サムエル記U 18章
「人間の誇りを打ち砕かれる神」
1〜2節
フシャイの提案を受け入れたアブシャロムが全イスラエルから兵士を集めている間に、ダビデは戦いに備え体制を整えます。
民を大きく3つに分け、ヨアブ・アブシャイ・イタイを指揮官として任命しました。
そしてダビデ自らも出陣したいと願いました。
ダビデとしては敵が息子だけに、じっとしてはいられない思いだったのでしょう。
3〜4節
しかし民たちはダビデが出陣することを止めました。
アブシャロムたちが狙っているのはダビデ一人であり、ダビデが打たれたら戦いは終わりになってしまうので、むしろ町に残って指示することを求めました。
アブシャロムは、イスラエルの大軍を自ら華々しく率いて戦いに出て行くフシャイの提案に心をくすぐられましたが(17:11)、ダビデは民たちの意見を聞いて町に残ることにしました。
5節
ダビデは3人の指揮官に民がみな聞いているところで、アブシャロムを殺さないように命じます。
父親に逆らうアブシャロムに対しても、どこまでも息子として助けたいという父親の思いは変わりませんでした。
6〜8節
エフライムの森という、密林が戦場になりました。それは少人数で荒野での生活にも慣れていたダビデたちにとっては有利でした。
実際に剣で戦ってよりも、森の中で行き倒れた者の方が多かったのです。
神様がこのような環境をも用いて、ダビデたちに勝利を与えてくださったのです。
9節
華々しく戦いの先頭に出て行ったアブシャロムは、森の中でダビデの家来たちに出会います。
しかも自慢の髪の毛(14:25〜26)が樫の木に引っ掛かり、乗っていた騾馬がそのまま行ってしまい、宙吊りになってしまいます。
アブシャロムとしては誇りとしていた自慢の髪の毛で、最後は身を滅ぼすことになります。
自信のあるもの、これだけは大丈夫と思っているもので人はかえって足をすくわれることがよくあります(エレミヤ9:23〜24、Tコリント1:28〜31、Uコリント10:17)。
自分の弱さや欠点を正直に認めて、そこにも働いて恵みを与えてくださる主だけを誇りとしていくことこそ安全な道なのです。
10〜15節
アブシャロムが宙吊りになっている姿を見た男は、ダビデの命令を心に留めていてアブシャロムに手を下すことはしませんでした。
しかしヨアブはダビデの命令を無視し、道具持ちとともにアブシャロムを打ち殺します。
アブシャロムをこのまま生かしておくことは国のためにならないと思ったのかもしれません。
ダビデ王のもとで軍団長を務めたヨアブですが、いざというときは王の命令よりも自分の判断を優先する傾向がありました。
16〜18節
アブシャロムを打ち殺したことで戦いは終わりました。
アブシャロムの遺体は、森の深い穴に投げ込まれました。
それとは別に、アブシャロムが生前自分のために記念碑を作っていました。
皮肉なことに、この記念碑は彼の名誉より恥を代々に語り継がれるためのものとなってしまいます。
ダビデ王に謀反を起こしたが、最後は王になることもなく自分の髪の毛で宙吊りになって打ち殺されたアブシャロムと、この記念碑を人々が見るたびに語ったことでしょう。
自分の名を誇示しこの世に名を残そうとすることが、かえって恥だけを残すことにもなりかねないのです。
19〜33節
アヒマアツとクシュ人によりダビデ王にアブシャロムの死が報告されると、ダビデは自分が代わりに死ねばよかったと激しく泣きます。
いくら謀反を起こし反発しても、父親ダビデとしてはアブシャロムの死を悲しみ泣ききるしかありませんでした。
こうしてアブシャロムの死によって、謀反計画は失敗に終わります。
情によって民の心をひきつけ、神が立てられた王に向かっていくアブシャロムを、神は打たれました。
決して神に頼ることなく、また神のみこころを仰ぐことなく、「自分は正しいことをしている、自分こそ王にふさわしい」と、自分で自分を義とするアブシャロムを神は打たれました。
一方自分の罪を認め、息子に追われればあっさり王宮を出て行き、神の御手に全てを任せていくダビデを、神はあわれんでくださいました。
アブシャロムは自分の自信のある髪の毛や容姿を武器にし、また父親や兄たちを責めて自分をどこまでも正当化していき、結局神のみこころを跳ね返していきました。
自分の確信でいくのか、どこまでも主のみこころを聞いていくかで、結果は全く違ってきます。
いつも「絶対にこれで正しい」という自分の思いや人の声をも白紙にして、「神のみこころはどうですか」と神に問いかけ続けることを忘れないようにしましょう。
自分の確信や自信こそ、かえって思わぬ落とし穴になることがあるのです。