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 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。 それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2:8)

 2018年も、あと2ヶ月足らずとなりました。

 今年与えられたテーマ「罪人のための救い」を思い起こすたびに、罪人が救われるのは ただ神の恵みによることが感謝です。

 自分自身の中からは、救いに値する良いものは一切出てこないことを知れば知るほど、この救いは上から与えられるもの、神の賜物以外の何ものでもないことを実感します。

 「こんな罪深い者が本当に救われるのだろうか?」と思う時に、すべての人の罪を担って十字架で死なれたキリストを見上げ、「救いようのない者をも救うことがおできになる神」と信じていきましょう。そこに望みがあります。

 自分に絶望しても大丈夫です。罪人を救うことがおできになる神、そう信じきれない不信仰な者さえも あわれんでくださる神です。

 ですから私たちの側に誇れるものはありません。すべては神の恵み、神からの賜物です。

 ただ神への感謝と讃美があるのみです!

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 「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」(ガラテヤ3:24)

 今月は 宗教改革記念礼拝があります。

 プロテスタント信仰の始まりに関わった宗教改革者たちが、福音をどのように理解し、何を土台としたかをしっかり受け取りましょう。

 律法は神が良いものとして 私たちに与えてくださり(ローマ7:12)、私たちにとっても従うことが幸せな戒めです(申命記5:33)。

 しかし 同時に律法の前には罪の意識が生じるのみです(ローマ3:20)。

 ですから律法の前に立つなら、いよいよキリストの救いが必要となるのです。

 律法によって罪が示されるので、キリストの元にたえず行かないと一歩も歩むことができません。

 律法によって私たちはキリストへキリストへと追いやられ、キリストの元に導かれていきます。

 罪を認識するたびにキリストを見上げるなら、そこに十字架の赦しときよめがあります。

 恵が溢れています。ですから、「律法は私たちをキリストへ導く養育係」です。

 律法を完全に行なって救われることは不可能であることを律法は私たちに知らせ、ただキリストを信じる信仰によってのみ神に義と認められることを明らかにします。

 いよいよキリストの元に行きましょう。

 罪人を救うためにこの世に来られたキリスト(Iテモテ1:15)を崇めましょう!

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 「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(IIテモテ4:7)

 今月は敬老の日を記念する礼拝があります。

 歳を重ねて、キリストと共に歩む人生の素晴らしさを証ししてくださる兄弟姉妹の存在は、教会の宝です。

 生きている間は、様々な戦いがあります。

 クリスチャンにとって何よりもの戦いは、信仰を守り通す戦いです。

 サタンは あの手この手を使って、キリストを通して用意されている「義の栄冠」(8節)から目をそらすように誘惑してきます。

 死ぬまでその戦いは続きますが、絶えずキリストを見上げるなら恐れる必要はありません。

 地上では、一人ひとりに「走るべき道のり」があります。

 神のご計画のために、私たちは選び分けられ呼び出されました(ローマ1:1)。

 その人でなければできない役割があります。

 その走るべき道のりを走り、最後まで信仰を守り通しましょう。

 信仰は、最後まで守り通さなければ意味がありません。

 かつての信仰ではダメなのです。

 今 キリストをどのように信じ、キリストとどのように関わっているかが常に問われます。

 私たちは弱いですから、信仰を守り通すために励まし合う交わりが必要です(ヘブル10:25)。

 走るべき道のりを走り、信仰を守り通せるように互いを励まし合う交わり、また礼拝を大切にしましょう。

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 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

 わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ福音書4:13〜14) 暑い夏に 水分の補給は欠かせません。

 しかしいくら水を飲んでも 心の渇きは癒せません。

 イエスは 内なる渇きを、永遠のいのちに続く水によって癒してくださいます。

 私たちの心を疲弊させ、枯渇させていくものは 目に見える出来事です。現在抱えている問題です。

 それらを信仰の目で見ることができたら その重荷は軽減されることでしょう。

 キリストは 私たちの罪を完全にきよめ、永遠の神の国にすでに招き入れてくださいました。

 永遠に続く神の国の視点で今を見ましょう。見えるものだけに振り回されていたら、私たちの心はどんどん枯渇していきます。

 この夏も 聖霊が与えてくださる水を存分に注いでいただき、渇いた心を満たしていただきましょう!

