼拝を神様は喜ばれ、私たちを祝福して下さいます。神様のために私達の人生を捧げることこそ、私たちの幸せな人生なのです。

 3つ目は道徳的不安の解決です。神様は、イエス・キリストを送り、私たちの罪を全て赦されました。例えば、子供達が野球をしていて近くの家の窓ガラスを割ってしまったとします。お金が無いので、謝ることしか出来ません。その時に両親が来て弁償すれば、子供達は罪責感を持たずにすみます。同じように、私の力では心の中にある罪責感、不安を解決することが出来ません。イエス様は、私たちの罪の全ての代価を十字架によって支払って下さいました。


<真理の福音>

 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32) 私たち、神様を信じるクリスチャンはこの真理をはっきりと悟り、確信しなければなりません。この真理を確信して生きるなら、2節のみ言葉のように、「すべての点で幸いを得、健康」になることが出来ます。キリスト教は人生の根本を解決する偉大な福音であり、まさにイエス・キリストの十字架です。

 この真理の宗教を信じている私たちは、韓国と日本の国境を超え、神様を父とする兄弟姉妹として、今日、共に礼拝を捧げています。これからも、キリストの真理の福音の中で、お互いが信仰の良き同伴者、協力者として歩んで行けるように心から願います。 
              (要約まとめ:田内博)
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 5月6日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「ひとりぼっちのときに…」

           創世記28:6~22   三浦真信牧師

 ヤコブは、父親(イサク)が兄エサウに与えるつもりでいた祝福を、エサウになりすまして代わりに受けてしまいました。自分が受ける分を横どりされたことを知った兄は、「ヤコブのやつ、絶対許さないぞ」とすごい剣幕(けんまく)で怒ります。

 母親(リベカ)は、エサウが弟ヤコブに危害を加えることを心配して、ヤコブを遠くにいる彼のおじさんの家に送り出します。ヤコブはひとりで長い旅に出ることになりました。 ヤコブは、ごつごつした岩だらけのさびしい荒野を歩いていきました。疲れると一休みし、またてくてくと歩き続けました。ずいぶん遠くまで来て夜になりました。「今日はここで寝よう」と言って、ちょうどいい大きさの石をまくらにして横になりました。空には月やたくさんの星が光っています。

 「ああひとりぼっちだ…」とヤコブは悲しくなりました。「お父さんやお兄さんをだましたから、こんなことになってしまったのかな…」とちくりと胸が痛んだことでしょう。いつの間にかヤコブはぐっすり眠ってしまいます。すると不思議な夢を見ました。それは天から地上にかかる長いはしごを、神さまの使いが上ったり下りたりしている夢でした。そして神さまの声がしました。「ヤコブよ。わたしはあなたのおじいさんアブラハム、お父さんイサクの神です。わたしはいつもあなたといっしょにいて、あなたを守ります。そしていつかあなたを連れ帰りますよ」と。

 ヤコブは、ひとりぼっちになったときに、お父さんやお兄さんをだまして悪いことをした自分なんか、みんなからも神さまからも見捨てられても仕方がないと思っていたので、そんな自分を神さまが守り助けてくださると言ってくださり、うれしくなりました。「ひとりぼっちだ…」と思っていたのに、「ひとりぼっちじゃない、神さまがいっしょにいてくださる」とわかって元気になったのです。

 ヤコブは目を覚ましました。「なんということだ。神さまがいっしょにいてくださるのに、ぼくは全然気づいていなかった。ここは神さまの家、天国の門だ!」とヤコブは言います(15~16節)。今荒野のさびしい、何もない場所にいるのに、そこも天とつながっている…ここも神さまの家であり、天に続く門のようだ…と知って、まわりは真っ暗でもヤコブの心は明るくなりました。

 そして朝になると、ヤコブはまくらにしていた石を地面に立てて、神さまにお祈りをしました。「神さま。こんなぼくといっしょにいつもいてくださると約束してくださって、ありがとうございます。あなたはぼくの神さまです。ぼくはあなたにずっとついていきます」。ヤコブはそう祈って、おじさんの家を目ざして元気に歩きだしました。


 ヤコブはお父さんをだまし、お兄さんに与えられるはずだった祝福を横どりした結果、お兄さんを怒らせてしまいいっしょに住めなくなってしまいました。でもおじさんの家に向かっていくさびしい荒野で神さまに出会い、神さまの約束を信じて元気にまた歩きだしていきました。

 今も世界中でひとりぼっちでさびしい思いをしている人がたくさんいます。まわりに人がいても、ひとりぼっちだと感じることもあります。神さまは、そんなさびしい思いをしている人に、よりそってくださいます。「あなたはひとりじゃないよ。わたしがいるよ。あなたがいるここが、神さまの家であり天国の門だよ。だから元気を出しなさい」と荒野にいたヤコブをはげましてくださったように、神さまは私たちをも力づけてくださいます。だから「ああ、ぼくは(わたしは)ひとりぼっちだな。さびしいな…」と思う時があったら、神さまにお祈りしましょう。ヤコブのように「悪いことをしてしまったな…」と思ったら、「神さま。ごめんなさい」とお祈りし、「自分が悪いことをした人にも…」あやまりましょう。ヤコブも、このあとお兄さんのエサウにあやまって仲なおりをします。

 神さまは、わたしたちの罪のためにひとり子イエスさまを送ってくださいました。イエスさまがすべての人の罪のみがわりに十字架で死んでくださいました。そのイエスさまのおかげで、わたしたちはいつでも神さまのもとに帰ることができます。

 「おそれるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ41:10)と神さまはみなさんに語りかけておられます。さびしくなったら、この神さまのことばを思い出しましょう。神さまがともにいてくださるなら、どのような場所にいても、そこが「神の家、天の門」となるのです。そのことがわかると、また元気に歩きだすことができるのです。
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