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 「主は私に仰せられた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように』」(ホセア3:1)

 神は預言者ホセアに、彼を裏切って他の男と浮気をし 奴隷となった妻のゴメルを愛し、彼女をその主人から買い戻すようにと命じました。

 妻ゴメルの姿は、神に愛されていながら、偶像を拝み、偶像にささげる干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの民の姿と重なります。

 神以外のものを神とするなら、それは偶像崇拝であり、神に対する霊的浮気なのです。

 神は、そのように何度も神を裏切る民たちを愛し、なおもあわれみの御手を差し伸べてくださいました。

 神はホセアに、その神の愛を示す行為として、夫ホセアを裏切って奴隷となった妻ゴメルを買い戻し、再び愛するように命じました。

 恐らくホセアの中に 感情的にはもう好きにはなれない、冷めた思いもあったでしょう。でも「愛しなさい」とは、感情的に「以前のように好きになりなさい」ということではありません。行動において ゴメルを買い戻し、受け入れることです。

 「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです(Iテモテ1:15)という今年のみことばを本気で受け取るなら、神がホセアに命じた言葉も、私たちに語られた言葉として受け取れます。

 自分を裏切った人、傷つけた人、二度と顔も見たくない人を、あえて代価を払って買い戻し愛するようにという神のチャレンジです。

 人間の力ではできませんが、聖霊は壊れた関係をそのままで良しとはされません。

 神は私たちに、人々との和解をもたらすために、和解の使者としての御子イエス・キリストを与えてくださいました。

 自分こそ 神のあわれみ無しには救われえない罪人だと認めた時に、キリストの愛が私たちを覆い包みます。

 そしてその一方的なキリストの愛を受けた私たちに、壊れた関係の修復を求める心も主が与えてくださるのです。

 隔ての壁を打ち壊し、敵意を廃棄して平和を実現するキリストの力(エペソ2:14?15)は、あらゆる人間関係に及ぶのです。

 嫌われても愛する、裏切られ憎まれても愛する…これがイエス様が私たちにしてくださったことです。

 神を裏切り続けた私たちを なお愛してくださる神の愛に どのように応答するのか、具体的な人間関係の中で今問われているのです。

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 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、
私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(ヘブル12:1)

 毎年6月には召天者記念礼拝があります。信仰を貫き通した方々の最期は どこか清々しさを感じます。

 彼らは、神を信じて生きることの素晴らしさ、またかん難の中でも希望を失わないことを、キリストの証人として今も思い出させてくださいます。

 この地上でなお生かされている私たちも、様々な重荷や罪がまとわりついてきますが、多くのキリストの証人たちのように絶えずそれらを後ろにして、
前に向かって走り続けましょう。

 信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さずにいましょう(12:2)。

 神のことばの真実を証言してくださった人々のことばと態度を思い起こし、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けましょう。

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 イエスは彼らに息を吹きかけて言われた「聖霊を受けなさい」(ヨハネの福音書20:22)

 今月はペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。

 かねてから主イエスが予告しておられた通り 助け主 聖霊がイエスの弟子たちに注がれ 彼らは力強く復活の主を証していきます。

 死からよみがえられた主イエスが「聖霊を受けなさい」と命じておられるのですから私たちも 受けましょう。

 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

 そして地の果てにまで キリストの証人となります」(使徒の働き1:8) 復活のキリストの証人となるために 聖霊は私たちに力を与えてくださいます。

 自分を誇るためではなく キリストを証するために与えられる力です。

 自分の周囲に起きている様々な問題が解決したり 助けが与えられることも 福音宣教のためです。

 ですから どのようなことも キリストの栄光のために祈り 聖霊の助けを求めましょう!

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 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

 途方にくれていますが、行きづまることはありません」(IIコリント4:8)

 私たちは 生きている限り 苦難があり 途方に暮れるようなことがあります。

 しかし 死からよみがえられた復活の主は 今も生きておられます。

 この方を信じる者は 決して窮することなく行きづまることはありません。

 苦しい場所で、途方にくれている時にこそ キリストの復活の力を体験するからです。

 苦しい時、途方にくれている時に、「主イエスが共におられるから 私は決して窮することはない、決して行きづまることはない」と宣言しましょう。

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 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)

 これは、律法学者たちから、「なぜイエスが取税人や罪人たちといっしょに食事をするのか」と聞かれた時のイエスの答えです。

 律法学者たちは 自分たちは正しいから 罪がきよめられる必要はないと思っていました。

 そして 取税人や罪人と呼ばれていた人たちと関わらないことで 自分をきよく保ち続けられると思い込んでいました。

 しかし イエスが共に食事をした取税人や罪人と呼ばれた人たちは、自分が正真正銘の罪人であることを認め 罪をきよめられたいと 願っていました。

 ですから イエスに出会って イエスこそ罪をきよめ、癒してくださる医者だとわかったのです。

 イエスは 病人を救うために来られました。全身罪の病に冒され、イエスしかこの病を癒すことはできないと知って イエスの元に来る人を、いつでも診てくださりきよめてくださるのです。

 イエスを信じる者は、十字架の血潮により全身はきよめられています。でも毎日足が汚れるのでイエスに洗い続けていただく必要があります(ヨハネの福音書13:10) 自分の罪を認めて今日も明日も、イエスに診ていただき、足を洗っていただきましょう。

 律法学者たちのように 自分の義を言い立てるのをやめましょう。 キリストは、罪人を救うために来られました。

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 「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように」(詩篇51:12)

 キリストは、罪人を救ってくださる方です(Iテモテ1:15)。

 罪を認めてキリストに救いを求めるなら 救いの喜びが与えられます。

 救いの喜びを経験した者は、喜んで神に仕える者となります。

 でも 時間が経つと 様々なことでその喜びが失せてしまう時があります。

 神との距離を感じてしまう時があるのです。

 ダビデの場合は 実際に罪を犯し、喜びが失われ心が枯れ果てていきました。

 神との関係回復を願って、その赦しときよめを神に求めました。

 そして いつしか失われていた「救いの喜びを、私に返してください」「生き生きとした神との親しい関係を回復して、喜んで主に仕えることができるようにしてください」と祈り求めます。

 「救いの喜び」が、主に仕える根底にあります。

 今救いの喜びがありますか?喜んで主に仕える気持ちがありますか?もしもそれを失って主との間に隔てを感じるなら、霊的に枯渇している状態です。

 「救いの喜びを返してください」と真剣に祈りましょう。

 そして聖霊が、 仕える喜びで満たしてくださるように祈り求めましょう。

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 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」(Tテモテ1:15a)  

 新年おめでとうございます。

 イエス・キリストは、罪人を救うために世に来られました。

 「自分のような汚れた者は神に近づくことができない」と思う人を救うために来られたのです。

 キリストを信じてからもそのような思いになる時があります。

 しかし立派になって自分を整えてから神の前に出ようとしていたら、いつまでもこの救いはわかりません。

 調子が悪い時ほど、罪でボロボロだと思う時こそ、こんないい加減な信仰でどうしようもないと思う時こそ、キリストの元に行くなら、「このような自分をも救ってくださるキリスト」だとわかります。

 クリスチャンは、自分の義(正しさ)で立つのではなく、キリストの義で立つものです。

 「キリストが私たちにとっての義と聖めと贖い」となってくださったのです(Tコリント1:30)。

 どのような状態であっても、そのままでキリストの元に行きましょう。キリストが私たちを恵みによって変え続けてくださいます。

 今年のテーマは、「罪人のための救い」です。

 目標は

 @ 罪を認めてキリストを求めよう

 A キリストに罪赦された者として交わろう

 B 罪人を救ってくださるキリストを伝えよう

 です。

  「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」(Tテモテ1:15)ことを、あらゆる時に思い起こしましょう。

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